第31話 樹海神域④
眼前にイスカがいた。
最後に見たときより少しだけ凛々しくなった気がする。前はもっと頼りなさそうだったのに。
これまで彼が歩んできた道のりの厳しさを思う。傷だってたくさん負ったに違いない。
ミズカはイスカの胸に頭を預けた。一番深い傷はきっとここにある。自分が負わせた傷だ。自分はイスカにひどいことをしたのに、イスカは見捨てることをしなかった。こうして、来てくれた。
お父さんのこと、傷をつけたこと、謝らなくてはいけないことがたくさんある。お礼だってもちろん言いたい。
「ごめんなさい……ありがとう」
思いの大きさにつり合う言葉が見つからない。結局それだけ言うのが精一杯だった。
イスカはためらいがちにミズカの肩を抱く。
「戻ってきてくれて、よかった」
イスカの顔を見上げる。やさしい微笑み。
思えばイスカは最初からやさしくて、誠実だった。嘘偽りのない、それはミズカが初めて触れた種類の優しさだった。
この笑みに、少年の誠実さに応えよう。決意を示そう。
「イスカ、わたしは戦う」
その言葉を待っていたかのように、ミズカの胸から青い光が抜け出した。光はイスカが持つ神樹の杖に吸い込まれるように消えていく。そしてイスカの胸からも赤い光が抜け出し、神樹の杖に消えた。
『ミズカのことを含め、礼を言わなくてはいけないな。ありがとう、イスカ。これでようやく、わたしたちはひとつに戻れる』
ソフウの声が響いた。イスカはミズカを見るが、ミズカも首をかしげる。
「戻るって、ソフウ、どういうこと」
『わたしたちは、わたしたちを殺めた人間をどうしても許すことができなかった。その一方で、人を愛おしみ慈しむ心も失ってはいなかった。相容れぬ感情は、わたしたちを二つの魂に分けた』
「もしかして、怒りの方がソウライ?」
『逆さ。怒っていたのはわたしだよ』ソウライではなく、ソフウが言った。
「でもソフウ、あなたはやさしかったよ」
『イスカよ、おぬしはわたしをやさしいと言うのか 』
「もしかして、自分じゃ気づいてなかったの?」
『様々な天代と接している内に、怒りは風化していったのでしょう。でなければ、人間に手を貸そうとは思いもしなかったはずです』
そう言ったのはソウライだった。
『ふん。素直に認めるのはなんだか癪だが、その通りかもしれん』
「わたしや歴代の天代がしてきたことは、無駄じゃなかったんですね」
ミズカがぽつりと言った。ソフウの怒りが消えたというのならば、トウガの天代が積み重ねてきたものは確かに結実したのだと思う。
『ミズカ』
「はい、なんでしょうか、ソフウ様」
『いままで、ありがとう』
「……わたしは、お礼を言われるようなことなんて」
『おぬしはわたしが知る天代の中でも一、二を争うくらい印象に残ったぞ。楽しませてもらった。歌の下手さとかな』
「そ、ソフウ様!」
「歌?」
「イスカは知らなくていいから!」
『ふふ。さて、もう少しおぬしたちを見守っていたくもあるが、わたしたちはそろそろ帰らなくてはいけない』
「帰るって、どこに?」
『わたしたちには翼がある。ならば、あるべき場所は一つしかあるまい。さぁ、帰ろうか、ソウライ』
『ええ、元のわたしたちに。そして、懐かしい場所に。……イスカ、ミズカを頼みましたよ』
『イスカ、おぬしと過ごした時間、悪くなかった。わたしたちのミズカを泣かせるようなことはしてくれるなよ』
神樹の杖から赤と青の光が飛び出した。
光は対になって舞でも舞っているのかのように、くるくると回りながら上昇していく。やがて光は溶け合い、ある一つの形になった。
大きな、鳥の姿だった。
優美な翼の風切羽から、光の結晶が舞い散る。
一つになったソフウとソウライは、この上もなく美しかった。息をすることも忘れ、イスカとミズカは大鳥の姿に見惚れる。
上昇を続け、神大樹の枝を突き抜けた光る大鳥は夕焼けの空に消えていく。
たしかに彼女があるべき場所は一つしかない。
どこまでも広がる、悠久の大空だ。
空を見上げているイスカとミズカの身体を風が撫でていった。ひんやりとした、触れるともの悲しくなる寂寥感を帯びた風だった。
「
そんな声に、イスカとミズカは意識と視線を地上に戻す。
声を発したのはフウエンだった。周りには、天代守たちもいる。樹海に散っていたのが、神使を見て集まったのだろう。その内何人かは、倒れた襲撃者に縄をかけている。イスカはとっさにクレノの姿を捜す。クレノは忽然と消えていた。
「首領格らしき男と、少年一人には逃げられた」
イスカの視線に気づいたのか、フウエンが言った。
「もしかして、少年はおまえの知り合いか?」
「大切な友人です」
「……そうか。だが、ひとの心配をしている場合ではないぞ」
イスカとミズカの周囲を、天代守が取り囲む。
「天代守トウガ群、イスカ。天代発見、ご苦労だった。こちらに引き渡してもらおう」
鋭い目つきをした男が高圧的な口調で言った。ある程度、予想がついていた言葉だった。
「断る」とイスカは決然とした態度で、ミズカをかばうように前に出る。
「なんだと?」
「ぼくは社守様からミズカ様を発見するように指示された。けど、見つけた後のことまでは指示されていない。だからここからはぼくの裁量でやらせてもらう」
