第5話
私がようやく泣き止んだころには、辺りもだいぶ暗くなっていた。
──思い切り泣いて、少しはすっきりしたように思う。
ずぴ、と鼻を鳴らして、目元をぬぐう。
……そういえば、いつの間にか右頬の出血も止まっているみたい。
そう簡単に止血されるような軽いけがではなかったと思うけれど、きっと、魔法か何かの力だろうか。
あるいは、私の命と同期したという、そこに転がる林檎のおかげだろうか。
「……もう、大丈夫そうかな? 落ち着いたかな?」
相変わらず優しい声で、彼女が言う。
もう一度鼻を鳴らしてから、私は頷いた。
「ごめんなさい、大丈夫です」
それを聞いた彼女は、私からぱっと離れると、今度はずいと顔を近づけてきた。
鼻と鼻が触れそうな距離。
最初に見た時に抱いた印象よりも、ずっと艶やかな金髪が、私の頬をくすぐる。
「奏ちゃん、そういう時は〝ありがとう〟って言うんだぜ?」
真剣な表情で、彼女が言う。
「ご、ごめん……その、ありがとう」
もちろん、感謝の気持ちがないわけではない。
きっと彼が、彼女が私を見つけてくれなければいつかは、自分の簡単な本心にも気が付かずに、死んでしまっていたろうから。
私の感謝の言葉を聞いて、彼女がいつもの笑顔に戻る。
「よし!」
そう言って彼女は、私から顔を離して、そしてくるりと後ろを振り返った。
「ねえ、もうお開きでいいでしょ? 決闘はノーコンテストでしょ」
「さすがに、死ぬ気がない人間を無理に連れていく、なんてマネはしませんよ」
声をかけられた彼が、肩を竦めて言う。
最初に見た時には煤けた薄灰色に見えた髪も、今となってみれば、それが銀髪であることがわかる。
彼らが変わったわけではない。
変わったのは、ただ、私の見方なのだろう。
彼らの髪色も、服も、周囲に張られた結界も、そして、くすんだ灰色一色だとばかり思っていたこの廃ビルですら、今となってみれば、色鮮やかで仕方がなかった。
きっと、自分の本心を取り戻して、感情を取り戻して、周囲の世界を、正しく認識できるようになったんだと思う。
座ったまま、白鳥よりも白い羽を生やした天使と、白く輝く光輪を頭上に浮かせた死神を見上げる。
こちらに歩いてきた都築に、いつもの調子で、生流が声をかける。
「じゃあ、もうこの結界もいいでしょ? 解いちゃいなよ」
「結界を解く前に、林檎の同期を解除しないと。結構繊細な魔法なので、揺らぎの強い外界は毒になるかと。正直、どうなってしまうかの予測を付けるのが困難です」
「あっと、それがあったそうだった」
ぴしゃりと自分の頭を叩いて、生流があちゃーと言う。
生流は、少しだけ腕を組んで考えてから、何かを思いついたように「よし」と頷いて、すぐそこに転がっていた林檎を拾い上げた。
「魔法の解除にはどれくらいかかるの?」
「……正攻法で行くと、丸半日くらいですかね」
「おいおい、日が暮れちゃうじゃん! 残業確定じゃん!」
「もうとっくに日は暮れてますけどね。……くっつけるのは簡単でも、外すのは大変なんですよ。こうなるとは思ってなかったですし」
「よし、わかった。じゃあアタシがやってやろうじゃない」
そう言って彼女は、「ん」と言って林檎を都築の方へと差し出した。
自分がやると言っておきながらのその行動の意味を図りかねて、都築は腕を組んで首を傾げた。
「? なんです?」
「魔法だよ、ま・ほ・う。水くらい出せるでしょ?」
「……あー、そういうことですか。──まあいいでしょう。最初に首を突っ込んだのは僕の方ですからね。責任は取らないと」
そう言った都築が、パチンと指を鳴らすと、空中に白磁の水差しが現れた。
(う、浮いてる……)
まるで見えない誰かが空中で持っているのではないかと思うほど、自然とその水差しは空中に浮いていた。
どういう原理かはわからない。わかることは、それが魔法だから、ということだけ。
