第13話 生き残った者④

 この部屋はこんなにも広かったか。

 クレノと共同で使っていた部屋を見回して、座り込んだイスカは畳んである自分の寝具に背を持たせかける。

 荷物をまとめて、旅の準備をしなくてはいけない。

 まとめるといってもイスカの私物は極端に少ない。旅に必要なものは別に揃える必要があった。あんな事があった後だが、店は開いているだろうか。そうだ。クレノの家も商家だった。顔を出した方がいいかな。ご両親、悲しんでいるだろうな。

 そんなことを考えながら、イスカは反対側にあるクレノの寝具を眺める。

 傍らには釣り具などが雑然と置かれていた。

 多趣味なクレノは、なかでも釣りが特にお気に入りだった。クレノもイスカの祖父に釣りを教わったのだが、あっというまに祖父よりも釣りが上手くなってしまった。それで祖父がむくれていたことを思い出す。

『出立は明日でも構わぬのだろう。しばし休んだらどうだ』

 社守には、明日の昼までには村を出ろと言われている。以降、村に留まっていたら、問答無用で追い出すそうだ。

「けど、もたもたしてたらミズカ様が」

『おぬしは身も心も疲弊しきっている。休息が必要だ。ソウライが憑いていると言っても、少女の足ではそう早く移動はできん。多少遅れたとしても追いつくことは可能だぞ』

 噛んで含めるように、ソフウが言った。

 気持ちばかり焦っても仕方が無い。身体は休息を欲している。わかってはいるのだが。

『おぬしは子どもだ』

「いきなり何だよ」

『子どもは親にあまり心配をかけるものではない。休むのなら、家に帰って休むがいい』

 無意識に、家に帰りたいと思っていたことを見抜かれた気がした。上がってきた報告によれば、イスカの家族は無事とのことだった。父以外は。

「ソフウってさ、所々人間くさいよね」

『ふん。ミズカの話に出てきた人間の真似事さ』

「話?」

『知らぬのか。ミズカは我々にいろんな話をしてくれたのだ』

「そう、だったんだ」

『ミズカの話の中には様々な人間が出てきた。いい奴もいれば、当然いやな奴もいた。だが、どちらかといえば馬鹿みたいな善人の方が多かったな』

 ミズカが書物を大量に読んでいたのは、ソフウたちに語り聞かせるためだったようだ。

「ほんと、ぼくは、ミズカ様のことを何も知らなかったんだな……」


 悩んだあげく、イスカは実家の前までやってきた。戸に手をかけ、なんと言って入ればいいのか少し考える。ただいま、でいいのだろうか。

 悩んでいると、戸が開いた。

「兄さん……?」

 戸を開けたのは妹だった。イスカを確認したヒイナは、肩と胸の布に目を止める。

「怪我しているじゃない。だいじょうぶ?」

「たいした怪我じゃない。平気だよ」

「その怪我、やっぱり妖獣に?」

「まあ、そんなところ」

 ヒイナは消え入りそうな声で、

「兄さん。父さんやクレノたちが亡くなったって、本当?」

 すでに話は伝わっていたらしい。

「残念だけど、本当だ」

 ヒイナの顔がくしゃりとゆがむ。驚くほど幼い顔になった。

「朝はみんな元気だったのに、どうして? 妖獣は滅多に人を襲わないんじゃなかったの?」

 どうやら、父たちの死は妖獣のせいということになっているようだ。

「突然だったんだ。突然すぎて、何もできなかった」

 誰にも、どうにもできないことだった。天災のようなものだった。そうとでも思わないと、やりきれない。

 ぼくにもっと力があれば。

 その言葉を口にすれば、自分は少し楽になれるのかもしれない。けれども、言ったところで終わった時は巻き戻せない。大事なのはこれからだ。力が無いのならつければいい。だから、イスカは言葉を飲み込んだ。

