エピローグ


 ふと、目を覚ました。

 いや、多分、その表現は正しくない。

 だってここは町中だし、なにせ私は今、歩道に立っている。

 車がアスファルトを蹴りつける音、少し目に染みるような廃ガスの匂い。

 私を避けて歩いて行く人々の靴の音、昼の太陽の熱を含んだままのアスファルトの匂い。

 湿って少しだけ重たい風の音、夏特有のじめじめとした黴と埃の匂い。

 カラフルに色を変えていく広告塔の明るい音、飲食店のダクトから漏れる油との匂い。

 道行く人々が話す声やイヤホンから漏れる音楽の音、ちょっとおしゃれな珈琲店から漂うスコーンと珈琲の香り。

 目まぐるしいほどの喧噪。

 いつも通りの雑多。

 そんな中で、何をするでもなく、立ちすくんでいる。

 白昼夢を見ていたような──、という表現が正しいのかもしれないけれど、しかし悲しいかな、少し思い出そうとしても、愉快な夢も悲痛な夢も、何一つ思い出せないのだ。

 だから、多分、ただぼーっとしていて、我に返った、というのが、正しいところなのだろう。

 ただ、問題なのは、夢どころか、ついさっきまで何をしていたのか、そもそも私は、何故ここにいるのかもわからないということだろう。

 疲れているのだろうか。

 ああ、きっと疲れているのだろう。

 バッグをひっかけた肩は重いし、突っ立っているだけなのに、既に足も怠い。

 ただ、幸いなのは、気分はそこまで落ち込んではいないということ。

 いや、様々なことを思い出せば、今すぐにでも気分はどん底へ真っ逆さまなのだろうけれど。

 不思議なのは、つい先日まで死にたいほどに気分が落ち込んでおり、頭にも靄がかかったような状態だったのに、今の気分は晴れやか、そして頭の中もクリアになっているような気がする。

 ……自分の状態を点検してみて、私は小さく苦笑した。

 道端とはいえ、歩道に突っ立ったまま意識を消失していた人間が、正常な状態なはずがない。

 ただ、それでも──


(まあ、自分が今、異常な状態だってわかるのは、まだいい方か)


 私はポケットに手を突っ込んで、中から、今は古い折り畳み式の携帯電話を取り出した。

 手首を返して、ケータイ画面を開く。

 ピロン、という軽い音がして、画面に質素な壁紙と、そしてデジタルの数字が映る。

 時刻は、一八時三八分──。

 念のため日付を確認してみる。

 ……大丈夫、記憶通りの年、月、日だ。

 頭がすっきりしているというのに、なんだか記憶があやふやという、妙な状況ではあるが、見当識は保たれているようだ。

 手首のスナップで、ケータイを折りたたむ。

 カシャン、という軽い音を耳にしながら、私はケータイを制服のポケットに突っ込んだ。

 そのまま手をポケットに突っ込んで、私はゆっくりと、目の前を行き交う喧噪の中に足を踏み入れる。

 自然と足が向かうのは、自宅の方──。

 家路を急ぐ人や、そうでない人に交じって、ゆっくりと足を動かす。


「……あー、でも、帰りたくないなぁ」


 歩きながら、ぽつりと独り言ちる。

 正直に言えば、逃げてしまいたかった。

 このまま駅にでも歩いて行って、電車に乗ってどこか遠くまで。

 ……しかし、残念なことに、お金がない。

 いや、バイトで稼いだへそくりはあるのだが、それは家のタンスの奥だ。

 今の手持ちは、確か一七三円。

 これでは、隣町まで行けもしない。おにぎりかジュースを買えば、それですっからかんだ。


(でも、いったん帰るのもなぁ……)


 家に、あいつがいなければいい。

 問題なのは、あいつがいた場合。

 もし家出に感づかれてしまったら、また暴力と暴言のヒステリーが始まってしまう。

 せっかく気分が上向きになったのに、そうなってしまったら最悪だ。


「……どうしようかなぁ」


 かといって、着の身着のまま、お金もない状態での家出なんて、どうぞ犯罪の対象にしてください、と誘っているようなものだ。

 新しく出来た、緑の看板のファミリーレストランの前を通り過ぎて、横断歩道を渡る。

 ……背に腹は、変えられないかなぁ。

 そう思った瞬間だった。

 ポケットの中で、何かが震えた。

 いや、震えるモノなんて、ケータイしか入っていないのだから、その正体はケータイだ。

 メール?