私がぽかんとそれを見上げていると、彼は人差し指を、指揮をとるようにふいと動かした。
水差しが、ドローンもかくやという滑らかな動きで空中を横切り、そして林檎の真上で止まった。
もう一度、都築が指を振る。
ちゃぷんという水音がして水差しが傾き、そして注ぎ口から、透明な水が流れ出る──
「ひゃっ!?」
林檎に水が当たった瞬間、背中に冷や水を垂らしたかのような冷たい感覚がはしり、私は変な声を上げて跳び上がってしまう。
それを見た生流が、愉快そうに笑った。
「あはは! そっか、同期してるんだから、水の感触も伝わっちゃうよねぇ! 冷たい? ねえ冷たい?」
そんなことを言いながら、林檎をくるくる回して、水が当たるところを調整し始める生流。
私は、実際に体には当たっていないのに、冷水で洗われる感覚を受けるという稀有な体験を甘受し、冷たいやらくすぐったいやらで大忙しで、生流が林檎を洗い終わるころには、私は肩で息をするほどに疲れていた。
私の顔も、きっと百面相だったのだろう。生流が私の顔を見て、面白おかしいように、にやにやと笑っていたのを覚えている。
それに、頬や口周りの筋肉が、久々に動かしたせいでとても痛い。
コツ、というブーツの音に目を上げると、生流が今度は私に、林檎を差し出してきた。
「ほら」
「え?」
「持って」
「う、うん」
その意図がわからないまま、私は林檎を受け取った。
綺麗に現れた林檎は、今までよりも赤く色づいているように見えて、しかも、心なしかどこか輝いているようにすら見える。
気が付けば、私の頬の皮膚と一緒に、この林檎の皮も剥げていたはずだが、それもいつの間にかなくなっている。
「何だい、どうしたんだい? そんなにリンゴをまじまじ見てさ」
「さっきの傷が消えてるなって思って……」
「ああ、魔法の林檎だからね。そういうこともあるだろうね。……じゃあ、観察が終わったらちゃっちゃといってみよー!」
右こぶしを振り上げて、元気よく言う生流に、私はそれが何を指しているのかがわからず、ぽかんと口を開けることしかできなかった。
「……え、えっと、何を?」
「えっ?」
尋ねてみたら、まったく未知のモノを見たと言わんばかりの表情で驚かれた。
「美味しそうなリンゴを差し出されたら、食べるのが普通でしょ!? 白雪姫だって、それで痛い目見たんだし!」
「不安を煽ってどうするんですか」
見ていられないというように、片手で顔を抑えて、都築が指摘する。
そう? と首を傾げてから、彼女は再び口を開いた。
「まあ安心したまえよ、少女!」
「あの、きちんと説明を……」
「そうだねえ……、うん、簡単に言ってしまえば、
「な、なるほど」
正直、魔法の原理やルールについては良くわからない。
だが、超常の力を持つ、超常の存在である彼女のその説明は、なんだか納得できるような気がした。
恐る恐る、林檎に口をつけてみる。
歯を、立てる。
もし、彼女の言ったことが嘘なら、その時点で、痛みがあるだろう。何かに噛みつかれたような痛みが、体にはしるはずだ。
ぷつり、と林檎の皮に歯が刺さる。
痛みは、なかった。
……もう一つ、勇気を出して、もう少し深く、歯を立てる。
しゃく、というみずみずしい音。
痛みはない。
そこまで来たら、変わらないだろう。
思い切って、噛みついた。
ぶつん、と口の中で、林檎が割れる音がする。
体には、何の影響もない。
ただ、口の中に広がる、爽やかな甘さとほのかな酸味。
どこまでもみずみずしい味が、口の中いっぱいに広がって──。
(……あ、れ──?)
急に、眠たくなってきた。
……そう言えば、彼女、白雪姫が、なんとか言っていた、ような……?
「ああ、そうそう。一口食べた時点で、林檎は傷ついてるのに奏ちゃんが傷ついてない、って矛盾が生じて、魔法は解けるから」
なる、ほど。
じゃあ、この、ねむけは?
