Barrette.F
第26話 海を超えて
あたしのママは医療従事者として各国を飛び回っている。
発展途上国や被災地、紛争の最中にも足を運ぶほどで、どうしてそんなにもいろんなところへ行くの? と、一度ママに聞いてみたことがあった。
『世界平和を目指してるから』
まだ小さかったあたしにはその夢がどこまで現実的なのかは分からなかったけど、困っている人のために飛び回るママはカッコよくて。
小学二年生のときに「せかいへーわになりたい」という作文を書いて提出するほど、あたしはママのことが好きだった。
作文を読んだママは嬉しそうに笑ってくれたけど、クラスの子たちはそうじゃなかった。
あたしのママが紛争地帯の人たちを治療していることを知ると、クラスの子たちはあたしのママのことを人殺しだと言うようになった。
「だってさ、それって人殺しの助けをしてるだけじゃん! お前のかーちゃんもおんなじ人殺しだ!」
あたしはそのとき、生まれて初めて人の頬を叩いた。
『あー、それは
それはあたしが、ちょうど十歳の頃の話だ。
毎週金曜日、あたしとママはテレビ通話で近況を話し合うのが日課になっていた。
ママは今、中東の方へいるらしい。中東って言われてもあたしにはさっぱり分からなかったけど、すごく遠い場所ということだけは教えてもらっていた。
「でも、ママのこと人殺しなんて言うんだよ」
『だとしても、先に手を出した方が負けだよ。手を出したくなるくらいムカついても、手を出してしまったら七海と同じくらい、叩かれた方も痛いんだよ』
「ママだったらどうしてた?」
『ん? 胸ぐらつかんでた』
ママはそう言うと、お腹を押さえて一人で笑っていた。
「ママは人殺しなんかじゃないよね。だってたくさんの人を救ってるんだもん、きゅうせーしゅだよ」
『あはは、そうだと嬉しいけど、感じ方は人それぞれだしねー。ただあたしは、争いなんかなくなればいいのにって思いながら、争いで傷ついた人を治してるよ』
「それが、せかいへーわ?」
『そうだよ。もしかしたら百年、二百年。もっとかかるかもしれない。でも、人と人が助け合っていけば、いつか絶対。争いのない世界はやってくる。だから、あたしはそのときがくるまで、一生懸命頑張ってる。それだけは知っておいてほしいな』
ママは画面の向こうにいるけど、すごく画質が悪くて、電波のせいでラグも多い。
小学校の入学式を見に来てから四年間、あたしはママと直接顔を合わせていない。
「でも、悔しい。あたし、言い返せなかった」
ママにひどいこと言ったクラスの子に、あたしはなんて返せばいいか分からなかった。ママがしているお仕事は普通のお医者さんとは違う。じゃあどう違うのか、具体的な仕事の内容を、あたしは知らない。
お仕事をしているママの姿を見たことがないから、ママが一体どんなことをしているのかは聞いた話から想像するしかなかった。
だからクラスの子に人殺しと言われたとき、もしかしたら本当に、そうなんじゃないかと思って、怖くなったのだ。
「ねぇママ、もうすぐ帰ってこられるんだよね?」
『うん、来週には飛行機に乗るつもりだよー』
「じゃあ、帰ってきたら、ママの話聞かせて!」
ママと会えるのが楽しみで、あたしはパパから借りたスマホの前で立ち上がった。
「そしたらね! クラスの子たちに言ってあげるんだ! ママはこんなすごい人なんだよ! いつか世界が平和になるように、頑張ってるんだよーって!」
『あはは、積もる話はたくさんあるね。あたしも七海に話したいことはたくさんあるよ、楽しみー』
ママも画面の向こうで立ち上がっていた。しばらく二人で嬉しさを身体で表現する。そんなあたしたちを、パパは隣で見て笑っていた。
『そういえばね、こっちで日本人に会ったよ』
息を落ち着けてスマホの前に座ると、ママが思い出したかのように言った。
『九歳って言ってたから、七海の一個下かな。ちょー可愛いの』
