第二章
第10話 生き残った者①
――おぬしの名は?
幼い少女は目の前に浮かぶ二つの光に臆したふうもなく、毅然とした態度で答える。
「トウガ天代、ミズカと申します」
少女の残滓が、闇に漂っている気がした。
イスカは上体を起こす。胸に残る痛みに顔をしかめ、手をやる。傷は痕こそ残っているものの、塞がっていた。
『あの子、ミズカは、最初からわたしたちを恐れぬ子だった。怖がったら、わたしたちを傷つけると思っていた』
頭の中に声が響く。辺りは暗闇だった。ここはどこで、自分は何をしていたのだっけ。
『やさしい子なんだ。だがこのままではあの子に幸せは訪れない。だから、助けてやりたい』
「助ける? できるの?」
『おぬしが協力してくれるのならば』
ミズカを助けたいか。答えはひとつしかない。
助けたい。
ぼんやりしていた頭が覚醒する。イスカは意識を失う前の出来事を、すべて思い出した。暗闇を見渡すが、あの赤い光はどこにも見あたらない。
「あなたは、ソフウ?」
『そうだ』
「どこにいる?」
『わからぬか? おぬしの中さ』
「中って……え?」
『おぬしに宿らせてもらった。人間に言わせれば、憑く、ということになるか』
憑く。それはつまり、
『ソウライがミズカに憑いたのとは違う。あれはほとんど意識と身体の乗っ取りだ』
イスカの考えを先読みしたように、ソフウは言った。
『おぬしは
「うん」
『おぬし以外の天代守はどうした?』
「みんな殺された」
『……ソウライの奴、むごいことをする。あやつはそれでミズカのためになるとでも思っているのか』
「ソウライというのがミズカ様に憑いた神使なのか」
『うむ。トウガの神使は二柱。我々は対になる存在なのだ』
イスカはそろそろと立ち上がった。途端、立ちくらみがして、膝に手をつく。
『まだ無理をしない方がいい。傷は塞いだが、失われた血や体力までは補えぬからな』
その言葉で、傷を塞ぎ、イスカの命を助けたのはソフウだったことがわかった。
「あなたはなぜぼくの命を救ったんだ?」
単純に疑問だった。神使が自分を助ける理由などあるのだろうか。
『わたしはミズカとソウライを追わなくてはいけない。だが、わたしだけではこの神樹から出ることはできないのだ。誰かに宿る必要があった』
「なるほど、死にかけのぼくは都合がよかったわけか」
ミズカに憑いた神使と対になる、もう一柱の神使。傷を癒してくれたことは感謝するが、どうにも信用しきれない。自然、イスカの声は険のあるものになる。
ソフウは気を悪くした様子もなく、
『そういうことだな。だが、おぬしを選んだ理由はそれだけではない』
「他に何かあるの?」
『機会があったら話すことにしよう』
気になるが、ソフウはもうそれ以上その話題について話す気はないようだった。
『何にせよ、おぬしとわたしの目的は一致している。不都合はないだろう』
「……そうだね」
神使が自分を利用しようと問題はない。それでミズカを助けられるのならば。
『杖を忘れずに持って行け。いずれおぬしに必要となるものだ』
イスカは闇の中で僅かに光を放っている神樹の杖を拾い上げる。杖は、不思議としっくり手に馴染んだ。
『その杖が無ければ、わたしの声もおぬしには届かなかったろうな』
「やっぱり、この杖を介して?」
『ああ、おぬしの強い思念が、わたしを目覚めさせたのだ』
「目覚めたって」
『情けない話なのだが、ソウライのやつに不覚を取ってな、一時的に意識を眠らされていた。でなければ、みすみすソウライにあんなことはさせぬよ』
「そうか……」
ふと思う。もし、自分が囮になってクレノが杖を拾いに行っていたら、生き残ったのは自分ではなく、クレノだったのだろうか。
洞から出たイスカは、まぶしさに眼を細める。森に差し込む光は、夕刻のどこか物寂しい光に取って代わっていた。冷たい風が身体を撫でていく。
夕暮れの中に倒れた父、親友、仲間たち。
皆、物言わぬ骸となっていた。ミズカが神樹に入る前に突き刺していった鞘が、墓標のように見えた。
昨日の今頃行われていた祭りが、ひどく昔の出来事のように思えた。昨日の自分と今日の自分の隔たりは、あまりに遠い。
父も、クレノも、仲間も亡くなった。神使に憑かれたミズカはいなくなってしまった。
そして自分は神使を身の内に宿して、ひとり立ち尽くしている。
イスカはのろのろと父の骸の前まで行く。
かがみ込み、開いたままだった父のまぶたを閉ざした。
頭でわかっているつもりでも、現実感が追いついてこなかった。短い間に失われたものがあまりに多すぎた。父との別れは、はるか遠くにあるものと思っていた。
子どもの時以来、父とゆっくり話をした記憶はない。イスカが天代守になると決めたその日から、父は父ではなくトウガ群の頭領としてイスカに接してきた。
手合わせで父に勝ったことはない。いつか勝って、認めてもらおうと思っていた。
もう、その機会は永遠に訪れない。
首を巡らす。
倒れたクレノ。身体を揺すってみれば、冗談だよと平気な顔をして起き上がってくれるような気もする。あり得ないとわかっていても。
人が亡くなると、その魂は神大樹の元に飛んでいくという。そして樹に宿り、生前の罪を浄化されてから天に昇り空へと還る。
神問省ではそう説いているし、大抵の人々もその教えを信じている。
もし、それが本当ならば、父たちの魂も一番近いシュウカの大樹の元へ飛んでいったのだろうか。
神使であるソフウならあるいは真実を知っているかもしれないが、尋ねることはためらわれた。否定されたら、死者の魂の行方がわからなくなってしまう。それはとても哀しいことだと思う。
『感傷に浸っている時間はない。波及した神気を受けて、森の妖獣どもがざわついている。襲われたら厄介だ。早くこの場を離れるぞ』
「せめて、埋めるくらいは」
『死者よりも生者を優先すべきではないのか。安全な場所に行って、身体を休めることが第一だ。いまのおぬしでは何をするにせよ使い物にならん』
ソフウは正しいことを言っている。そもそも、埋めると言ってもまず土を掘る道具すら無いのだ。
それがどうした。爪が剝がれてもいい、手で掘っても。
いや、とイスカは吐息を漏らす。
体力も気力もすり減っている。休んだ方がいいのは明白だ。
休める場所と言えば、自分の村しか思いつかない。しかし、自分には村に帰る資格があるのだろうか。一人で戻って、どう説明すればいいのかわからなかった。
そこで思い至る。鎮めの儀は遅くても昼過ぎには終わる。
夕刻になっても天代たちが帰ってこないとなれば、村の天代守から斥候が出るはずだ。そしてもし斥候たちが来たのならば、父たちの骸をそのままにしておくはずがない。
嫌な予感がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます