第3話 牙を隠して
夏休みまで一ヶ月を切った。
梅雨も明け、本格的にセミが鳴き始めるとカバンを背負うのも億劫になる。
玄関にカバンを投げて蒸れた背中から解放されていると、ちょうどリビングから出てきた母と目が合った。
「あら、おかえり
「ありがとう、でも自分で切れるよ」
「指を、でしょ?」
母は、苦笑いを浮かべると、のっそりと立ち上がって台所へと向かった。
私は包丁の扱いがあまり上手ではないので、母は私に包丁を持たせようとしない。
「美味しい?」
「うん」
母は私が何かを食べているのを、いつも嬉しそうに見つめる。最初はその視線が煩わしかったけど、今はそこまで気にはならない。
そんな夏の、夕方の出来事は、また一つ、私の人生の緩やかな思い出の中に刻まれるのだろう。
皿を洗って、部屋に戻る。
机の上に置かれた恐竜の模型は、中学校の頃、人格矯正のために偉い人に命令されて作らされたものだ。
「恐竜ねぇ」
ふと、七海さんのことが頭に浮かんだ。
「入るねー! 亞呂ちゃんいるー?」
私はギャグ漫画みたいにずっこけた。
頭の中で思い浮かべていた七海さん本人が、ノックすることもなく私の部屋に入ってきたのだ。
「か、勝手に入るなー!」
ずっこけたまま抗議の声をあげる。
「亞呂ちゃんのお母さんすっごく綺麗な人だねー」
言いながら、進軍をやめない。
「兄の彼女なら、兄の部屋に行ってくださいよ」
「だって
「・・・・・・兄は頼まれたら断れない性格なので」
「だよねー、前も知らない人の荷物を持って歩道橋歩いてた」
そういうところが好きなんだよね、みたいな、表情なのだろうか。遠くを見るような虚ろな目を浮かべたまま、七海さんは私の部屋をぐるりと眺めた。
「あはは、恐竜いる」
七海は遠慮もなしに、部屋の真ん中に座った。あぐらをかくような形だったので、スカートの中身が見えそうになっている。
「白だよ」
聞いてもいないのに答えを教えてもらった。
「あれー? 亞呂ちゃんは教えてくれないのー?」
「自分が今日履いてる下着の色なんかいちいち覚えてません」
「よし、確認する時間を与えよう」
さ、どうぞ。と手のひらを見せられる。
後ろを向いて、スカートをたくしあげてみる。・・・・・・黒だった。他意はない。
「黒でした」
って、なんで私素直に答えてるんだろう。
振り返ると、七海さんはさっぱり別の方を向いていた。
「恐竜以外、なんにもない部屋だねー」
「趣味とかないので」
「亞呂ちゃんってちょっと変わってるよね」
デカイ鏡を目の前に突きつけてやりたかった。
それにしても、変わってると言われるのは、少し癪だ。
私は普通の女子高生になるのが夢なのに、その夢を否定されているみたいで。
「ま、漫画とか読みますけど?」
少しムキになる。
「へー! どんなの読むのー?」
「少女漫画とかですかね」
机の引き出しから取り出して、七海さんに見せてやる。素敵な恋人がなんちゃらかんちゃらーみたいな、そんな題名の漫画だった。ちなみに、
「亞呂ちゃんって、こういうグイグイ系の男子が好きなの?」
「いえ、どっちかというとサッカー部のキャプテン的な男子が好きです」
「えー、意外だねぇ」
「フラれましたけど」
漫画から視線を外して、七海さんが不気味なくらいにニコニコと笑う。
「ショック?」
「ちょーショックです」
「えー? フラれて落ち込んでる亞呂ちゃんかわいいー。おいで、お姉さんが慰めてあげる」
「それよりも、先に帰られてショック受けてるであろう兄を慰めてあげてください」
「それもちゃんとするよー」
彼氏のことを「それ」扱いとは。兄ながら、少し不憫に思えてきた。
ただ、こういう天真爛漫な部分も含めて告白したのだとしたら、それは兄の責任でもある。
私が返事をしないのを肯定だと思ったのか、七海さんが後ろから抱きついてくる。ふくよかな胸が背中に当たって、男という生き物が時折見せるデレデレした顔の正体が分かった気がした。