「へー、女の子?」
『うん、生物学的には』
ママの変な言い回しに、あたしは首を傾げる。
『現地の人からさ、その子を日本に連れて行ってやってくれって言われてるんだ。来週の飛行機で、一緒に帰るつもり。その子はきっと反対するから、一発気を失わせてから強引に持って帰りやがれなんて言うんだよー? 現地の人。怖いよねー』
「そ、そうなんだ・・・・・・」
たしかに、言い方は物騒だ。
『不器用なんだー、全員』
ママが窓の外を見て目を細める。その向こうに、ママの話す人たちはいるのかな。
『その子のこと学校で見かけたら、仲良くしてあげてね』
「顔が分からないから、見かけても分からないよー」
『それもそっか。えーっとね』
その子の特徴を探してくれているのか、ママが考えるように上を向いて、
『胸に弾痕がある子なんだ』
短く、そう言った。
「だんこん?」
『そ、結構昔のなんだろうね。かなり薄くはなってるけど』
「へー」
とは言っても、やはり会ったこともない人のことを想像するのは難しかった。
『と、そろそろ寝なきゃ。七海も夜更かししちゃだめだよー? せっかくあたしに似て可愛いんだから』
「分かってる! あたし、ママに似て可愛いから!」
通話を切るときの、決まり文句だった。
『帰ったら、サマヌー作ってあげるからねー』
「あ、この前話してたおやつのこと?」
『そうそう。半熟と完熟があるらしいんだけど、七海はどっちがいい?』
「あたしは半熟ー! どんなものも半熟が一番おいしい!」
『分かるー、ママも半熟が一番好き・・・・・・って、また長くなっちゃいそうだね。この話も、帰ったときにしようね。じゃあね、七海』
「うん! おやすみなさーい」
そう言って通話を切る。
ママと話したのは、それが最後だった。
二週間後、ママの死亡が通達された。
遺体は飛行機で届けられ、更にその一週間後、ママがよく使っていたバレッタが遺留品として家に届けられた。
どうしてこれだけが残ったのかは分からないけど、ママの死を実感するには、それだけで充分だった。
結局、あたしはママがどういう仕事をして、一体、何を残したのか、分からずじまいだ。
ママはずっと世界平和のために頑張ってた。だけど、結局こうして命を落としてしまった。
じゃあ、ママの存在意義って、なんだったの?
何も成せなかったの?
ママは、何の意味もなく死んじゃったの?
ママが残してくれたものは、ただこのバレッタだけ。そんなの、悲しすぎる。
それから中学にあがってからは、まぁ色々あった。
友達に告白して、フラれて、これまで普通だと思っていたあたしの価値観を否定されて。
でも、ママの言っていたことを思い出して、平和に終わらせようと思った。
「な、なーんて。冗談に決まってるでしょー?」
あたしは自分の好きを偽った。
自分の手で、自分の好きをなかったことにした。
だけどやっぱり、あたしは女の子のことが好きで。その気持ちを抑えきるのは難しかった。
だからいろんな子に「可愛い」「好き」を安売りした。本当に好きになったとき、きっとあたしはその子にまた想いを告げてしまう。友達同士としては、あまりにも本気の好きを。
だからカモフラージュするように、好きを連呼した。可愛いを遠慮しなくなった。
そうしたら、友達がたくさんできた。
これでいいんだって思った。
あたしは最初から、間違っていただけだったんだ。
それから高校に入って、滞りなく普通の日常を過ごしていた。
二年になってすぐのこと、同じクラスの
一度、二度と断ったけど、彼は何度もあたしに告白してきた。
あたしは別に柚希が嫌いなわけではなかった。どこか子供っぽいところもあるけど、純粋で、厭味のない人だし、どちらかというと、好きの部類に入る。でもそれは、あくまで人間的な好きであって、恋愛的な意味合いではなかった。
あたしは三度目にして、柚希の告白に頷いた。