「ヒイナ、どうしたの?」

 と、ヒイナの後ろから声がした。母の声だ。ヒイナは目元をぬぐって、振り返る。

「兄さんが帰ってきたの」

「イスカが?」

 母が姿を現す。その顔は、イスカが恐れていたほど憔悴していなかった。

 昔から母は気丈な人だった。どんなことがあっても愚痴一つこぼさない。いまも、自分がしっかりしなくてはと考えているのだろう。

「母さん……」

「おかえり、イスカ。話なら後でゆっくり聞くから、まずは家に入りなさい。疲れたでしょう」

 母は暖かな笑みを浮かべた。『家』を感じさせる笑みだった。

「うん」とイスカは童子のようにこくりとうなずく。


「それで、イスカは天代を追うわけか」

 囲炉裏端、祖父が確認するように呟く。事情を話し終えたイスカは茶を飲み干して、うなずいた。

「もしもミズカ様を見つけられなかったら、兄さんはもう村には帰ってこられないの?」

 ヒイナが尋ねる。

「そうだね」

「そんなの、あんまりだよ」

「ぼくはミズカ様を守りきれなかったんだから、本当ならもっと重い刑罰を受けてもおかしくないんだ」

「だけど、兄さんまでいなくなったら」

「心配ないわよ。家はわたしが守るから」

 それまで黙ってイスカの話を聞いていた母は言った。揺らぎのない声だった。祖父も頼りがいのある笑みを浮かべ、

「老骨だが、わしだっているぞ」と言った。

 イスカはヒイナの肩にそっと手を置く。

「ほら、ヒイナ、だいじょうぶだろ。だからそんな哀しそうな顔をしないで」

 ヒイナはイスカの手をやんわり除けると、立ち上がり、奥へと引っ込んでしまった。

「まったく、あの子は。イスカの気持ちも考えないで」

「ヒイナはまだ幼い。仕方ないさ」

 ぼやく母に、祖父が言った。母は嘆息し、

「お父さんは孫には甘いんですね。わたしはもっと厳しく躾けられた覚えがありますけど」

「だからお前さんはこんな時でもしゃんとしていられるんだろうよ」

 難しい顔つきをしていた母は、祖父の言葉を聞いて相好を崩した。

「そうですね。さて、夕餉の支度をしないと。今日はイスカの好きなものを作るからね」

「何か手伝おうか?」

「気を使わなくていいわよ。あなたは休んでいなさい」

 言って、母は台所に向かう。イスカと祖父だけが居間に残った。祖父は煙管を取り出し、こなれた動作で火をともした。

 うまそうに煙を吸う。

 しばし喫煙を楽しんだ祖父は側の煙草盆に小気味良い音を立てて、煙管を打ち付けた。何度か繰り返して灰を落とし、新たな煙草を詰める。

「イスカ、ヒイナの所に行ってやれ」

 することもなく、ぼんやりしていたイスカに祖父は言った。

「でも、なんて声をかければいいのかな」

 ただでさえ久方ぶりの帰宅だったのに、加えてこんな状況では何を話せばいいのか。

「しばらく家を離れていた兄が、久しぶりに妹に会ったときのように話せばいい」

「って言われても」

 祖父は皺を深めて笑い、

「何も難しくはない。気負わず、自然に接してやればいいんだよ」と言った。


「ヒイナ、入るからね」

 イスカは言うなり、子ども部屋の襖を開けた。以前は兄妹で使っていた部屋だ。いまはヒイナひとりで使っている。イスカは真っ先に手前の柱を確認した。行灯の灯りに照らされた柱には、背比べで刻んだ傷がある。当時の二人の背丈は同じくらい。イスカが家を出たときから、傷の数は増えていない。

 そして、その時の二人の背丈などとうに追い越し、その分だけ大人に近づいたはずのヒイナは、部屋の隅にある文机に子どもみたいな顔で頬杖をついていた。文机の上には気を紛らわすためなのか書物が置かれているが、視線はあらぬ方を向いていた。

「一番つらいのは兄さんだよね」

 ヒイナは言った。

「わかってるつもりなんだけど、だめだね。自分の感情が先走っちゃう」

 イスカは柱の傷を撫でながら、

「背比べしようか」と言った。

「どうしたの急に。どう見たって兄さんの方が大きいでしょう」

 いまでこそ背丈のあるイスカだが、昔はちびだった。年下で、しかも妹のヒイナと同じくらいだったのだ。そのうち伸びるさと父に言われても、ずっと小さいままだったらどうしようと、真剣に悩んでいたことを思い出す。

「いいから、ほら」

 イスカはヒイナの側まで行くと、強引に手を取って立ち上がらせた。そのまま柱の前まで引っ張っていく。比べると、イスカの方が頭ひとつ分大きかった。

「ぼくの勝ちだ」

「もう、何言ってるのよ。そんなのわかりきったことじゃない」

 ヒイナは困ったように笑う。

「そうだよ、わかりきったことなんだ」

 イスカはヒイナの頭に手を乗せた。

「ぼくはヒイナの兄貴だ。ヒイナより年上で大きい。それだけ、ヒイナよりも我慢できる」

 だから、とイスカはヒイナに笑いかけた。

「ぼくより小さなヒイナは甘えても、泣いてもいいんだよ」

「兄さん……」

 吸い寄せられるように、ヒイナはイスカの胸に顔を埋めた。イスカは妹の背をあやすようにやさしくさする。そうしていると、ひっくり返ってしまったものが少しだけでも帰ってくる気がする。

 なくしたものはある。たくさんある。かろうじて、家族のぬくもりは残った。しかしイスカはそのぬくもりをも手放さなくてはいけない。

 だけれども、いまは、もう少しだけ。

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