第17話 ツクバネ村にて③
「では、そろそろ始めますよ」
センゲンの一言で、座敷は静まりかえった。
教本として使われているのは『
アキツ国で一般的な歴史書のひとつを簡略にまとめたものである。紐で綴じられただけの、粗い装丁だ。
アキツ国は四つの領によって成り立っている。
アキツ国初代国主と伝えられている英雄、シュンギョウは、かつてアキツ列島を荒らし回っていた四柱の神獣を大神樹に封じた。
四つの領はその大神樹を中心として分けられている。
神獣を封じる時に使われた神樹の苗は、シュンギョウが国の頂点に立つ天子の証として天から授けられたものだという。
四本の苗はそれぞれ春夏秋冬を司っている。
神獣の神気を吸った苗は大神樹となり、その力でアキツには四季というものができた。千年以上前の出来事と伝えられている。
史料を重んじる文道省の歴史家たちが編んだ黄心樹記では、神話的な要素を含む部分は詳しく触れていない。それでも最低限の記述があるのは、神問省との折り合いの結果だった。
具体的に記されているのは、まつろわぬ民との戦いなどだ。
神獣との戦いに参加した民族の有力者たちはシュンギョウを頭に据え、アキツ朝廷の基礎を作った。
まつろわぬ民とは、朝廷の支配に抗した民族のことを差す。
彼らと戦い、追い払うことにより、アキツ朝廷は国土を広げてきた。
そして、まつろわぬ民が信仰していた、各地の神獣に連なる力ある生物を殺め、神樹に封じ神使として祀ることをした。
神樹が根ざした土地は気候が穏やかになる。同時に大地が活性化し、作物もよく実るようになる。この力によって、アキツ国は栄えてきたのだった。
国が富むことにより、戦を専門とする兵を養成する余力が出てくる。
アキツの軍は強力だ。豊かさを目当てに攻め込んできた大陸の国々を、アキツはことごとく撃退してきた。それらの諸外国は、現在ではよき貿易相手である。
『戦に次ぐ戦。まこと人間とは争いごとが好きな生物だな』
ソフウの言葉はもっともだった。古代アキツの歴史はそのまま戦の歴史だ。いまのアキツが築かれるまで、一体どれほどの血が流されたのか。
朝廷とまつろわぬ民との戦は熾烈なものだったらしい。
現在、まつろわぬ民の多くは離散し、抵抗を続ける者はごくわずかだ。
散発的な小競り合いが時折ある程度で、大規模な戦は起こっていない。彼らと戦うのは軍の兵士だけかというと、そうではない。鎮めの儀を狙って天代を襲撃し、天代守と交戦したという記録が残っている。
イスカはいままで人を殺めたことはないし、殺意を持った『人間』と戦ったこともない。
もしもそういう戦いがあったとしたら、ためらわずに相手を倒すことができるだろうか。
いざその時が来れば手を血で汚すことを厭うかもしれない。妖獣のことは散々殺めてきたくせに。
何を今更と自分の弱気が嫌になる。
これまで無我夢中で戦ってきた。必要だと判断したから武器を取った。戦うことを自分で選んだ。
だったらこれからもきっと、同じように戦っていけるはずだ。敵が何であろうとも。
授業が終わった。座敷が開放的な空気に包まれる。
「イスカにい、この後、暇?」とサギリが訊いてきた。
「特にやることはないけど」
夜までは、と心の中でつけたす。サギリは杖を指さした。
「だったらさ、おれにイスカにいの技、教えてくれないかなあ」
「技って、杖術?」
「うん、それそれ」
「なんでまた」
戦ごっこにでも使いたいのかと思ったが、違った。
「その技を覚えたら、妖獣と戦えるから」
「だめだよそんなの、危ないよ」
横合いからそう言ったのは女の子だった。年はサギリと同じくらいで気の強そうな子だ。
「アザミには関係ないだろ」
ぶっきらぼうに言うサギリに、アザミは頬を膨らませる。
「あるもん」
「なにが」
「サギリが怪我したら、いやだから」
「なんだそれ。わけわかんねえよ」
「二人とも、落ち着いて」と、サギリたちを諫めたのはセンゲンだった。
「イスカの答えがまだでしょう。どうですか?」
答えはもう決まっていた。イスカはサギリに言う。
「悪いけど、教えることはできない」
「なんでだよ、イスカにい」
故郷の村で大猿を仕留めたときの、皆の目が脳裏をかすめる。
イスカの武技は人だろうと妖獣だろうと、交戦相手を確実に仕留めることをひらすら追求したものである。