柚希を隣に置いておけば、女の子と仲良くしても、可愛いなってジッと見つめていても、変に勘ぐられることはないと思ったからだ。
それに、これで柚希を好きになれば、ようやくあたしは、一人の人間として許されると思ったのだ。
「うわー! すごい雨!」
付き合い初めて一ヶ月が経った頃。
一緒に下校している途中でゲリラ豪雨にあったあたしは、柚希の家に寄ってお風呂に入らせてもらうことになった。
正直あたしはまだ、柚希のことを好きにはなれない。友達としてなら見られるけど、やっぱり、触れたいとか、ギュってしたいとは思えない。
いつか、そんな風に思える日が来るのかな。
そんなことを考えながらシャワーを浴びて、浴室を出ると。
「ぎゃー!」
ものすごい悲鳴が、脱衣所に響き渡った。
「だ、誰ですか!?」
その子は裸だった。自分の身体を隠しながら、小さくなって顔を真っ赤にしている。
華奢な体躯。小さくまとめられたボブは綺麗な黒をしていて、その瞳は、どんぐりみたいに茶色を交えて、くりくりとして可愛い。
そしてなにより。
胸の近くに、肌色を抉るように残る。
弾痕があったのだ。
心臓がずっとドキドキしていた。
あたしは思わず、その子の胸に手を伸ばして、その弾痕に触れた。
「ふ、へ、ヘンタイ!」
その子はものすごくビックリして、大声をあげた。
あたしはすぐに手を離したけど、それでも胸の高鳴りが止まらない。
うそ・・・・・・。
本当に会えるとは思わなかった。
ママが残していったのはあの遺留品であるバレッタだけだと思っていたから。
「半熟が一番美味しいよねー」
もう一度触ろうと思ったけど、今度は逃げられてしまった。
ママと話した最後の会話。半熟がいいとか完熟がいいとか、本当に他愛もない、平凡で幸せな時間の続きが、あたしの目の前にある。
ママの生きた証が。
ママの残したものが、この子の中に、宿ってる。
「嫌なら避けてくださいね」
あたしの顔を両手で包んだ
見上げた天井にある照明は夜空に浮かぶ天の川のようで、幾多にもある願いの中から一つ。たった一つだけ叶えていいのだとしたら、あたしは今も落ちてきそうになっている流れ星を願うだろう。
あたしはずっとそれを手に入れたかった。
だけど、そんなものは現実的じゃないからって。
もう、その流れ星の温かさも、感触も、一生知ることはできないのだと思っていた。
本当は怖かった。
女の子を好きになるのが、じゃなくて。
自分の好きなものを、これから一生、隠しながら生きていくのが。
お願いだから、願わせて。
一度でいいから、大声で好きを叫ばせて。
あたしの好きを、誰でもいいから許して欲しい。
ずっと、そう思っていた。
亞呂ちゃんの唇が、あたしの唇に重なる。
本当に、気を失ってしまいそうなほど、柔らかかった。
観客席から、大きな拍手が聞こえた。
罵倒や、批判の声はない。
舞台が暗転していく。
亞呂ちゃんはあたしから唇を離すと、今度はあたしの身体を強く抱きしめた。
「ほら、大丈夫だったじゃないですか」
カーテンが閉じると、より一層、観客席からの拍手が多くなる。
この結末は、許されたのだ。
なんだ、そうだったんだ。
あたし、ここにいてもいいんだ。
どうしてだろう。
照明がなくなったからかな。
ずっと、我慢していたものが、溢れ出して止まらない。
亞呂ちゃんは何も言わずに、そんなあたしの頭を撫でてくれた。
・・・・・・胸に弾痕のある女の子。
あたしは、亞呂ちゃんの胸に顔を埋めながら、いつか聞いたママの言葉を思い出す。
『人と人が助け合っていけば、いつか絶対。争いのない世界はやってくる。だから、あたしはそのときがくるまで、一生懸命頑張ってる。それだけは知っておいてほしいな』
ねぇ、ママ。
あたし。
今日、ママが救った女の子に。
——救ってもらったよ。
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