私にはそのふくよかな脂肪というものがないので、なおさら。
「亞呂ちゃんって、ちっちゃいから抱き心地いいねー」
「そうですか」
なんで私、兄の彼女に抱きつかれてるんだろう。
「つむじ、一つしかないんだね」
「自分じゃ分かりません」
「亞呂ちゃんのお母さんも、柚希も、つむじは二つあったはずだけど」
雨のように重い声が、つむじに落ちてきてぐるぐると回る。
「それに顔立ちも似てない」
探るようなその声色は、あまり気分のいいものではなかった。
「はぁ、まぁ。血は繋がってないので」
早く離れて欲しくて、早々に七海さんの興味に決着をつけた。
「ってことは、柚希は義理のお兄ちゃんってこと!?」
「有り体に言えば」
「そんな・・・・・・ごめんね亞呂ちゃん、義理の兄との熱情的な恋愛を邪魔しちゃって」
「いやそういうの無いですから」
喋るたびに、背中に当たる脂肪がぶにぶに揺れる。
「血が繋がってなくても一緒に過ごした思い出があるので、兄は兄です。同時に母も母なので、余計な心配は不要です」
七海さんを振り払うと、背中がひどく冷たく感じた。別に、人肌が恋しいわけじゃないんだけど。
「そっか、亞呂ちゃんは良い子だねぇ。よしよし」
頭を撫でられた。
「ね、亞呂ちゃん。明日一緒にデートしよっか」
「兄に許可とってみてください、きっと泣きますから」
「あはは、そういうのじゃないから大丈夫だよー。遊びに行くことをデートって呼ぶのなんか、普通のことでしょ?」
「それは、まあ。そうですね」
普通という餌を垂らされたみたいだった。
勢いよく飛びついた私を見て、七海さんが不敵に笑う。
「それとも、『そういうの』がよかった?」
「失恋してブレーキングハート中の乙女につけ込むの、よくないですよ」
「そう? これには、チャンスって書いてあるけど?」
漫画の終盤あたりのページをめくって、私に見せてくる。
私にはまだ、恋愛というものが分からない。ルールも、規則も、暗黙の了解も、法則も、何もかも。
「あ、柚希帰ってきたみたい」
下の階から兄の声がすると、私よりも早く七海さんが反応する。
人のつむじをいちいち観察していることもそうだけど、この女は視覚情報が妙で、聴覚がいやに過敏だ。
七海さんは漫画を最後まで読み終えることなく立ち上がり、部屋のドアを開ける。
「それじゃあ明日ね。デート、楽しみにしてるよー」
部屋を出て行く兄の彼女は、私の目に映るには少しばかり非日常的で、不安定なものだった。まるで夢でも見ているかのようだ。こういう夢、だいたいすぐ忘れるんだけど。
「というか」
時間は? 場所は?
何も聞いていない。
七海さんのいなくなった部屋。
どこか、バニラのような香りが残っている。
「明日、デートらしい。どうしよう」
机の上で口を開く恐竜の模型に相談してみた。
「え? 隕石で吹き飛んだこっちの身からしてみれば人間の都合なんかどうだっていいって?」
恐竜が、そんなことを言ったような気がした。
人間から見た恐竜は常に化石であり、恐竜は生まれた時代の都合上決して人間という存在を知ることはない。
私たち人間と恐竜は、そもそも生まれた世界が違うのだ。育ちも常識も、価値観も幸せも。理解の外に生きている。
ティラノサウルスは実は弱かっただとか、走るのがすごく遅かっただとか、そんなの今じゃ、想像することしかできやしない。
そんな恐竜も、もしこの現代にいたら、動物園でのんびり暮らしたり、ペットとして扱われたり。当たり前のように人に愛されて、生きていけただろうか。
ティラノサウルスだって、その牙さえ隠せば。
他の動物たちと同じように、普通の幸せを手に入れることはできただろうか。
「できるよね?」
コツン、と指で弾くと。
恐竜の模型は後ろに倒れて、机から落ちていった。
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