第23話 フウエン

 社の縁側で湯飲みを持ってぼうっとしている男性は、フウエンが最後に見たときから少しだけ老けたようだった。馬を降り手綱を引きながら、フウエンは男性に近づく。

「久しいな」

 いまはトウガの社守を務める男性は、フウエンを認めると親しげな笑みを浮かべた。

「これは。お久しぶりです、殿下」

 殿下と呼ばれ、アキツ国第三皇子であるフウエンは顔をしかめる。

「殿下はよせと言ったはずだ。忘れたのか。もうろくする歳でもないだろう」

 フウエンの軽口に、社守は苦笑した。

「失礼しました、フウエン様。久方ぶりなので、つい。して、どのような御用向きですか?」

「そなたの顔を見に来た」

「また、お戯れを。わたしのしょぼくれた顔を見てどうされるおつもりか」

「トウガの天代が神使ごといなくなったと聞いてな。心配になった」

 もたらされた天代逃亡の報を聞き、情報収集とかこつけてシュンセイの御所を飛び出してきたのだった。

「そうでしたか……。お心遣い、痛み入ります。わたしは大丈夫です。……おまえたち、お客様だよ」

 社守が呼びかけると、一人の社女が姿を現した。庭に降りフウエンに近づくと、

「馬屋にお入れしましょう」と手を差し出した、

 フウエンはうなずくと、手綱を任せた。

「頼む。気性が荒い奴だから、気をつけてな」

「心得ました」

 馬は暴れることなく社女に従い、大人しく馬屋へと引かれていく。

 巧みな手綱捌きだった。見事なものだとフウエンは感心する。あの馬を手懐けるのには、相当苦労したのだが。

「いい馬ですね」

 社守が言った。フウエンは社守の隣にどっかと腰を下ろした。

「軍馬にしたいらしいが、なかなかうまくいかないようだ。気むずかしくて、並の兵士では御しきれん」

 その言葉を聞いて、社守は表情を曇らせた。

「もしや、神気を浴びた馬ですか」

「そうだ。聖域の近くに作った牧場で育てている」

 第一皇子、つまりフウエンの兄が考案し、作らせた施設だった。

 神気を浴びた生物の利用という、以前誰かが思いついたとしても、決して実行はしなかったことを野心家である兄はやった。

 生命をもてあそぶような行為にフウエンは薄ら寒いものを感じているが、何を言ったとしても兄は聞き入れないだろう。皇族のはみ出しものであるフウエンは、優秀な兄の眼中には入っていない。