「ふざけるな。一天代守が何を言う」
「もしミズカ様を渡したとしたら、あなたたちはミズカ様をどうするつもりだ」
「……きさまには関係ない」
男の様子から、決していい扱いをしないであろうことは充分に察することができた。
「天代守は天代を守ることが使命じゃないのか」
「場合によっては天代の命よりも優先すべき事がある。わかるだろう」
男は臆面もなく言い放った。犠牲の理屈は、もうたくさんだった。
「だったらぼくは、天代守なんて辞めてやる」
言うなり、イスカは腰の小太刀を鞘ごと引き抜き地面に放り投げた。真に守りたいものを守れないのならば、天代守の立場など捨てても構わない。
「そういう態度に出るならば、きさまを異端者と見なすが、いいか」
男が右手を挙げる。天代守たちが一斉に剣を構えた。よく統率が取れている。構えにも隙がない。精鋭の天羽だ。数は確認できるだけで五人。伏兵もいるかもしれない。
「事を丸く収めるためには、あなたたちについていくのが一番いいのでしょう。わたしの命で、少なくともイスカは救える」
後ろから聞こえてきたミズカの声にはっとして、イスカは振り向く。強い覚悟を持ったミズカの顔があった。
「以前のわたしだったら、間違いなくその選択をしていた。でも、わたしは戦うと決めたの。むざむざと殺されはしない。あがいてやる」
ミズカはイスカの隣に並び、剣を抜き放つ。宝剣が夕暮れに輝く。
「ミズカ様……」
剣の切っ先は震えていた。ミズカの身体も。
「イスカ。今更だけど、わたしの戦い、手伝ってくれますか? 一緒に戦ってくれますか?」
ミズカの言葉に、イスカはうなずいた。そして天代守たちを睨みつける。
身体の奥底から無限に力が湧いてくる気がする。それはきっとミズカと神使がくれた力だ。相手が誰だろうと、何人いようと、絶対負けない。
「落ち着け。おまえたち、そういきり立つな」
一触即発のイスカたちを諫めたのはフウエンだった。イスカたちと天羽の真ん中に割って入り、両手を広げる。
「どういうおつもりですか? 殿下」
「殿下って……え?」
驚くイスカをよそにフウエンは、
「そなたたちも見ただろう。神使は天に帰った。もはやこの娘の中にはいない」と告げる。
「そしてイスカだ。この少年は危険も顧みず、敵のまっただ中に飛び込み、天代を無事助け出したのだぞ。その功を無視し、反逆者扱いをするのか」
男たちは何も言わなかった。フウエンの出方をうかがっているようだった。
「両者とも丁重に扱うべきだ。そなたらには任せておけん。よってイスカ、ミズカ両名の身柄は、アキツ国第三皇子であるこのフウエンが預かり受ける」
「な……いくら殿下でも、そのような」
「なんだ、文句があるなら聞くぞ」
男の言を遮り、フウエンは腰の剣に手をかけた。
「く……このことは、上に報告させてもらいます」
「おお、好きにしろ。放蕩皇子のわがままとでも言うがいい」
「引き上げるぞ」
男の指示の元、天代守たちが引き上げていく。
「あの、フウエンさ、……殿下」
「殿下はやめてくれ。今まで通りでいい」
フウエンは顔をしかめて、手を振る。
「じゃあ、フウエンさん。皇子、だったのですね」
「まぁ、な。一応、そういうことになる」
驚きはしたが、言われてみればその風格に納得するところもある。イスカは片膝をつき、頭を垂れた。
「一度ならず二度までも窮地を救って頂いたこと、誠に感謝いたします」
「わたしも、感謝いたします」
ミズカもイスカの隣に膝をつく。
「よせ。そういう堅苦しいのは嫌いだ。……だから言いたくなかったんだ」
フウエンはぼそっと言う。それから、立ってくれとイスカとミズカを立たせて、
「これはおまえたちが勝ち取った結果だ。おれは手助けをしたに過ぎん」
「ですが……」
「おれの仕事はこれからだ。神問省の奴らと折り合いをつけんといかん。他にも進言したいこともあるし、父上に会ってくる。悪いが落ち着くまで、おまえたちはユサナの所にいてくれるか。ひとまず送っていくから」
「そんな手間を取らせるわけには。ぼくはミズカ様を連れて……」
「なんだ、二人でどこかに逃げようとでも考えていたのか」
図星だった。
北や南には朝廷の支配の及んでいない地域がある。ひとまずそういった場所を目指そうと思っていたのだ。
「昔のおれと同じ事を考える」
「え?」
フウエンは首を振り、
「ここはおれの顔を立てると思って、ひとまず言うことを聞いてくれないか?」
イスカはミズカに向き直る。肝心のミズカの意見が聞きたかった。
「ミズカ様はどうしたいですか?」
ミズカは微笑み、
「わたしは、イスカの望むままに」
ミズカを連れて逃げるか。フウエンの庇護下に入るか。この笑みを保つためにはどちらがいいかなど明白だ。
ずっとミズカの近くにいたいというわがままを押し通す気は、ない。
「わかりました。フウエンさん。よろしくお願いします」
「うん、任せてくれ。話を聞いてくれてよかったよ」
「……でもフウエンさん、どうしてそこまでしてくれるんですか?」
単純なことだよと、フウエンはどこか寂しそうに笑った。
「天代のことで誰かが哀しむのは、もうたくさんだからな」
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