第4話 試着室で二人きり
「
時間も場所も言わないのは、これが理由だったのか。
私は飲んでいた麦茶をシャツにこぼして、唖然とした。
土曜日の昼間。
白を基調としたワンピースを身に纏っている七海さんは、いつもよりおしとやかな印象を受ける。とはいっても、笑顔を絶やさないその不気味さと快活な奇妙さは、田舎の妖怪を思い起こさせる。
この美貌にだまされて付いていったら最後、生きては帰れないような、一種の恐怖すら感じた。
「お菓子の材料も買ってきたんだー、今作ってあげるね?」
七海さんはタイプ相性なんか平気で無視してゴリ押してくる。RPGだったら迷いなくスキルを攻撃に全ぶりするんだろうなこの人は。
「うわ、ビックリした。七海来てたのか」
今頃起きてきた兄が、パジャマ姿のまま驚いていた。ちなみに母は午前の間に出かけていたようだ。
若者だけで構成された台所。デンジャラスだ。
「というか、兄いるじゃん。兄と行けば? デート」
寝癖のついたままの兄を一瞥して、さっそくエプロンを着ける七海さんに言う。
「誘ったよー? でも
「当たり前じゃん! だって一昨日通り魔事件があったばかりだろ? 俺怖くて外出られないよー絶対ムリ!」
そういえば学校の先生も言ってた。この近くで通り魔が出たって。
被害者は背中に切り傷を負ったが、命に別状はないのだそう。そんな全国どこにでもあるような事件を気にして学校を休む人なんか一人もいなかったけど。
兄はそうではないらしい。
「買い物行くだけなんだからそんな怖がらなくても・・・・・・人の多いところ通れば大丈夫でしょ」
「犯人の気がおかしくなってもう誰でもいいや状態だったらどうするんだよ! 俺やだよ急に刺されて死ぬの」
「宝くじ当たるくらいの確率だって、そんなの」
「でもー、隣で柚希が刺されたらやだなーあたし」
急に彼女としての甲斐性を見せられても困る。兄は嬉しそうにデレデレしてるし。兄が異性と話しているのを見ると、どうしてこんなにも複雑な気分になるんだろう。
「私もやめておこうかな」
「亞呂ちゃんは平気だよ」
平気、というのは他人が他人に使うような言葉ではない気がする。兄のことを心配したのなら、私のことも心配してほしい。
目で抗議したけど、ウインクで返されてしまった。
「じゃーん、出来たよー」
三十分ほど経って、七海さんが小皿をテーブルに並べ始めた。パジャマ姿の兄が出来上がったお菓子を興味深そうに覗き込んでいる。
私も兄の後ろから顔を出す。
小皿には茶色の液体が浮かんでいた。質感は、溶かしたチョコ、おしるこにも似ているような気がする。香りはあまり無い。
「サマヌーって言うんだけど、知らない?」
七海さんは何故か、私を見て言った。
「知らない」
私と兄の声が重なる。
「そっかー、昔はサマナクって呼んでたのかな? イランとかアフガニスタンだと割とスタンダードなお菓子なんだけど。小麦の根と小麦粉に水を混ぜて煮るの。素朴だけど甘みもあって、とっても美味しいんだよ?」
ふーん、と聞いてもない豆知識を聞き流して、そのサマヌーとやらを口にする。
「どう? なんか、懐かしい味がしない?」
おばあちゃんちの味がする! とでも言えばいいのだろうか。私にはおばあちゃんがいないので、よく分からなかった。
「うめー! 何これ! めっちゃいいじゃん! 正月に餅と一緒に食いてぇー!」
「あはは、中東の方では、お正月とかの祝い事のときにも食べるらしいから。柚希の舌も捨てたものじゃないね?」
「へー、なんかあっちの方って殺伐としてる印象があったから、なんかこういうお菓子もあるんだって思うと、ちょっとホッとするな!」
「紛争はいまだに絶えないみたいだけどね。でも、昔ほどではないのかな?」
そうしてまた、七海さんが私を見る。
兄はバカみたいにサマヌーを啜っていた。彼女の手料理とは、それほどまでのスパイスになるのか。
私にとってこのお菓子は、食べても食べなくてもどっちでもいいくらいの代物だった。
食べ終わって片付けを終えると、さっそく七海さんが出かけようとカバンを手にした。
「私、着る服ないんだけど」
「あれ着れば? 俺が前にあげた、恐竜のシャツ」
「兄のお下がりを着て兄の彼女とデートに行かせるな」
とはいっても、よそ行きの服なんて元々持ってないし。でも、これだけ華やかな七海さんの隣を、恐竜のシャツを着て歩くのはなんというか、プライド的なものが許さない。
「服見に行くつもりだったから、そこで買ったらどう? 亞呂ちゃんに似合う服、あたしが選んであげるよー」
ふわりと白百合のようにスカートが舞う。そんな白百合が選んでくれた服なんて、私に着こなすことができるのだろうか。
「じゃあ・・・・・・お願いします」
「なんだか妹ができたみたい」
上機嫌でスキップする七海さんの後を追って、家を出る。
そうか、妹。
七海さんから見た私は、そう見えるのか。
でも、出会った初日、私は胸を揉まれたぞ。姉妹ってそういうもの?
