第8話 鎮めの儀④

「ミズカ様、もう終わったのですか。……っ!」

 ミズカの気配を察し、振り向いた男の顔が驚愕の色に覆われる。

 携えていた神宝の杖を構える暇もなく、男の胸に風の刃が走った。鮮血がほとばしる。

 胸を切り裂かれ、一瞬で絶命した男はミズカの足下に倒れた。

 ミズカは一連の出来事を、うつろな瞳で眺めていた。真っ白に塗りつぶされた心には何の感情も湧かない。倒れた男の名さえ、浮かんでこなかった。

 ――わたしは平民の生まれです。家族に少しでもいい暮らしをしてもらうためには、天代守あましろのもりになるのが一番だったのです。

 代わりに浮かんできたのは、男が天代守になった理由だった。ミズカがそれを訊いたときの、男の照れくさそうな顔も一緒に。

 ――子どもですか。ふたりおります。ひとりはミズカ様と同い年ですね。男の子です。え? お会いしたい、と? いえ、しかし……。……わかりました。では、社守様にお伺いしてみます。

 哀しくなんてないはずなのに、なぜかあふれ出た涙が一筋、頬をつたう。

「頭領!」

「ミズカ様……さては神使に触られたか」

 異変を察知した、左右に散っていた青年ふたりが駆けつけてきた。

「天代、ご無礼仕る」

 ひとりが機敏な身のこなしで打ちかかってきた。杖の一撃がミズカに届くより早く、青年の胴を風が抜けた。

 ずたずたに切り裂かれ、吹き飛んだ青年は木にぶつかりそのまま動かなくなる。

「おのれ!」

 残ったひとりが杖で殴打してくる。

 ミズカはごく自然な動作で片腕を上げ、剣で杖を受け止めた。込められた霊力が反発し、青い火花となって散った。

『ぬるい』

 ソウライの声が響き、青年の額に巨大な嘴でつつかれたような穴が穿たれた。噴き出た血は、ミズカに届く前に霧散する。

『他愛ない。わたしたちを封じたものどもに比べ、なんと手応えのないことか』

 ミズカは屍となった青年たちに目をやった。

 ――家名を汚さぬためです。

 青年の答えに迷いはなかった。

 ――己にとっての、最良の道を歩むためです。

 青年の答えに澱みはなかった。

 ふたりの答えはそれぞれ違っていたが、どちらにも偽りがない点は共通していた。ふたりとも、愚直なまでにまっすぐな心の持ち主だった。だけど、死んでしまった。殺されてしまった。

 誰に?

 ――わたしに。

 頭に響いた声は自分のものかソウライのものか、判然としない。

 ミズカは足下の屍を見る。男と、青年たち。

 霧のかかったミズカの心が、微かに揺れ動く。

 三人の気持ちを踏みにじってしまった気がして、ミズカは首を横に振りながら後ずさった。

『あなたが心を痛める必要はありません。ミズカ、これからは、わたしがあなたを守ってあげます』

 ソウライのやわらかな声。途端、安堵感に包まれた。ミズカはこくりとうなずく。心配することなど何もない。自分はただソウライの言うことだけ聞いていればいい。

『いい子ですね、ミズカ』


 どういうことだ、これは。

 物音を聞きつけ、神樹の裏から駆けつけて目にした光景。

 神樹の前、剣を持って立ち尽くすミズカ、そして倒れた父親と仲間たち。

「イスカ、隠れるぞ」

 一緒に走ってきたクレノが、とっさにイスカを引っ張り手近な木の影に駆け込む。

「あ……あ」

 幹に背を預け、かがみ込んだイスカは声にならないうめきを漏らす。いま見た光景はなんだったのか。

 頭の中は真っ白だった。

「呆けてんじゃねえ。くたばりたいのか」

 隣にかがみ込んだクレノが小声で、しかし強い口調で叱咤した。

「……何が起きたの? あれは一体、どういう……」

 クレノは苛立たしげに前髪をかきむしる。

「たぶん、神使がミズカ様に憑いて出てきたんだろう」

「神使は神樹から出られないんじゃ」

 神樹はそれ自体が強力な結界として作用している。神使の御霊が外に出ることなど、不可能なはずだった。

「何らかの媒体、たとえば人を通してなら、可能なのかも」

「まさか」

「あくまで推測だよ。神問省じゃ、そんなこと教えてくれなかったしな」

 ミズカのいる方向から、とてつもない威圧感が伝わってくる。ある程度距離が離れているにも関わらず、肌で感じ取ることができるくらいに。

 これが神使の放つ神気なのだと直感した。ひりつく空気がイスカの感覚を冴え渡らせる。ようやくまともに頭が働くようになってきた。

 そんなイスカの様子を見て取ったクレノは、指で合図を送った。様子を確認しようということらしい。イスカはうなずく。

 クレノとイスカは、揃って僅かに顔を出す。

 父親たちは動かない。おそらく、生きてはいまい。

 うつろな表情のミズカが、焦点の合わぬ目で足下の父親たちを見つめている。

 殺された? 神使に?

 いつだって、何があったって、巌のように動じず、強い父親。そんな父親が誰かに負けるなど、あってはならないはずだった。ましてや、命を散らすなど。

 だが現実として、父親はミズカの足下に倒れている。実力者であるクサギと、トベラも。

 混乱と恐怖が押し寄せてきそうになるのを、イスカは必死にこらえた。取り乱すわけにはいかないし、悲しむ余裕も無い。隣にいるクレノは冷静なのだから。

「やるしかないようだな」

 クレノが嘆息し、杖で掌を叩く。

「やるって、何を?」

「ミズカ様から神使を祓って、神樹に追い返す」

 クレノの言わんとしていることを呑み込むのに、さほどの時間はかからなかった。

 ミズカはおそらく意識を乗っ取られている。正気に戻すには、神使を祓うしかない。

「でも、できるの?」

 父親たちはやられてしまった。手にした杖は、神使を祓うという大業を果たすにはいかにも頼りない。まるで自分みたいだと、イスカは思う。

「わからない。けど、逃げるわけにもいかないだろうが」

 クレノは言った。悲痛さが混じった声だった。それでクレノも怯えているのだと知った。

 だが、クレノは意志で恐怖を抑え込んでいる。決して諦めない。こんな状況でさえ、すべきことを見いだし、希望を失わない。

 全部とは言わない。せめてその強さの一片でも自分にあればいいのにとイスカは思う。

「……そうだね。ぼくも、いまできることをやるよ」

 なけなしの勇気を総動員し、イスカは言った。

 クレノは力強い笑みを浮かべる。

「そう来なくちゃな」

「それで、ひとつ提案があるんだけど」

「もしかして、あれか?」

 ミズカの斜め後ろ、父親の側に落ちている神樹の杖を、クレノが顎でしゃくって示す。

「うん。伝承通りなら、あの杖は神使の力を宿しているはず。剣と並んで、神使への対抗手段なんじゃないかな」

「おれも同じ事を考えた。試してみる価値はあるな。よし、おれがミズカ様を引きつける。その間に、おまえが杖を取れ」

 神使の力は未知数だが、父親たちがやられたくらいなのだ。イスカでは返り討ちに遭うのが目に見えていた。素直にクレノに任せることにする。

「わかった。気をつけて」

「おう、任せておけ。行くぞ!」

 飛び出したクレノが、ミズカ目がけて一直線に走りだす。

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