 にしては、バイブレーションが長い。

 ……まさか、あいつから?

 嫌な予感に苛まれ、ポケットからケータイを取り出し、呼び出し相手を確認する。

 着信・朝本あさもと陽奈ひな

 私は思わず足を止める。

 ちょうど後ろを歩いていた男の人が、私にぶつかりそうになったのか、舌打ちをして、乱暴に脇を通り過ぎていくが、気にならない。

 陽奈は、私の父方のはとこにあたる人だ。

 確か四つ年上で、確か一昨年から社会人として働いているんだったか。

 父が亡くなってから、久しく疎遠になってしまっていた。

 昔は父方の祖父母の家に行った時に、よく遊んでもらってたっけ。ひな姉、ひな姉とわがまま言って、甘えて、良く困らせてた記憶がある。

 ……もう、二年も連絡を取ってなかったのに、なんで?

 疑問の答えを考えるよりも早く、私の手はケータイ電話を開いていた。


「……もしもし?」


 久々の電話で、逸る心臓を抑えながら、電話に出る。


『あ! 良かった、つながった! 久しぶり奏ちゃん!』


 電話越しの声は、元気がいいけれど少し掠れたハスキーボイス。


「うん、久しぶり。……どうしたの?」


 さすがに往来の中で止まりっぱなしというわけにはいかないから、歩きながら尋ねてみる。


『なにー? 何かなくちゃ電話しちゃダメなわけ?』


 一瞬不機嫌そうな声が向こうから聞こえて、すぐに『なんてね』とひな姉はそれを訂正した。


『ほんっとーに仕事が忙しくてさ。ここ二年ほど、家に帰って寝る生活してたんだけど、最近部署の異動があって、だいぶ余裕が出てきたからさ。久々にどうしてるのかなーって思って』

「どうしてるって……、特に、その、何も」


 一瞬、言いかけて、それを飲み込む。

 待て待て私、久々に話す人間に、なんてことを言おうとしているんだ。

 しかし、ひな姉の耳は誤魔化せなかったようだ。

 うん? という疑問符が聞こえた後、訝しむような声でひな姉が言う。


『何その言い方は? おねーさんに嘘吐こうったって、そうはいかないからねー! ……連絡しなかった私が言うのもあれなんだけどさ、その、おじさんが──亡くなってさ、心配してたんだからね』


 優しい声色に、思わず泣きそうになる。

 ……話しても、いいのだろうか。頼っても、いいのだろうか。

 葛藤で、言葉が出てこない。


『……あれ? もしもし? もしもーし?』


 電話が切れてしまったと勘違いしたのだろう、ひな姉が慌てたように声を上げる。

 どうしよう、話したい、けど──、こんなこと話して、迷惑をかけたくない。

 でも、だけど──



『言ってごらんよ、奏ちゃん、キミの望みをさ』



 不意に脳裏に、そんな台詞が浮かんだ。

 知らない人の、知らない声。

 身に覚えのないはずのその言葉は、何故か、その声は私の背中を押すように、心の中にすっと入ってきて──。

 気が付けば、私は洗いざらい吐き出していた。

 家でのこと。

 母のこと。

 学校のこと。

 母が連れてきた男のこと。

 時には、死にたい気持ちになるということ。

 つい昨日くらいまで、かなり危ない状態だったこと。

 逃げ出したいこと。

 助けてほしいこと。


「……って、そう言われても、ひな姉も困るよ──」

『はあ!? あんたそんな状況になってんだったら、もっと早く電話寄こしなさいよ!!』


 いきなりの怒号に、キーンと耳鳴りがして、私は思わず電話口から耳を離した。


『あんたねえ! 完全にそれ、アウト! アウトだから! ああまったく! 忙しさにかまけてないで、もっと早く連絡するべきだった! というか、あんたもそういうことはもっと早く言いなさいよ! 第一──』


 電話越しに、大声でまくし立てられて、私は慌ててスピーカーを指で塞いで音漏れを防ぎ、マイクに向かって声を上げる。


「ご、ごめんって、ひな姉。でも今、外だから──」

『あっと、ごめんごめん。でも、外って、あんたどこにいるの?』


 今度は声を潜めて、ひな姉が言う。


「えっ? えっと──」


 私は、今歩いている大通りの名前を伝えた。

 それを聞くが早いか、ひな姉はよし、と呟いて、そしてなにやら荷物を整理するような音が、電話越しに聞こえる。

 ……まさか、会いに来るつもりだろうか?

 記憶が正しければ、ひな姉は県外で働いていたはずだ。

 新幹線にしろ、車にしろ、おいそれと凝れる距離ではないだろう。


「ひ、ひな姉? なにしてるの?」

『何って、あんたを迎えに行く準備に決まってるでしょ』

「え、でも県外でしょ? 遠いし──」

『行くって言ったら行くからね! 駅で待ってなさい!』

「でも私、学校の荷物しか持ってないし……」

『買えばいいでしょ買えば!』

「お金も小銭しか……」

『社会人なめんな! 必要な物は買ってやんよ奢ってやんよ!』

「で、でも──」

『でもも何もない! 二時間以内には着くから、駅で集合ね!』


 ああ言えばこう言う、といった形で、押し切られてしまう。

 でもそれは、本当は、とてもありがたくって──


「……なんで、そんなに良くしてくれるの?」


 もう、父が亡くなってしまった今となっては、〝親戚だった〟という過去の関係のはずなのに。


『理由なんか知るか! 私が、あんたが苦しんでるのを放っとけないから! 以上! じゃあ、もしブッチしたら、鬼電入れるし家まで乗り込むから! また後でね!』


 ぷつん、という音に続いて、ツーツーと通話終了の音が鳴る。

 私は、何か変な夢でも見たのではないかと、通話終了の文字が表示されている、ケータイの画面をじっと見つめた。


「おい、危ねェよ!」


 前から歩いてきた男から怒鳴られて、ぶつかるすんでのところで咄嗟に躱す……が、間に合わずにバッグがその男に当たってしまった


「ご、ごめんなさい」

「気を付けろ! ……ったく最近のガキは──」


 もう酔っぱらっているのだろうか。酒臭い香り。

 ……匂いもするし、バッグがぶつかった衝撃もあった。

 やっぱり、これは現実らしい。

 ──悩んでいたことが、凄い重いと思っていて、抜け出せないとずっと思っていて、でも、それがあまりにも簡単に突破口が見つかって……。

 狐につままれた気分というのは、こういうことを言うのだろうか。

 あまりにも出来過ぎている。

 騙されているんじゃないかと、疑うほどに。

 ……もちろん、そんなことがないのはわかっている。

 ひな姉は、昔から嘘を吐いたり、人を騙したりするのが、極端に苦手だったから。


「……なんか、記憶ない間に私、善行でも積んだのかなぁ」


 夜空に向かって呟いてみる。

 もちろん、返事はない。

 再び、地面を見ながら歩く。

 ……家を出て、あの人がどうなるかはわからない。

 でも、よく考えてみれば、それは一緒に暮らしていても、変わらないのだ。

 私がどうこうできる問題じゃないし、それに、もうとっくの昔に家庭は崩壊している。

 だったら、せめて、自分だけでも。

 お互いにそう思っていれば、あの人も立ち直ることができるかもしれない。


「あ──」


 交差点で立ち止まった時に、ふと目に入ったのは、東の空から上がった、まん丸に輝く金色の月。

 どうやら、今日は満月だったらしい。

 まるで、月の光が新たな門出を祝福してくれているようで──、なんて。

 柄にもない考えが頭に浮かび、私は思わず苦笑した。

 


──ほら、口に出してみたら、意外とあっけなかったろ? もらうことなんてさ。


 

 不意に、そんな声が聞こえた気がして、私は後ろを振り返った。

 ……私に話しかけてきそうな人は、いない。

 代わりに目に入ったのは、遠くにぽつんと立ちすくむ、あの廃ビルだった。

 ……もう、あの廃ビルにお世話になることもないだろう。

 なんだかんだと理由をつけて、飛び降りなくて良かったのかもしれない。

 もちろんそれは、今後どうなるかによっての話で、今決めるには早計なのだろうけれど。

 信号機が音楽を鳴らし、赤が青になったことを知らせる。

 私は踵を返して、廃ビルとは反対の方向へと歩いて行く。


「……ありがとう」


 誰に対してかはわからないけれど。

 なんだか、お礼を言わなければならない気がして、私は夜空に向かってぽつりと呟いたのだった。

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死にたい少女を天使と死神が奪い合うようです 館凪悠 @yukangagi

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