第9話 鎮めの儀⑤
続けて駆けだしたイスカは木々の隙間を縫って、ミズカの横合いから回り込むように神樹の杖を目指す。
落ち葉を蹴散らしながら走る。
早駆けは得意なはずなのに、足がうまく動いてくれない。夢の中を走っているようだ。
杖までの距離が、一向に縮まらないように感じる。クレノの様子が気になるが、あえてそちらの方は見ない。いまはクレノを信じるだけだ。
足をもつれさせながら、ようやく木々の隙間を抜けた。イスカは神樹の杖に飛びつき、拾い上げる。
「よし、これで。クレノ!」
イスカはミズカと対峙するクレノに呼びかけた。だが、うつむいたクレノは何も答えない。
ミズカがイスカの方に振り向くと同時、クレノはその場にくずおれた。
「クレノ?」
再度の呼びかけにも、倒れたクレノはやはり何も答えない。ミズカが表情の無い顔のまま、一歩イスカに近づく。
これはクレノの作戦なのかと思った。
あのクレノがそう簡単にやられるはずがない。
クレノはいつだって自信に満ちあふれていて、自信を周りに納得させる実力がたしかにあって、イスカなど問題にならないくらい強いのに。
神樹の杖を持ったまま、イスカは呆然と立ち尽くす。
眼前、手を伸ばせば届くくらいの距離にミズカがやってくる。
「イスカ」
ミズカはイスカの名を呼んだ。
いま、ミズカには何の色も感じられない。まったくの無色透明だった。
しかしそんなミズカの姿はやっぱり孤独で、儚く、寂しそうだった。
長い時をかけて降り積もった孤独が、その華奢な身体を押しつぶしてしまうのではないかと思う。
「ミズカ様……」
イスカが思わず手を伸ばそうとした瞬間、空気を裂く音がした。
考えるよりも先に身体が反応する。手を引き戻し、イスカは跳び退く。
足下に雫が滴った。出所を辿ると、右腕がべっとりと血で濡れている。
神使の力なのか、手の甲から肘にかけて、鋭利な刃物で斬りつけられたような傷ができていた。
傷を確認した途端、鋭い痛みが走る。
「控えなさい。薄汚い手でこの子に触れることは許しません」
ミズカの口から、ミズカのものではない声が発せられた。ミズカは喉を押さえうめく。
「どうか……おやめください」
今度は間違いなくミズカの声だった。
それまで色の無かったミズカの顔に、ようやく表情らしい表情が浮かんだ。見ているだけで胸が詰まりそうになる、苦悶の顔。
「この少年はあなたの心を乱す存在です。ここで殺めるが、あなたのためとなりましょう」
二つの声。イスカの頭に理解が広がっていく。
そうか、こいつが。
臓腑に怒りが満ちてくる。神使はミズカの身体を乗っ取って、そして、そして、
「神使! どうしてミズカ様を苦しめる!」
「人間がそれを言うのか。苦しめているのはあなたたちでしょうに!」
イスカの叫びに、神使は怒りを滲ませた声で応じた。
まるでミズカ本人に糾弾されているみたいだった。イスカはたちまち言葉に詰まる。
言い返すことはできなかった。神問省はミズカを天代に据え、すべてを奪ったのだから。
「で、でもぼくは……」
「他者とは違うとでも? ならばあなたは、ミズカに何かしてあげましたか?」
神使がイスカに問う。イスカも自分に問う。
ぼくは、ミズカ様に何かしてあげることができただろうか。
できていない、何も。
少しでもミズカの助けになりたいと天代守になった。
自分はミズカのためになることをしている。他の、見て見ぬ振りをしている人たちとは違う。
そう思いつつも、本当は何もしてあげられないことを心のどこかではわかっていた。
引け目と後ろめたさは、常に付きまとっていたのだ。
「わたしはミズカを解放したい。ミズカに幸せをあげたい」
イスカが無意識に望むことを禁じていた事を、神使は口にした。慈愛を感じさせる口調だった。
「あなたに、それができますか?」
できるはずがないと確信しているような物言いだった。イスカは気圧されたように、後ろに下る。
「ほら、やっぱり。あなたも他の人間と同じ。……いいえ、生半可にミズカに希望を抱かせた分だけ、余計にたちが悪い」
「……ぼくが、ミズカ様に希望を?」
どういうことかわからない。しかし質問は許されなかった。
ミズカの腕が持ち上げられた。剣の切っ先がイスカの胸を向く。
「いや! いやです!」
「なりません、ミズカ。この少年は、あなたの手で断罪されるべきです」
断罪という言葉が、イスカの頭の中で虚ろに反響する。自分は、何か裁かれなくてはいけないようなことをしたのだろうか。
視界が歪み、手足が痺れたようになる。すさまじい圧力だった。
「駄目……イスカ、逃げて!」
ミズカの悲痛な叫びと共に、剣が突き出された。
