神谷冬子 後編
ドアを開くと店内に鈴の音が響いた。いらっしゃいませ、明るい声で冬子を出迎えてくれたのは小柄な女性店員だった。落ち着いた服装にエプロン姿、一見高校生にも見える。
「お一人ですか?」
「あ、はい。」
凹んでいる冬子には眩しい笑顔だった。気後れして素っ気ない返事になってしまった。そんな冬子の心情なんて知るよしもない女性店員は笑顔を崩さずに、こちらへどうぞ、と冬子を店内へ促した。
テーブルも空いていたのだが、カウンターに案内された。冬子は女性店員の案内に従って椅子に座る。なんだかソワソワしてしまう。
「こちらがメニューです。」
冬子の眼の前にメニューが置かれた。何も言わずに軽い会釈で答えると女性店員は立ち去っていった。店内をぐるりと見渡す。落ち着いた雰囲気の店内。お客さんの数は少なく、キッチンの中では無精髭の男性が作業をしていた。不意に男性が顔を上げた。冬子はサッと目を反らしてしまった。
なんてことはない、冬子は人と目を合わせるのが苦手なのだ。
冬子はすぐにメニューを開いた。グランドメニューと書かれたそれにはアンティパスト、プリモ・ピアット、セコンド・ピアット、ドルチェの順に書かれていた。純喫茶やカフェ、バルよりもビストロやトラットリアに近いメニュー構成だ。
メニューを一通り目を通した。アンティパスト、前菜だけではおそらく満たされない。そうなるとプリモ・ピアットかセコンド・ピアットを選択すべきだ。しかし、セコンド・ピアットにかかれているのは肉料理や魚料理だ。食べたいとは思うのだが・・・少しばかりお値段が高い。就活中の冬子の財布にはあまり優しくない金額である。そうなると選べるのは必然的にプリモ・ピアットの中から一品だけ。冬子は自分の好みと照らし合わせて見た。数品ある中ではゴルゴンゾーラのクリームニョッキが妥当だろう。
注文が決まった冬子はメニューから目を離した。顔を上げて店員さんを呼ぼうと顔を上げて振り返った。女性店員は少し離れた場所に居る。声をかけようか迷っていると。
「お決まりですか?」
男性の声。カウンターの向こう側から無愛想な男性が冬子を見ていた。
「あ、はい。」
返事はしたけれど、なんとなく視線を落としてしまった。無精髭で無愛想な男性店員が怖かった訳じゃない。あくまでなんとなく、そんな言い訳を自分にした。
「それじゃあ・・・。」
そこまで言いかけた時、本日のおすすめと書かれたメニューに目が止まった。そう言えばこれはまだ見ていなかった。そこにもプリモ・ピアットの記載がある。数秒で目を通す。
「アマトリチャーナ、これってどんな?。」
「アマトリチャーナですか?まぁ、簡単に言えばベーコンと玉ねぎのトマトソースですよ。使うチーズは手に入る物で作っているので本場の物とは少し違いますが、食べやすくなっていると思ってください。」
無愛想は相変わらずだったけれど男子店員の声は優しかった。ベーコンと玉ねぎのトマトソース、簡単に説明するとそうなるらしい。だけど、ベーコンと玉ねぎのトマトソースなら冬子だって家で作れてしまう。これをおすすめで提供するのであればさぞ自信があるのだろう。それに本場とは?特殊な名前が着いているのだから美味しいに違いない。
「それでは、それをください。」
冬子はアマトリチャーナを注文した。ゴルゴンゾーラのクリームニョッキは別の機会に。
男性店員は、かしこまりました、それだけ告げて作業を開始した。パスタが出来上がるまで少し時間がある。またボーッとしてしまい、そんな時は決まって悪いことばかりが頭の中をグルグルしてしまう。最近の悪い癖である。また溜息が漏れる。疲れた、何もかもうまくいかない今を思えば気持ちだけが疲弊していた。
まだ年齢的には若いとは言え、今までの生活を考えれば就活に苦戦するだろうと思っていた。それでも、ここまで内定を貰えないとは。
「何もできないから当然か。」
呟くような言葉が口から漏れた。しかし、非常にネガティブワードだけど、それは決して嘘ではない。機械オンチだからパソコンも扱えない。ウェブ関係やシステムエンジニア、動画編集の仕事はまずできない。教えてもらえればとも考えたけれど、企業が欲しい人材は主に即戦力で、全くの初心者は相手にすらしてくれなかった。体が小さいので力仕事はできないだろうし。それなら飲食店でとも考えたけれど、いつまでこの仕事ができるのかと思えば先が無いように思えてしまった。
「失礼します。」
女性の声、背後から声をかけられた。知らない間にボーッとしていた冬子は我に返った。カウンターに置かれるグラス、中に入っているのは水だろう。僅かばかり水面が揺れていた。
役目を終えた女性店員はすぐに立ち去っていった。キッチンを見れば男性店員が慣れた手付きでパスタソースを作っている。見ているだけならすごく簡単そうだ。あれくらいできるようになるまでどれくらい頑張ったのだろうか?冬子も少しばかりキッチンに入った事があるのでその難しさは分かっているつもりだ。作業として料理を作れても、本当にこの味で大丈夫なのか?この盛り付けで正解なのか?お客さんに提供して本当に大丈夫なのか?最初は言われるまま動いていたが、何も言われなくなくなると途端に自信をもって提供できなくなってしまった。一、二回注意を受けるとなおさらだ。それに、次から次に注文が入ると気持ちばかり早って失敗するし、失敗しないようにペースを落とせば時間がかかりすぎる。キッチンに入っていた頃、毎日泣きたい気持ちになっていた事を思い出した。だからって接客の仕事も常に周りに気を配らねばならない。仕事ができる人と比べると自分のレベルの低さを痛感してしまう。これでは歳は重ねても学生時代となんら変わらない。
私の得意な事ってなんだろう・・・何度考えてみても頭の中には何も浮かんでこなかった。
冬子の口から本日何度目かの短い溜息が漏れた。グラスを手にとって水を喉に流し込んだ。そうすればネガティブ思考まで流してくれると思ったのだが。また溜息。落ちた気分が上がる事はなかった。
冬子がグラスを置いた時タイマーが鳴った。すると、男性店員が茹で籠の中身をソースが入ったフライパンへ移した。その後も慣れた手付きでパスタとソースを合わせていく。背中を向けている男性店員の表情を見ることはできない。でも、背中越しにも分かる。彼の動作から真剣さと楽しさが伝わってきた。
男性店員の一連の動作を見ていた冬子は、私もこうなりたい、漠然とそう思った。料理がしたいとかそんな事では無く、彼のように真剣に楽しく仕事がしたい。きっと彼はこの仕事に誇りとやり甲斐を感じているのだろう。何の取り柄もない私でも、何かそんなものを見つけたい。きっと何かある。無いと困る。いや絶対にみつけるのだ。
暗かった気持ちの中に僅かばかりの光明が差した気がした。
「おまたせしました。」
男性店員が短い言葉を告げる。その後、冬子の前に置かれたパスタは冬子の想像よりも美味しそうだった。冬子は何も言わずに会釈で答えた。
カウンターに置かれていたカゴの中からフォークとスプーンを取り出した。フォークを差し込んでパスタを持ち上げると、解き放たれたように蒸気が立ち上った。パスタとソースがよく絡み、自分で作った時のボソボソした感じはない。フォークとスプーンを使ってパスタを巻いて口の中に運んだ。トマトソースの中にベーコンの旨味と玉ねぎの甘さがあり、少し送れて来る唐辛子のピリッとした辛さがアクセントになっている。そして全体をまとめるチーズ。そこにクドさは微塵もない。
美味しくて頬が緩む。
冬子は決して早食いではないけれど、パスタを口に運ぶ手が止まらず。あっという間に完食してしまった。フォークとスプーンを揃えて皿の上に置く。もっと食べたいと思う。だけど、満足感が欲望を上回っていた。グラスに残っていた水を飲むと、熱くなった体に流し込まれる冷たい感覚が心地よい。同じ水とは思えないくらい美味しかった。
冬子は一つ息を吐いた。満足感が口から漏れ出たような心地よさ。溜息以外で息を吐いたのは何時以来だろう。もはや思い出す事すらできない。
冬子は顔を上げて男性店員を見た。
「ごちそうさまでした。」
突然声をかけられた男性店員が顔を上げた。相変わらずの無表情。でも、冬子の顔を見た彼の口元が僅かに緩んだ。そして、一言だけ。
「お粗末様でした。」
冬子は会計を済ませて店を出た。
外はすっかり暗くなって風は冷たい。しかし、冬子の気持ちは少し明るく、前向きになっていた。ここから家まで数分の距離だ。火照った体を冷ますにはちょうどいいだろう。
冬子は少し軽くなった足取りで帰路についた。
思い出の味 田子錬二 @tamukai
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