「強力な魔法だからね、解除の副作用で、しばらく意識が飛んだりするけど、そこはまあご愛敬」
……そういうのは、さきに──
「お、言ってる傍から。おーい、奏ちゃーん? もし──し、──い……」
ああ、とても、ねむたいや。
────
───
──
─
「……寝た、ね」
「そうみたいですね」
頷いた都築がみをかがめて、奏の頭に手を乗せた。
その様子に、生流が小さく首を傾げる。
「何をする気?」
怪しむわけでもなく、ただ純粋な興味関心しかなさそうな声色で尋ねる。
「記憶をいじろうと思いまして」
「ふぅーん。なんで?」
「彼女の精神が立ち直ったのなら、ここであった
当たり前のことを言わせるなと言わんばかりに、素っ気ない声色で、都築が答える。
「ふぅーん、へえー」
それを聞いた生流が、悪戯っぽくにやりと笑う。
その表情が視界に入ったのだろう。都築は奏の頭から手を離し、嫌そうな顔をして、生流の方へと顔を向けた。
「なんですか、その顔は?」
敵意を向けられても、慣れたものといったように、生流はクスクスと笑いを漏らす。
「別にぃ? アフターサービスまでやってあげるなんて、とんだお人好しだなーって思っただけだよ? それだけだよ?」
「ああ、その程度は当然でしょう。何しろ、天界だの地獄だの、そういう超常のことを覚えているのは、この世界で生きていくのに、不必要な情報ですから」
都築は何を今更、と言わんばかりの声で言ってから、ふと何かに気付いたように目を開いて、直ぐに睨みつけるようにその目をすぼめた。
「まさかとは思いますが、死ぬつもりがないからといって、彼女を地獄へ連れて行こうというわけではないでしょうね?」
「え?」
その疑いは予想外だったのか、生流がきょとんとして目を見開いた。
一瞬遅れて、「あー」と声を上げる。
「ま、生きたまま地獄に行く手段は確かにあるけど、行きたいという気持ちがないとダメだからね。寝てる人を無理やりー、ってのは、やりたくても出来ないんだよ。浦島だって、亀の誘いを承諾したからだし、オルフェウスは自分の意志で踏み込んできたからねぇ」
なるほど、信ぴょう性のありそうな話だ、と都築が納得しかけたところで、さらに彼女は続ける。
「それに、現世は
「前も言ってましたけど、違いますからね?」
都築の指摘に、生流は指を振りながら舌を鳴らした。
「甘い、甘いね、甘すぎるね! 知っているかい? 現世には〝生き地獄〟って言葉があるんだぜ?」
「……つまり?」
「この世界を〝地獄〟と呼ぶ人がいるなら、つまりアタシたちの管轄、ってワケ!」
おわかり? と言う生流に、都築は大きなため息を吐いた。
「物のたとえ、って言葉、ご存じです?」
「へっへー! アンタ冗談って言葉は知っている?」
売り言葉に買い言葉。
さすがの都築も、そろそろ腹が立ってきたようで、頬がピクリと動いた。
ふざけなければ存在できないのか、いい加減にしろ。
その言葉が口を吐く前に、生流が先んじて口を開いた。
「あと、さすがに天使に祝福された生身の人間を、地獄に連れて行ったら、大問題でしょ。 取り返しがつかないでしょ」
急に真面目な口調に戻って、生流が言う。
毒気を抜かれてしまったように、都築は先ほどの文句を飲み込んで、代わりに特大の溜め息を吐いた。
「……気づいてたんですか」
「そりゃあねえ」
生流が肩を竦めた。
「天使が魔法で出した水なんて、普通に考えたら聖水でしょ。それで清めた、祝福されたリンゴを食べたなら、そりゃあもう奏ちゃん自身も祝福されて当然でしょ。ああ、そもそも、リンゴを洗った時点で、間接的には祝福されてたのか。あの時のリンゴは奏ちゃんそのものだったんだしね」
「……まあ、ちょっとした罪滅ぼしというヤツですよ」
都築は生流から視線を逃がして言う。
「彼女を〝死にたがり〟だと断じて、ご迷惑をおかけしましたから。……まさか、人事部門に異動になってから、また洗礼部門の真似事をするハメになるとは思いもしませんでしたけどね」
「へえー。じゃ、アタシの分の罪滅ぼしもついでにお願いね! よろしくね! 何しろ、決闘方法がアタシの用意した方だったら、もっと悲惨なことになってたろうからさ!」
からりと楽しそうに笑いながら、生流が言う。
「なんで僕があなたの分まで引き受けなければいけないんですか。自分でやりなさい、自分で」
それとは対照的に、都築はげんなりとした表情で答え──
「……と、あと、聞き流しそうでしたが、それは聞き捨てなりませんね。いったいどんな決闘方法にしようとしたんですか?」
今度は怪訝そうな眼差しを生流へと向けた。
「あーえーっと……、ま、見てもらった方が早いかな」
そう言った彼女が、パチンと指を鳴らすと、彼女たちの前に現れたのは、大の大人が入るほどの大樽と、そして大量の剣の入った樽が一つずつ。
都築の顔が引きつる。
「じゃーんっ! 題して、〝奏ちゃん危機一髪〟!」
