第19話 兄の彼女とハグ
今思えば、
けれど、当時の私はそんな概念知らなかったし、逃げるのに必死だったから途中で落としてしまったことに気付いても振り返ることはしなかった。
そのせいで、小さな頃のことを思い出そうとしても、璃空さんの残した言葉だけが電子残像のように頭の中で点滅するばかりだ。
これまで、あの日のことを思い出すことはあまりなかったけど、ここ最近どうしてか、反芻するように思い出を振り返ってしまう。
「はーい」
休日の昼過ぎ、私は誰もいない家のリビングで、ぼーっとそんな考え事をしていた。
するとチャイムが鳴って、私は重い腰をあげて玄関に向かった。
「やっほー
ドアを開けると、私服姿の
ブラウンカラーのトップスにベージュのオールインワンは見事に秋という季節を演出していて、大人っぽくて、なんというか、ズルいなーという印象だった。
夏休みが終わるのと同時に日焼け止めクリームを棚の奥に転がした私とは、また違う切り替えの良さがあるのだった。
「兄はいません。母と一緒にでかけてしまって」
「ありゃ、そうなの? タイミング悪かったねー」
困ったように笑う七海さんは、空いた両手を持ち上げて、今にも「じゃあまた来るね」とでも言いそうな素振りだった。
「あがっていきます?」
私がそう言うと、七海さんは驚いたような顔で止まり、小鳥のように首を傾げた。
「いいの?」
「いいんですか?」
互いに疑問をぶつけ合うような問答になってしまった。
あがっていいの? と、兄がいなくてもいいんですか? が重なって、結局七海さんは玄関で靴を脱いだ。
「たぶん夕方には帰ってくると思うんですけど。あ、今お茶出します」
「いいよいいよ、おかまいなくー」
「なら、私が飲みたいのでついでに持ってきます」
兄の部屋で待っていてもらおうかとも思ったけど、本人不在の間に勝手にいれるのはよくないと思い、私の部屋で待ってもらうことにした。
コップを二つ用意して、お茶を汲む。
母はよくおぼんにコップを乗せて運んでくるけど、そういえば私はこのおぼんというものを使ったことがない。
まあいいか。
お茶の入ったコップを両手に持って、階段を駆け上がる。
そしてドアの前まで行って気付いた。
あ、開けられない。
すべての事柄には理由があるのだなぁ、と関心しながら、しょうがないので肘でドアノブを回そうとする。
その拍子にコップが傾いてしまい、ズボンとシャツの境目に思い切りお茶をこぼしてしまった。
「え、亞呂ちゃん。それどうしたの?」
部屋に入ると、七海さんが膝立ちのまま固まっていた。
「なんでもないです、ちょっと不注意で。はい、お茶です」
コップを渡すと七海さんは受け取ってくれたけど、何か言いたげな顔をしていた。
私はお茶を飲むのは後回しにして、着替えのシャツをタンスから取り出した。
「それ、見たことない。新しいの?」
私がシャツを広げて吟味していると、七海さんが後ろから私の手元を覗き込んでいた。
「そうですけど」
いちいち私の着てた服を記憶してるのか?
すごい観察眼というか、着目点というか。
「へー! いいねいいね! すっごくかわいいよ! じゃあ。そのタンスの上に放り投げてあるのは?」
七海さんが指を指した方向には、まだ値札も剥がしていない服が置いてある。
「これは、なんか・・・・・・買ってみたはいいものの、家に帰ってもう一回見たらちょっと違うなって思ったやつです」
「あー、あるよねそういうの。それパンク系のだよね? そのメーカー確か中学生向けのとこだよ」
グサッ、と言葉が胸に突き刺さる。たしかにちょっと、子供っぽいなとは思ったけど。
「服を買うのって難しいですね。一応ファッション誌とかには目を通してはいるんですけど」
「分かるよー、でも失敗も経験だしね? それにしても嬉しいな。亞呂ちゃんがファッションに興味を持ってくれて」
「七海さんのおかげです」
服をぎゅっと抱きしめる。
こんな布きれ、着られたらなんでもいいと思っていたけど。
七海さんが私を買い物に連れて行ってくれて、そこで服を選んでくれて、いつもと違う自分を目の当たりにした。鏡に映る私は誰かを撃ってやろうなんて一ミリたりとも思っていなくて、生死から最も遠い場所で、照れたように笑っていた。
肩口の狭い服を着れば銃なんてまともに構えられないし、プリーツスカートなんて穿こうものなら大股で歩くことも嫌になる。
「七海さんが教えてくれたんです」
かわいい服を着ること。おしゃれをすること。
璃空さんの言い残した普通の生き方とは、そういうものだった。
私の命はどうせ救われた命だ。
私の命は、私を救ってくれた人のためだけにある。
私は璃空さんのために、この命を価値あるものにしなければいけない。
私は普通に生きて、普通の幸せを手にしなければならない。
私の人生とはそういうものだ。
それを図らずとも手伝ってくれた七海さんには、感謝しています。
だから——。
「着替えるので、後ろ向いててください」
至極当然のことを告げる。
とにもかくにも、濡れたシャツがお腹にくっついて気持ち悪い。
七海さんが後ろを向いたのを確認してから、濡れたシャツを脱いで新しいシャツを着る。顔と腕を通すと、服にはまだ買ったお店の香りが残っていた。
「うん似合ってるね」
顔を出すと、七海さんが顎に指を当てながら「ふむふむ」と私を吟味していた。
「後ろ向いてくださいって言いましたよね!?」
「向いたよー、向いてたよさっきまで」
「文脈が理解できないんですか着替え終わるまででしょう普通」
「いいじゃん、どうせ裸を見せ合った仲なんだから」
「それ決まり文句みたいになってますけど、あのときのは見せ合ったんじゃなくてただの事故ですから」
今でも覚えてる、七海さんと出会ったときのこと。あれだけ衝撃的な出会いは、後にも先にもありはしない。
「そういえば来週文化祭あるんだけど、亞呂ちゃんは来る?」
「なんか話をすり替えられたような気がしますけど・・・・・・文化祭には、
兄と七海さん、それから邪夢ちゃんの通う桜が丘高校では、来週文化祭が開かれる。
「そっかー!
