多分、彼女はもう来ない

ゆーすでん

多分、彼女はもう来ない

カランカランといつものように鐘がなり、「いらっしゃいませ」の声が聞こえる。

奥の席に進み、茶色のソファーに陣取る。

コーヒーを注文し、読みかけの文庫本を開く。コーヒーの香りがしてきて目の前に

置かれたけれど、一ページも読み進められない。

本の内容がつまらないわけではない。

僕の意識は、隣に座る女性にあった。


一週間ほど前、僕の事務所に男性の依頼人が訪ねてきた。

話を聞くと、ある女性の捜索をお願いしたいという。

婚約していたにもかかわらず、急に部屋を引っ越して姿をくらませたらしい。

つい最近、とある町で見かけて追いかけたのだが途中で見失った。

心配だという男性の熱意を受け、まずは一週間という条件で依頼を受けた。

女性は、普通の会社員の様だ。一体どうしたことだろうか。

依頼を受けたからには自分の興味なんて横に置いて置かなければならないのだが、

今回ばかりは興味の方が先行していた。

写真を手掛かりに聞き込みをしている最中に、当の本人を見つけた。

運命なのではないかと勘違いしそうになる。見失わないよう、尾行を開始する。


女性は、三十代。華奢で男受けする顔と体だった。

毎日、朝から晩まで尾行する生活。

そうして、まもなく約束の一週間。

彼女は毎日仕事帰りに喫茶店へ寄る。

コーヒーを楽しむでもない。

時折不安そうに窓の外を見たり、スマホを恐る恐る確認している。

何かに怯えているみたいだ。

なにか不安になることがあるのなら、早く部屋に帰ればいいのに。

そうしてしばらく時間を過ごすと、意を決したように立ち上がり帰路へ着く。

部屋に近づくと、小走りになり鍵を開けてドアをばたんと閉める。

中から、鍵をかける音が聞こえる。

そんな、毎日。

随分と、面白いことをする人だ。胸がきゅうと苦しくなる。彼女の事を愛しく思う。

けれど、それとは別の僕の中にある何かがどんどん大きくなっていく。

彼女を怖がらせるものから、引き離してあげたい。彼女の全ても見てみたい。

本来なら調査対象者と接触するなど言語道断だが、今回ばかりは耐えられなかった。

「あの、昨日もいらっしゃいましたよね。」

「え? あ、はい。何ていうか、ここの雰囲気が好きで。」

無理に笑って見せる彼女に、突っ込んだ質問をしてみる。

「もしかして、部屋に帰りたくないとか?」

彼女の顔が、みるみる青ざめていく。

「ごめんね。仕事柄、そういうのが分かっちゃって。良かったら、相談にのるよ?」

名刺を見せながら、できる限りの優しい口調と笑顔をつくる。

はにかんで見せるその顔に、二つの感情が入り混じる。

信じるな、いや、釣られろ。

「実は、私。婚約者から逃げるために最近引っ越してきたんですけど、

もうここが知られてしまっているようなんです。

この間も、来ていたみたいで。

怖くて、なかなか部屋に帰れなくて。

部屋の前にもいるような、見張られているような気がして。」

随分と緩い。隙ばかりじゃないか。

自身の身に危機が迫っているというのに、名刺を見ただけで信用するなんて。

これだから、すぐに居場所がバレるわけだ。

「実は、婚約者にストーカーまがいのことをされたんです。

部屋に盗聴器とかもつけられて」

「もし、部屋がバレているとしたら、また盗聴器をつけられている可能性は?」

どんどん白くなっていく顔と、小刻みに震えるからだ。

思わず顔がにやけそうになる。

いや、でも駄目だ。言ったら、最後だ。

「あ、あの、わ、わたし…私、どうしたら。」

涙目で僕に助けを求めている。

駄目だ。でも、結局負けてしまう。ここは、ちゃんと助けてあげなければ。

「じゃあ、お金で払うのと、体で払うの。どちらがいい?」

「え…?」

「僕ね、本当は君の婚約者に頼まれて君のことを探していたんだ。

見張っていたのは、僕。

本当は、依頼者である彼に報告しなきゃいけない義務があるんだけれど、

そんなことしたら、折角頑張って逃げた努力も水の泡だよね。

だから、黙っていてあげる。

その代わり、報酬は貰わないとね。」

彼女の目からぽろぽろと涙が零れ落ちていく。

唇を噛んで、手をぎゅうっと握り耐えていたが、ついに俯いて肩を震わせ始める。

「そうだな。毎月十万を現金で貰うかな。

お金が無理な時は、その体で払ってくれてもいいよ。」

俯いたまま黙ってしまって、何分か経った。とどめを刺そうか。

「ねぇ、早く決めた方がいいよ。住所、今から教えちゃうよ? 

婚約者と僕、どっちにする? お金と、体。どっちにする?」

「ふふふ…ふふふふふ。あっははははは。」

急に起き上がったと思ったら、盛大に笑い出した。

今度は、お腹が痛いと蹲りながら笑い続けている。

「な…、なんだ? 本当にいいのか? 住所…今から教えるぞ。」

スマホを目の前でちらつかせて見せる。

「はぁ、笑った笑った。構いませんよ、連絡しても。

もう、最初から知っていることですし。」

「な、なに言ってるんだよ。わかった、後悔しろ。」

カランカランと扉が開き、目を見張る。

中に入ってきたのは、依頼人の男だった。

もう一人、後ろに誰かを引き連れてこちらへ向かってくる。

彼女はと言えば、見せびらかすようにICレコーダーを手に持つと男の元へ

歩いていく。

「これでどうでしょう。」

『ごめんね。仕事柄、そういうのが分かっちゃって。良かったら、相談にのるよ?』

ICレコーダーから、僕の声がはっきりと聞こえてくる。

「よくやった。」と男が満足そうに頷いている。

再生をやめ、男にICレコーダーを手渡すと彼女が振り向いた。

「ごめんなさいね。あなたについて、タレコミがあってね。

随分と悪いことしているって。

だから、色々調べていたんだけどなかなか証拠が見つけられないから餌を

ぶら下げてみたの。

なかなか食いつかないから、ちょっと焦ったけど。いい証拠が取れて良かったわ。」

目の前に、顔写真付きの警察手帳を突き付けられる。

そこには、制服を着て映る彼女。手帳が閉じられると、次に見えたのは手錠。

「午後六時五十分。逮捕します。」

ガチャリと合わさり隙間を詰められる。

少し両手を動かすだけで、金属が食い込む。

「お騒がせしました。いいお店ですね。」

白髪の主人に、彼女が深く頭を下げて挨拶をしている。

この店には、多分彼女はもう来ない。

いや、違う。ぼくがここにはもう来られない、の間違いだ。

パトカーに乗せられ出発を待つ。

彼女は一緒に乗らないのか。 

取り調べはだれが担当する?

「あの、僕の取り調べはあの女刑事さんですか?」

「いや、彼女は明日から県警本部に異動だから左に居る係長が担当する。

 余罪も含めて、全て白状するんだな。」


 あそこであんなことを言わなければ、またここで彼女に会えたのだろうか。

 いや、彼女は最初から自分を容疑者として見ていたのだ。

 遅かれ早かれ捕まっていた。

 本来の彼女は、強く正義に生きる人。

 脆くて、隙だらけで汚したくなる。

 僕が手に入れたかった彼女は、来ない。

 そのことをはっきりと自覚させるように動き出す車の中の僕を、

 彼女の鋭い眼光が貫いた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

多分、彼女はもう来ない ゆーすでん @yuusuden

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