人生で一度も来たことのないようなアパレルショップに連れて行かれて、門番のように待ち構えていた店員さんが七海さんに話しかける。
「この子の服を選びたくって」
「まぁ、それでしたら」
本人をよそに、勝手に話が進んでいく。
店内は黒い装飾に包まれていて、風の靡くようなジャズがBGMとして流れていた。
「亞呂ちゃんは黒系が似合うと思うんだよねー。でも小顔だから、重たく見えないようにちょっと肌を見せるのがいいかも。あ、亞呂ちゃんってカップいくつ?」
「Aですセクハラです」
「教えてくれるんだ、亞呂ちゃんやさしー」
七海さんは両手にハンガーを合計五つもぶら下げながら、ルンルンと鼻歌を歌っている。
「あたし一人っ子だから、こういうの憧れてたんだー」
「友達にしてあげればいいじゃないですか」
「一個下っていうのが大事なのー、だからといって後輩っていうのもちょっと違うし。だから亞呂ちゃんとこうしてここに来れて、あたしすっごく嬉しいよ」
それはきっと嘘ではないんだろうなと思った。
七海さんの笑顔には種類がある。
不適なもの、人懐っこいもの、猫みたいに目を細めるもの。
そして今は、慈愛を含めた優しい笑み。
こういう顔もできるんだ。
「ね、これ着てみてくれる?」
「まぁ、いいですけど」
そんな柔らかい空気に乗せられたのかもしれない。
私は自分でも驚くくらいに素直に、その服を受け取って試着室に入った。
「あ、そうだ亞呂ちゃん。一応サイズ計ろっか」
「当たり前みたいに入ってこないでくださいよ! あとカーテン閉めて閉めて!」
「わー! ごめんね!」
そう言って七海さんは、試着室に入ったまま、カーテンを閉めた。
「いやいや、出て行ってくださいよ」
「えー? いいじゃん、裸を見せ合った仲なんだし」
あれは見せ合ったんじゃなくて、見られて見てしまっての玉突き事故だ。そっちはスタイルがいいから人に見せても減るものはないだろうけど。
私からすれば色々と磨り減るものがあるのだ。
「この服かわいいけど胸回り結構キツイから、ブラのサイズ間違えるとちょっと痛いだろうし。念のためもう一回計っとこ?」
結局、試着室から出て行かない七海さん。どこから持ってきたのか、メジャーをビッと引いて、私の後ろに回る。
「今付けてるのでもよくないですか?」
「だーめ。ちゃんと合わせないと。着心地良くないといくらかわいくても着たくなくなっちゃうものなの。はい、ブラ取ってー」
背中にメジャーの冷たい感触が当たる。
私はブラを取って、床に身体が平行になるように身体を傾ける。七海さんが上からメジャーを垂らし、トップを計っていく。
「おっけー、もういいよ」
身体を起こすと、全身鏡に私と、七海さんの姿が映った。
なんだ、この状況。
「へー、やっぱり綺麗な身体してるね」
七海さんが後ろから私の顎に手を添えて、輪郭をなぞっていく。
細い指が私を撫でていくと、ゾワゾワと寒いものが身体の奥から湧き上がってくる。
淡いオレンジの照明も相まって、洋画のワンシーンを連想させた。
「あ、あの」
七海さんは顎を私の肩に乗せて、身体をくっつけてくる。狭い試着室の中、太もも同士が擦れて、くすぐったい。
「なに? 亞呂ちゃん、顔真っ赤だよ? くすぐったい? それとも」
「兄に言いつけますよ」
「わお、それは困るよ」
パッと七海さんが離れていく。
七海さんは口元に人差し指を付けて、おどけたように言った。
「柚希には、ナイショにしてね?」
なんなんだ、一体。
「うん、サイズはそれでいいみたいだね。あたしはすぐそこにいるから、着方分からなかったらいつでも呼んで」
七海さんはカーテンを少しだけ開けると、そろりと試着室を出て行った。
ぽつんと残されたハンガーには、七海さんの選んだ服がかけられている。
ストリートワンピースボリューム袖ベルト付きブラック。よく分からない単語が並んでる値札を外側に移動させて、服を着てみる。
似合ってるのかとか、これがどういうファションなのかは知らないけれど。
これは七海さんが私に一番着て欲しい服、ということになる。
ワンピース・・・・・・好きなのか?
着てみると、どうにも肩周りが窮屈だ。つい動きが緩やかになり、自然となで肩になる。それに釣られるように足も内股になって、なんだか、服に操られているかのようだった。
「んー」
前髪を直してから、試着室を出る。
すると七海さんが、目をキラキラさせて駆け寄ってくる。
「やだー! ほんっとにカワイイよ! 亞呂ちゃん!」
そうやって喜んでいる七海さんを見るとどうしてか、胸の奥がムズムズする。
「いかがなされますか?」
「じゃあ、これで」
店員さんが話しかけてきて、私はそのままレジに直行した。
店に置かれた全身鏡の前を通るたびに映る、知らない自分。
「とってもお似合いですよ」
店員さんに値札を取ってもらって七海さんの元に戻ると、七海さんがそっと手を伸ばしてきた。
「せっかくだから、いろんな所行こうよ。で、カワイイ亞呂ちゃんのことみんなに見せちゃお」
白百合みたいなその人に手を取られると、ああ、そうだなと思う。
確かに、白馬の王子様に夢見るよりは、はるかに現実的だ。
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