「そうなんですか?」
「うん! 風守ちゃんから聞いたの。学校で話しかけると風守ちゃん、子ウサギみたいに跳んで逃げていくから聞き出すの大変だったよー」
ああ、なんか光景が目に浮かぶな。
たぶん苦手とかじゃなくって、緊張しすぎてキャパオーバーしてるんだろうけど。
「七海さんのクラスは何やるんですか?」
「あたしのとこは演劇だよー。シンデレラやるんだってさー。ちなみに、あたしがお姫様役。ほんとは木がよかったんだけど、却下されちゃって」
「主役じゃないですか。よかったですね」
「まー、あんまり目立ちたくはなかったんだけど。王子役が柚希だったから、クラスの子たち、気を遣ってくれたんだと思う」
「気を遣う、ですか?」
「ほら、最後にキスシーンあるから。それなら恋人同士でやったほうがいいでしょ?」
「ああ」
ひどく鈍重な声が床に落ちた。
「だからその練習をしようと思って今日は来たんだけど」
「生憎、兄は不在と」
「やー困ったね」
七海さんは手持ち無沙汰のようで、手を虚空に彷徨わせていた。
「私が練習相手になりましょうか」
ともすれば私も、虚空を彷徨う。
どこへ向かおうとしているのか、自分でも分からなかった。
「えー!? いいのー!? すごく助かるよー! 実は最後のところがうまくできなくってさー。それじゃあやってもらっていい? セリフはあんまり多くないから、えっとね――」
まさかそんなに喜んでくれるとは思っていなかった。七海さんは興奮気味に説明しながら、カバンから台本を取り出す。
「青ペン引いてあるところが王子のセリフね? 最後に愛を誓い合うところなんだけど、いまいち感情の込め方が分からなくってさー」
「愛を誓う合うところなんですから、もう好き好き大好きーって感じでいいんじゃないですか? そういうの得意じゃないですか」
「・・・・・・亞呂ちゃんあたしのことどういう人だと思ってる?」
尻軽、勘違いさせ女。誰にでも優しい、顔がいい。色々思い浮かぶ。けど。
「本性を明かしてくれない人」
言うと、七海さんは一瞬表情を陰らせたが、すぐに不敵な笑顔を浮かべた。
「ミステリアスな女って、よくない? スパイみたいで」
「今はスパイよりお姫様です。それで、私はどうすればいいですか?」
「セリフを読むだけでいいよ。あたしがそれに合わせて演技するから」
「分かりました」
七海さんはすでにセリフは覚えているとのことだったので、私は台本を借りて書いてあるセリフを朗読した。
「いいから俺の女になれ」
「そんな、でもあたしはこんな身です」
七海さんが両頬に手を当てながら身体をくねくねさせる。
・・・・・・。
「これシンデレラですよね?」
「うん」
「なんか、王子チャラくないですか?」
「オリジナル台本だからねー、書いてくれた演劇部の子、そういうチャラいのが好きなんだって」
「えー」
なんか雰囲気でないなー。
「ほらほら、次読んで」
七海さんに催促されて、再び台本に目を落とす。
「身分なんか関係あるか」
「けど、あたしにはそんな資格ありません」
「俺がお前を好きって言ってんだから、分かれよ。お前以外を好きになるつもりなんかねぇって」
かっこ壁ドンかっこ閉じ、と台本に書かれていたので、七海さんの肩の上に手を伸ばす。
「わ」
七海さんが驚きの声をあげる。肩を縮こまらせて、顔は赤い。
感情の込め方が分からないなんて言っていたけど、案外できてるじゃないか。
「あ、亞呂ちゃん?」
「はい?」
「じょ、上手だね?」
「いや、書いてある通りに喋ってるだけですけど」
「そうなんだけど、仕草とか、喋り方とか。すごくそれっぽいよ」
「あー」
染みついているのかもしれない。
戦おうと、戦場に置いてもらおうとしていたころの執念のようなものが。
「抱きしめて」
七海さんがボソッと呟く。
確かに台本には、そのあと王子が姫を抱きしめるとあるけど、わざわざやる必要ある?