避けなくてはと思う。
しかし身体は、神使の神気に搦め取られたのか指一本動いてくれない。迫り来る切っ先を、ただ目で追うことしかできなかった。
胸を熱い衝撃が抜けた。自分の胸に刺さった剣を、イスカは呆然と見つめる。
剣が引き抜かれ、イスカはがっくりと膝をつく。
「あ……あぁ……」
ミズカの瞳が、暗く翳っていく。
「これでいいのですよ、ミズカ」
身体を支えていられなくなって、イスカはうつぶせに倒れ込んだ。
「未熟者が。身の程を知れ」
神使の声が降ってくる。
そういうことか。
灼熱の痛みに胸を焼かれながら、イスカは気づく。何かしたのではなく、何もしなかった、できなかったのが自分の罪だ。
傷がひどく痛む。気を失うことすら許さない激痛だった。
守るとか言ったくせに、このざまだ。ミズカにひどい事をさせてしまった。この傷の痛みなど問題にならないくらい、ミズカはきっと傷ついた。
朦朧とする意識の中、イスカはつぶやく。
「ごめんなさい、ミズカ様」
ぼくは、あなたを守ることができませんでした。
「今更遅い。己の無力さと愚かさを噛みしめながら死んでいきなさい」
これまでか。
悔しいが、抵抗することができない。イスカは目を閉じる。
しかし、とどめの一撃は来なかった。足音が遠ざかっていく。
やがて、辺りには何の気配もなくなった。自分の荒い呼吸の音だけが耳朶を打つ。
一呼吸ごとに、身体から徐々に命が抜けていくのを感じる。
どうやら、楽に死なせることは神使の意に反することだったようだ。
「……ふざけるな」
腹の底に残っていた怒りが燃え上がる。
怒りの対象は神使ではなく、情けない自分だった。このまま死んでいくのは嫌だ。ミズカに自分の命を背負い込ませてしまうことになる。
これ以上、ミズカに余計な負担をかけさせてはだめだ。
――ならば、生きることを望むか?
突然、頭の中に声が響いた。女性の声だった。
目を開け、辺りを見渡す。霞む視界の中には誰もいない。幻聴か何かだったのだろうか。
――答えよ。おぬしは生きることを望むのか?
まただ。今度はさきほどよりもはっきりと響いた。幻聴なんかじゃない。
「望む」
イスカは答えた。迷いはなかった。強く、強く切望する。
「ぼくは……生きることを、望む!」
こみ上げてきた血と共に、イスカは言葉を吐き出した。
――心得た。その望み、叶えよう。
そこで気づく。どうやら声は、握ったままの神樹の杖を通して伝わってくるようだった。
――わたしの元へ来い。
杖がひとりでに動き、神樹の方を指し示した。
「あなたは、まさか」
――人間たちが神使と呼ぶ存在さ。
神使? でも、なぜ。
ミズカに憑いたのではなかったのか。
――わたしの存在、わたしの言葉。信用するもしないも、おぬしの自由だ。
イスカの疑問を読んだかのように、声は言う。
どのみち、このままでは自分は死ぬだけだ。
イスカは杖を口に咥えた。残されたわずかな力を振り絞って、神樹へと這っていく。
相手が何であろうと構わない。生きるという意志を通すだけだ。来いと言うのなら、行ってやる。
身体を動かす度に、信じがたい激痛が胸を突き抜けていく。
だがこの場合、痛みは都合がよかった。死にかけの身体を動かす原動力となる。これは自分の不甲斐なさの結果だ。噛みしめろ。
喉の奥で獣のようにうなる。
痛みと怒りに支えられ、イスカはじりじりと這い、進む。
――そうだ、その意気。ほら、もう少しだ。
神樹にたどり着いたイスカは洞の淵に手をかける。渾身の力で身体を持ち上げ、洞の中に身を投じた。落ちた拍子に、口から杖がこぼれ落ちる。
――よく来たな、少年よ。
声と共に、暗闇に不定形の赤い光が浮かび上がった。仰向けに転がったイスカは、荒い呼吸を繰り返しながら光を凝視した。
――わたしの名はソフウ。おぬしの名は?
「……イスカ」
息も絶え絶えにイスカは答えた。
――イスカ。もしかしたらと思ったが、やはりか。
「ぼくの、ことを」
知っているのか、と言おうとしたが、言葉の代わりに出てきたのは血だった。イスカは顔を横に向け、激しく咳き込む。もう限界だった。だんだんと意識が闇に沈み込んでいく。
――いまはしばし、眠れ。
眠っている場合じゃない。自分にはしなければいけないことがある。しかし身体は、これ以上言うことを聞いてくれそうにない。
――案ずるな。おぬしの意志と選択、しかとわたしに届いたぞ。
やさしい声だった。
――だから、いい。いまは眠れ。
ならば、少しだけ。
安堵感に包まれて、イスカは静かに目を閉じる。
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