「なぜ、そのような馬を」

「失敗作として持てあまされて、処分されるところをおれがもらった。悪いか?」

「……いいえ、そういうことならば」

 そこで、さきほどとは別の社女が湯飲みと饅頭を載せた盆を持ってやってきた。側に手際よく並べる。

 湯飲みの中身はほうじ茶だった。トウガのほうじ茶は美味で知られている。

「ありがとう」と顔をほころばせフウエンが礼を言うと、社女は微笑し奥へと下がっていった。

「ご立派な心がけと存じます」

 社守は言った。フウエンはほうじ茶をすすって、

「そなたのしたことに比べたら、ぜんぜんたいしたことじゃない」と言った。

 社守は黙って首を横に振る。

 この社にいる四人の社女は、元は密偵だった。

 神問省が設立した孤児院出身だ。

 孤児院が裏で素質のありそうな孤児を選び出し、様々な教育を施していることを知るものはごく一部だった。

 諜報活動だけではなく、必要であれば殺人すら行う特殊技能集団、黒指衆こくししゅう

 名の由来は指に焼き付けられる刻印からである。

 国内の動向に目を配り、治安を守るための必要悪だと言ってしまえばそれまでだが、フウエンはそのやり方が気に入らない。

 そして、社守はそんな神問省のやり方に異を唱えた。

 任務に嫌気が差し、脱走して捕まった四人の少女たちをかばい、本来なら処分されるところを養子として引き取ったのだ。

 当時の権力があればこその手段だった。いまの社守に、かつての力はない。

 フウエンは思う。

 見知らぬ人間の命を預かり、責任を背負う。

 政を行う人間であれば当然できなくてはいけないことだが、いまの宮中にそれができる人間がどれだけいるか。

 もっとも、一応は武官扱いではあるが宮中と距離を置いて、国内の情勢把握を名目に放浪ばかりしている自分が言えたことではないのだが。

 フウエンは饅頭をかじる。中にはさつまいも餡が入っていた。やさしい甘さが口の中に広がる。飲み込んで、

「そなたの実の娘にも会ってきた」

 他でもない、ユサナのことだ。社守は表情も変えずに、

「どうでしたか」と尋ねた。

「元気そうだったよ。ユサナは良くも悪くも昔のままだ。おれのことも子ども扱いさ」

 幼い頃のフウエンは母や侍従たちが持てあますほど癇の強い子供だった。

 暴れれば暴れるほど、周りの愛情が遠のいていき、それが嫌でまた暴れる。悪循環だった。

 臣下の手前、厳しい態度を崩せなかったものの、密かに心を痛めていた天子は、一時、フウエンを宮中から引き離すことにした。そうすれば少し落ち着くのではないかと考えたのだろう。

 軍の練武所や神問省の修練所に放り込むという選択だってあったろうに、それをしなかったのはおそらく父としての甘さだ。

 検討の末、預け先として選ばれたのが社守の家だった。

 社守の妻は皇后の遠縁であり、社守は当時、神問省の上級官吏を務めていた。朝廷の中枢に近すぎず、遠すぎずの距離である。天子の苦悩がうかがい知れる選択だった。

 社守の家族は、フウエンを暖かく迎えてくれた。

 皇子だからといって特別扱いせず、悪いことをしたら叱るし、手伝いをしたら褒めてくれる。初めてひとの温もりというものを知った。

 幸せだった。

 ユサナが天代として選ばれ、連れ去られるまでは。

 朗らかな人柄だったユサナの母はふさぎ込むようになり、やがて娘の顔を再び見ることなく病で逝った。

 社守は天代を輩出したことによりさらなる出世の道もあったのだが、それを蹴って、シュンセイから見れば田舎であるシュウカ領トウガ地方の社守に収まった。競争相手が減ったと神問省の有力者たちは大喜びだったらしい。

 その後、お役目を終えたユサナが社守のいるシュウカ領に来たのは偶然か、それとも神問省のせめてもの温情か、フウエンにはわからない。

「あの時に比べて、だいぶ大きくなったと思うのだが」

 激昂し、ユサナを連れに来た神問省の人間たちに殴りかかったフウエンを取り押さえ、諫めた男の顔を思い出す。

『皇族ならば、どうかこらえてください。規範をお示しになってください』

 リョウブ、とてもつらそうな顔をしていた。

『だいじょうぶ。きっとまた、会えるから』

 対照的に笑っていたのはユサナだった。白い笑顔は、いまでも脳裏に焼き付いている。

 いかんな、とフウエンは息を吐き出した。

 ここに来たのは昔の感傷に浸るためではない。

「神使がいなくなって、村人はどう反応した。そなたのことだ、真実を告げたのだろう」

「隠していいことではありませんからね。少し置いてから、伝えました。最初こそ動揺していましたが、妖獣騒ぎも収まり、いまのところ自分たちの生活にさほど影響がないと知ると、落ち着きを取り戻しましたよ」

 神使がいなくなると、作物の実りが前より悪くなったり、自然災害が増えたりする。

 神樹を通して神気で活性化されていた大地が元の姿に戻るだけなのだが、神使の恩恵を受けていた人々は、それを厳しいものとして捉えるだろう。

「今回の神使はどうだ? 殺害された者は数名と聞いたが」

「以前の事例のように、無差別殺人は行っていません。人間への復讐が目的ではないようです」

 フウエンが産まれる前の事だ。

 何十年も昔、神使に魅入られた天代が神使を解放したことがあった。

 神使は天代の身体を乗っ取り、天代守ばかりか、社があった村の人々を殺して回った。村は壊滅状態となり、地図にも載らない廃村となった。

 神使が天代の身体を乗っ取り、虐殺を行ったという事実は伏せられ、この事件はただ天代の乱心として片付けられた。神使はそんな天代を見限り、天に返ってしまったというのが神問省の用意した表向きの話だ。

 真実を知るものはごく一部で、フウエン、社守はその一部に含まれる。

 幼い天代に対して行っていた特殊な薬物と言葉を使った「教導」を強化したのはこの騒動以後のことである。

 代償として心を病んでしまう天代が増えたが、神問省にしてみれば、同じ惨劇を繰り返さないためには必要なことだった。

 しかし、二度と起こしてはならないはずの出来事が起きた。今回の件は予想外のことではある。だが、神問省の行動は以前とまったく同じだろう。

 すなわち、天代を神使ごと闇に葬り去る。

 フウエンはため息を漏らす。やりきれない。

「……他に懸念すべき事はあるか?」

「防風林がありますが、大丈夫だと思います。大地にしっかり根付いていますから、枯れたりはしないかと」

 お茶を飲んで、「あとは、巡礼者の数が減ってしまいますね。お茶の質を落とさないといけないかもしれません」と冗談めかして社守は付け加えた。

 巡礼者の寄進は社の収入に直結する。

 いくらかは神問省に納める必要があるものの、大部分は社の運営費用となる。中にはそれを利用して私腹を肥やす不届きな輩もいるが、トウガの社守は清廉潔白だ。

「神樹があっても神使がいない聖地では、ありがたみも半減か」

 フウエンは饅頭をかじり、ほうじ茶で流し込んだ。

「まったく、神使だ天代だと、この国はもう充分豊かではないか。いっそ、神使を全部解放して天代の制度など撤廃してしまえばいいのに」

 思わず本音が出た。

 皇族としてあるまじき発言だ。社守は咎めることもなく、ただ茶をすする。フウエンはかゆくもない頬をかき、

「……そういえば、護衛の生き残りがいたそうだな」

「いました。追っ手という形で村を追い出しましたが」

「もしかして、名をイスカと言わないか」

 天羽の小太刀を持っていたので、もしやと思ったのだ。

「ご存じなのですか?」

 やはり、想像通りだった。

「ユサナの所で会った。妖獣に絡まれていたツクバネ村の子供を助けようとしていたよ。怪我をしていたから、ユサナに任せてきた。信用できそうな少年だったし、もし何かあってもリョウブがいるからな」

 かつての責任を感じてか、リョウブは強く志願してユサナ専属の護衛となった。彼以上に頼りになる男など、そうはいない。

「そうでしたか。イスカがあの子と会う……。奇妙な縁ですね」

「しかし、なぜ追い出した? 神問省のやつらに差し出すという選択だってあったろうに」

「わたしがそれをするとお思いで?」

「思わん。だがそなたの立場がまずくなるだろう」

「ご心配には及びません。無駄に歳は取っていませんから」

 権謀術数渦巻く宮中を生き延びてきた男の言葉だから、説得力があった。

「ならばいいのだが。何か考えあってのことか?」

「――可能性に、賭けてみたくなったのです」と社守は小声で言った。

「なに?」

「いいえ、なんでも。ところでフウエン様、神問省はミズカ様を捕らえられそうですか?」

 出し抜けに社守が尋ねてきた。

 まるでその情報も、フウエンならば知っていて当然という訊き方だ。

 道々、神問省の動向を探ってきたのを見抜かれているようだった。

 相変わらず行動を読まれているなと苦笑する。

「手こずっているようだ。ミズカという天代はどうも追っ手を撒くのが上手いらしい」

「妙ですね。逃亡の技術など、学ぶ機会はないはずなのですが」

「神使が知っていたというのも考えがたい。とすると、協力者でもいるのか? だが、見ず知らずの子供の逃亡を手助けする者など……」

 社守が顎に手をやる。考え事をするときの癖だ。

「もし、見ず知らずではないとしたら」

「心当たりがあるのか」

「一人、といっても、本来ならば死んでいるはずですが」

「どういうことだ」

「神樹の側で見つかった天代守の死体が足りなかったのです。獣に持って行かれたと判断し、捜索はしませんでした」

「実は生きていたと?」

「ただ単に生きていたか、それとも……」

 妙な胸騒ぎがした。フウエンは腰を上げる。

「おや、もうお発ちになるのですか?」

「本当ならゆっくり酒を酌み交わしたかったのだが。シュウカの都に行ってみる」

 ミズカの家族がいる場所だ。

 もしかしたらという思いがあった。天代に関して自分ができることなど限られている。それでも、できるだけのことはしなければという、駆り立てられるような気持ちがフウエンにはあった。やはり、ユサナのことで天代には特別な思い入れがあるのだと思う。

「わかりました。フウエン様、どうかお気をつけて」

 うなずき、馬屋に向かいかけたフウエンはふと足を止める。

「また、皆で食卓を囲みたいな。昔のように」

「そうですね。叶うならば」

 言って、社守は昔を懐かしむような、遠い目をした。

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