七海さんが恥ずかしそうに私を見つめる。
「あ、すみません電話が」
そこでタイミング悪くズボンに入れていたスマホが鳴ったので取ってみると、兄からだった。
『亞呂、ちょっといいかー?』
「うん、なに?」
私が電話している間、七海さんは拗ねたみたいに口をとがらせていた。・・・・・・なにその顔。
『実は今日ばったり叔父さんと会ってさ、ご飯に連れて行ってもらったんだけど、その近くに温泉街があって、これから泊まりに行こうってことになったんだけど、亞呂も来るか? それだったら一回戻るって母さんが言ってるけど』
温泉・・・・・・。
どっちでもいいなぁ。
「私はいいや。三人で行ってきなよ」
『そうか? 分かった。明日の昼には帰るから。晩ご飯代はピアノの上に乗ってる貯金箱から使って良いって母さん言ってたから、悪いが自分で用意してくれ』
「へーい」
それだけ言って通話を切る。
兄の声は聞こえていただろう。七海さんは「なんの話?」と声には出さなかったが視線がそう言っていた。
「兄、今日は叔父さんと母と温泉に泊まりにいくらしいです」
「叔父さんって、あ、射的の屋台やってた人だ」
「知ってるんですか?」
「柚希が言ってたから。それじゃあ今日は柚希帰ってこないの?」
「はい、すみませんせっかく来てもらったのに」
「いいよいいよ。アポなしだったから」
もうすぐ夕方の五時になる。
夏は終わり、もうじき秋がやってくる。日が落ちるのもだいぶ早くなったし、もう少ししたら帰ってもらおう。
「で」
「はい?」
「続きは?」
七海さんが、期待に満ちた表情で両手を広げている。
「あー、はいはい」
忘れてた、抱きしめる手前で電話が来たんだった。
失礼しますと心の中で言って、七海さんの背中に腕を回す。
私よりも一回り背の高い七海さん。私の顔は七海さんの胸に直撃して、これじゃあ。
「抱きしめるというより、抱きついてるだけじゃないですかこれ?」
「そんなことないよ、ちゃんと抱きしめられてるよー」
練習だし、そこまでこだわらないけどさ。
七海さんからは相変わらずバニラの香りがする。その香りに包まれると、眠気にも似た安心感が私の中に広がっていく。
人を抱きしめたのなんか、初めてだ。
恥ずかしいし、やる機会もなかったし、抱きしめたいと思う人もいなかったから。
けど、案外悪くない。
こうして抱きしめると、相手の顔が見えないから、不思議と恥ずかしさがなく、代わりに充足感がやってくる。今ならどんなことでも恥じらいなく言えそうだ。だから人は抱きしめ合い、愛を囁くのだろう。
・・・・・・最初からこうしていればよかったのかもしれない。
今となっては知ることのできない、璃空さんのこと。
本当はあのとき、聞きたいことはたくさんあった。知りたいこと、話して欲しいこと。だけど私は強がって、戦場に戻ることだけを考えるようにしていた。
けど、変な意地を張らずに璃空さんに縋っていれば、せめて彼女のことをもっと知れたかもしれない。
あんな突然の別れにならずにすんだかもしれない。
「七海さんは」
どこにも行かないですよね?
強く抱きしめると、七海さんの手が私の頭に触れる。
「あ」
顔をあげて、窓の外を見る。
「雨」
二つの声が重なった。
「あちゃー、天気予報見てくればよかった」
「秋の空は移ろいやすいと言いますし」
抱き合ったまま、窓の外を眺める。これはこれで、王子と姫っぽい・・・・・・のか?
七海さんの腕が私から離れていき、結ばれたものが解れそうになる。
そんな雰囲気を感じ取って、私は焦るように口にした。
「泊まっていきます?」
「え?」
頭上で、七海さんの驚いたような声が聞こえた。
私も私で、なんでこんなことを言ったのかが分からない。
ただ、こうすることのできなかった過去が、そっくりそのまま未来にまで顔を出しそうで、急に怖くなったのだ。
「雨、降ってますし。帰るの大変ですよ」
七海さんは少し考えるような間を置いてから。
「うん」
やや上ずった声で、短く答えた。
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