第29話 樹海神域②

「ミズカ様……」

 イスカは少女の名を呼び、駆け寄ろうとする。

『イスカ!』

 ソフウの警告、イスカは足を止める。

 直後、眼前を矢が通り過ぎていった。樹上に射手がいたらしい。身体が反射的に脅威に反応した。投擲用の短剣を抜き、矢が飛んできた方向に投げつける。くぐもったうめき声、枝を折り人が落下するのが見えた。

 生死を確認する間もなく、背後に殺気を感じる。振り向きざま、刃が振るわれた。身を屈めて避ける。体勢を整え、反撃しようと杖を構えたところでイスカは動きを止めた。相手も追撃してこなかった。お互い、相手の顔を見て凍りついたように固まっていた。

「イスカ……?」

「クレノ……?」

 死んだはずの、親友だった。

 束の間、イスカは状況を忘れた。喜びが胸からこみ上げてきた。親友に再び会えたことが、ただ嬉しかった。

「生きて、いたんだ。……よかった。本当に、よかった」

「おれもおまえが生きていてくれて嬉しい。けど、イスカ、おれは」

 しかし、再会をゆっくり喜ぶ暇はなかった。

 木々の陰から、武装した男たちが次々と姿を現す。武器はどれも天代守が使用している物だった。どうやら奪った武器らしい。

 男たちの一人は肩を押さえていた。先ほど矢を射かけてきた者のようだ。その男が剣を抜き放ち、有無を言わさず斬りかかってきた。イスカは身体を逸らして斬撃をかわし、両手で握った杖を相手のみぞおちに突き入れる。男は声もなく地面に崩れ落ちた。

「待ってくれ!」

 攻撃態勢に入った襲撃者たちを、クレノが制した。

「クレノ、どういうこと?」

 油断なく杖を構えたまま、イスカは尋ねた。

 男たちはおそらく大社を襲った連中で、そいつらとクレノが一緒にいる理由がわからない。そして、ミズカとの関係も。

 ミズカは神大樹の前に佇み、幹に手を当てている。こちらの騒動など目にも耳にも入っていない様子だった。

「ミズカ様はどうしたんだ?」

「ソウライは、神獣を解放しようと神大樹を揺さぶっているところだ」

『なんだと、あの馬鹿。何を考えているのだ!』ソフウが怒鳴る。

「ソウライ? ミズカ様本人は?」

「ミズカ様は深く傷ついて眠っている。……父親に、殺されかけたんだ」

「父親に……?」

「そうさ。神使に憑かれた娘を、せめて自分の手で葬ってやりたかったそうだ」

 あまりのことに、イスカは胸を衝かれた。

 少しくらい、報われたっていいはずだ。

 普通の人間が普通に送ることのできる生活を犠牲にし、天代を務めてきた少女なのだ。なのになぜ父親にまで命を狙われなくてはいけないのか。親というのは真っ先に子供を守るべき存在なのではないか。ひどい裏切りだ。

「おれの失敗だよ。自分ばかり優先して、ミズカ様のことを考えなかった。……その時、黒指衆にも襲われたんだ。一人じゃどうにもならないところを、この人たち、まつろわぬ民に助けてもらったのさ」

 クレノは視線を襲撃者たちに向ける。

「その恩だけが理由じゃないけど、おれとソウライは神獣解放に協力することにした。だからここにいる。神使に復讐しようとして、しそこなって、どうしたらいいかわからなくなって、結局行き着いたところがここだった」