そこにはたとえば精神を磨くといった、武術の明るい面は欠片もない。
幼い子どもが学ぶには不適当だ。自身が幼い頃から習ってきた技ゆえに、余計にそう思った。
「……ぼくは、人に教えるほど上手じゃないから」
思ったことをそのまま口にはできず、答えは歯切れの悪いものになった。
「そんなことないって。イスカにいは大人よりも、ずっと強いよ」
「強いとか弱いとかじゃないんだ。習うなら、もっと別なものを習った方がいい。もうちょっと大きくなってからね」
「大きくなるのなんて待ってらんないよ。おれはいますぐ強くなりたい。強くなって、妖獣をやっつける」
「やっつけると簡単に言いますが、命のやりとりをするには、相応の覚悟と責任が必要となるのですよ、サギリ」
センゲンが静かに言った。
「覚悟とか責任とか、難しいことはわかんないよ、先生……」
「だとしたら、あなたが力を手にするのはまだ早い」
正論ではある。しかし、子供がすんなり受け入れられるかは別の話だ。案の定、サギリは諦めない。
「でも、森から妖獣が来るってわかってるんだったら、退治しに行かなきゃいけないでしょ。大人がやらないなら、おれがやるよ」
「森には入っちゃいけないって、言われてるでしょ」とアザミが諭すように言った。
「けどさ、このままじゃ何にも解決しないじゃないか。いまはイスカにいがいるからいいけど、いなくなったらどうすんだよ」
サギリが言うと、アザミは困ったように目を逸らす。
「……それは、きっと大人たちがなんとかしてくれるよ」
「その大人が頼りにならないんだよ!」
これにはイスカも一言言わざるを得なかった。
「そういう言い方はよくないよ。きみはいままで大人たちに守られてきたんだから」
「イスカにいまで! いいよもう、みんなしてさ」
言うなり、立ち上がったサギリは足音も荒く座敷を出ていった。
「待ってよ、サギリ」とアザミもその後に続く。
残っていた子どもたちも、それを機にみんな帰っていった。
失敗したかなとイスカは思う。懐いてくれていても、サギリは本当の弟ではないのだ。
「サギリの気持ちも、わからなくはないのです」
しばらくしてから、センゲンは言った。教本に手を触れる。
「このままでいいのだろうか。誰もがきっと思っていることです。しかし……」
「しかし、なんですか?」
「一度固まってしまったものを壊すのは、存外難しい」
「センゲン先生、それは」
イスカが意味を問おうとすると、センゲンはゆるりと首を振った。
「すみません。年寄りの愚痴を聞かせてしまいました」
それからセンゲンはイスカの腰の小太刀に目をやって、
「ときに、イスカは自分の武技に何か引け目でも感じているのですか」と尋ねた。
怯え、恐怖。イスカの戦いを目にした人々の瞳にあったもの。
「……どうなんでしょうか。よくわかりません」
イスカは杖を引き寄せる。
「そもそも、妖獣を倒すためとか、そういう目的で身につけたものではないんです」
「ならば、誰かを守るためですか」
そのはずでした。
言葉にはできず、イスカは心の中で思った。
命を奪い、また奪われる覚悟。そして、力に対する責任。
一体どれほど自覚していただろう。
幼い頃の自分はただ武技を身につければ、それがミズカを守ることに繋がると頑なに信じていた。
ミズカの剣に胸を貫かれた瞬間、その信仰は死んでしまったのだと思う。
身体の傷は癒えた。しかしあの時、剣と共に突き刺さった無力感は、いまも胸の中に残っている。
「どんな種類の力でも、結局は使い手次第。そうは思いませんか」
センゲンの言っていることは、おそらく正しい。
にも関わらず納得しきれないのは、自分の中にわだかまりがあるからだ。折り合いをつけることができていないからだ。
「そうかもしれませんね」イスカは言って、立ち上がった。
「おいとまします。今日はありがとうございました」
「よかったら、また顔を出してください」
学舎を出た。
だいぶ話し込んでいたようだ。もう日が暮れる。
夕焼けの中を蜻蛉が飛んでいく。蜻蛉を追って赤い空に目をやる。秋の夕空はなぜだか高く見える。この空の下、ミズカはどこにいるのだろう。故郷のみんなは元気だろうか。
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