「復讐って、父さんたちの?」

「もちろん、頭領たちの分もあるけどな」クレノは寂しげな笑みを浮かべた。

「おれはもう人間じゃない。いっぺん死んで、神気の力で甦った妖鬼なんだ」

「……冗談はやめてくれ。クレノはクレノのままじゃないか」

「冗談で言えることかよ」

 祭りの夜の言葉。あの時と同じく真剣な顔で、クレノは言った。

『残念だが真実だ。あの者から、神気を感じる』

 追い打つようにソフウが言った。

 イスカはクレノが倒れるところを見た。息をしていないことも確かめた。クレノは間違いなく一回死んだのだ。そして、甦った。ひとではなく、妖鬼として。

「みんなを殺して、おれを人間じゃないものにした神使が、ソウライが憎かった。だけど……」

 クレノは首を曲げ、ミズカを見やる。

「あいつはあいつなりに必死なんだ。まるで自分の子どもみたいにミズカ様のことを思ってる。方法とか、無茶苦茶だけどな」

 息を吐き出し、クレノはイスカに向き直った。

「なんかなぁ、わからなくなったんだ。憎いとかいう気持ちも、どっか行っちまった」

「だから、クレノはまつろわぬ民に手を貸すの? ソウライと一緒に?」

「……結果的に、そういうことになる」

 煮え切らない、クレノらしくない言い方だった。

「でも、ぼくたちの敵だよ」

「朝廷が望む調和から外れたものって意味なら、おれもまつろわぬ民と同じだ。だからもう、敵じゃない」

 いつも自信に満ちあふれていたクレノはもういなかった。いるのはただ、何かを諦めてしまった少年だった。

 再び大地が揺れた。今度は先ほどよりも大きい。振動に呼応するように、ミズカと神大樹が淡い光に包まれる。

『イスカ、もうあまり時間がない。樹が爆ぜ、下に眠る神獣が出てきたらおそらくすさまじい天変地異が起きる。アキツ全体の均衡が崩れ、大勢の人々が巻き込まれることになるぞ。早くミズカからソウライを引き離さなくては!』

 事態の移り変わりに頭がついていかない。気持ちの整理だってひとつもついていない。だが、自分がするべきことははっきりしている。

 なんのためにここに来たのか。なんのためにそれをするのか。意を決し、イスカは言った。

「クレノ、ぼくはミズカ様からソウライを祓う。通してくれ」

 イスカがその言葉を口にした途端、まつろわぬ民たちが一斉に襲いかかってきた。イスカに動揺も躊躇もない。人間と戦う覚悟はとっくにできていた。

 二人の男が挟むように時間差で左右から迫る。まずは右、剣の一撃を避けざま、イスカは男の足を杖で強打し転倒させる。石突きで武器を持った腕を突き、折る。よどみない動作で、左手側の男に短剣を投げつける。男は剣で短剣を打ち払う。わずかな隙に一気に間合いを詰め、イスカは男の顎を掌底で打ち抜いた。白目をむいて男が倒れる。

 感覚が異常なほどに研ぎ澄まされていた。身体にたたき込まれた技能を十二分に使用することができる。

 かつてない集中力。敵の反応、自分の反応。どう動けば効率よく敵を倒せるか。このときばかりは、自分に戦闘技能が備わっていることに感謝する。

 二人の男が弓に矢をつがえているのが目に入った。身を低くしたイスカは前に転がりながら、放たれた矢をかわす。素早く体勢を整え、弓を捨て剣に持ち替えようとしている男の腹を杖で突く。男が前屈みになったところで、がら空きの首筋に肘を打ち込む。その一撃で気絶した男の身体をもう一人に向けて押しやった。男はわずかに躊躇するが、抱きとめることはせず、身を逸らしてやりすごす。その一瞬で充分だった。横に回り込み、両手で持った杖で男の脇腹を突く。ひとたまりもなく、男は悶絶し地面に倒れ伏した。

 鼻から息を吸い、口から吐き出す。呼吸を整え、イスカはクレノたちを見やった。クレノを除けば、残りは後一人。体力は消耗しているが、まだまだ戦える。

「……天羽を退けた者たちだぞ。それを一人で。なんなのだ、あの少年は」

 戦闘には参加していなかった中年の男が呆然と言った。

「おれの友達だよ」とクレノは応える。

「友人ならば説得できないのか」

「無理だな。ああ見えてあいつ、頑固だから」

 小太刀を抜き、クレノは前に進み出る。

「どうするんだ」

「イスカと戦う」

 クレノの言葉を受け、イスカは杖を構える。ミズカを助けたいという気持ちはクレノと戦いたくないという気持ちに勝る。ここまで来て退くわけにはいかない。

「何があったんだ。模擬戦ですら厭っていたイスカとは思えないな」

「鎮めの儀の日、ぼくは剣で胸を貫かれた」

 イスカの言葉に、クレノは片眉を持ち上げた。

「死にかけたぼくを救ってくれたのは神使だった。いま、ぼくの中にいるソフウだ」

「おまえの中に神使が……。トウガのもう一柱か」

「ミズカ様を助けるって約束したんだ。だからぼくは戦う。相手がクレノでも」

「そうか」クレノは寂しげに微笑した。

「本当なら二人とも死んでいたかもしれないのに、こうして刃を交えることになる。不思議なもんだな」

「他に、道はなかったの?」

「さぁな。あったのかもしれないが、おれは見つけることができなかった」

「どんなときでも、最善の手を見つけて選び取ることができるのがクレノじゃないか!」

「……おまえはおれを買いかぶりすぎだ!」

 言うなり、クレノが斬りかかってくる。

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