「……本っっ当に、趣味が悪いですね。危機一髪どころか、刺したら死あるのみでしょう。……あなたこそ地獄の刑罰を受けた方がいいんじゃないですか?」
「あっはっは! それは心外、酷いなあ! まあまあ、いいじゃない、どうせ使わなかったんだしさ!」
「もし使うことになってたら、どうするつもりだったんですか」
呆れ果てたような口調で言う都築に、しかし生流はあっけらかんと応える。
「なぁに、使うなんて絶対にあり得なかったから、こうやってネタに全振りできたともいえるのである、まる!」
「なんですか、その迷惑千万で無駄な確信は。うっかりあなたの分まで彼女に謝罪したくなり──」
そこまで言って、ふと何か思い当たったのか、都築が口を噤む。
そんな都築の様子に、生流が悪い笑みを浮かべた。
「おや? おやおやおや? どうしたんだい、ペテン師くん?」
「……いや、まさか──」
都築が思い出したのは、あの言動。
銃弾が絶対彼女の頭を貫かないと、自信たっぷりに言い放った、あの姿。
結局、奏の頬をえぐった弾丸は、生流が撃った弾だったが、しかしよく思い出してみれば、あの時彼女は、林檎ではなく、奏の顔目掛けて引き金を引いていたような──。
あまりにも大胆な行動。
ふざけ倒すのが彼女の性分なのかもしれないが、それでも、せっかくスカウトに来て、ふざけ倒した結果、新人からの信用を失い、契約に結び付かなかったとしたら、目も当てられないだろう。
さすがに、彼女もそこまで馬鹿ではないはずだ。
地獄も人材不足なのは、確かな情報なのだから。
思い返してみれば、昨日からその気はあったような気さえする。
「気づいた? ねえ、気付いちゃった?」
「……もしかしてあなたは、今日は彼女が〝死なない〟ことを、知っていたんじゃないですか?」
おっ、と驚いたような表情をして、そして彼女はニヤリと笑った。
「珍しく鋭いね! そう、正解だよ!」
しかし、都築は解せない。
同じ死後の世界からのスカウトであるのに、なぜ彼女にはわかって、自分にはわからなかったのか。
「まったく、こちらは目の色を見て判断するしかないというのに、どうしてそこまで〝死ぬ気がない〟ではなくって、〝死なない〟ことがわかるんですか?」
「おいおいおい、このペテン師! アタシが何なのか、忘れたわけじゃないでしょう?」
「何って──」
彼女は、地獄から来た──
「そう、アタシは〝死〟に〝神〟だぜ? 権能で言えば、アンタの上司と同じ、カミ様ってヤツだよ。その人が今日死ぬかどうかくらい、ちょちょいと注視すればすぐにわかるよ。本当に〝死にたがり〟かどうかもね」
「あー……」
都築は頭を抱えた。
完全に失念していた。
自分と同じ仕事をしているのなら、相手の持つ権能も同じなのだろう、と思い込んでいたのだ。何しろ、普通〝神〟は現世に干渉しないのだから。
しかし、実際はどうだろう。
彼女は奏が死なないことを知っていて、そして彼女が立ち直る手助けをした。
普通であれば、神が現世に干渉することなんてないのだから、きっと何か目的があって干渉した、と考えるのが自然である。
(……もっとも、このふざけた死神に、そういう理屈を求めるのはお門違いかもしれませんが)
それでも、と都築は考える。
ただ、彼女の言動を振り返ると、一貫して『奏を死なせないこと』に重きを置いた行動をしている節がある。
やはり、意図的に行動していると考えた方が自然だろうか。
(もし、そうだとしたら、それはいつから──?)
最初に結界を破った直後から? あるいは、それよりもっと前から──、状況を鑑みるに、全てこの死神の掌の上で踊らされていた可能性が──。
彼がそこに思い至ったことに気が付いたのだろう。
生流が、悪辣な笑みを浮かべた。
「いやー、協力してくれてありがとうねえ!」
「……この、ペテン師がっ──!」
都築は思わず吐き捨てる。
その様子に、生流は愉快でたまらないというように、膝を叩いて笑った。
「あっはっはっは! まったく、ぺも付かないてんしには文句を言われたくはないなぁ! 気が付かなかったアンタが悪い!」
その様子に、都築はがっくりと肩を落とし、今日最大の溜め息を吐く。
「死なない予定にしても、もし当たり所が悪かったらどうするつもりだったんですか」
「そうはならないよ。だってああいう弾丸系のヤツは、数千発単位で撃たないと運命を変えることはできないからね」
「なるほど、運命の法則ですか。……というか、地獄は暇なんですか。仮にも神がこうやって現世に干渉するなんて」
「あー、違う違う、逆だよ、逆」
「逆?」
「人手不足がひどすぎて、アタシたちが出張ってでも仕事の軽減をする必要があるってワケ」
困っちゃうよね、と言って生流は肩を竦めて首を振った。
「例えば、今回の件。もしあのままアンタが奏ちゃんを死なせてたとしたら、死ぬはずがなかった命が亡くなったってことで、無駄な仕事がごまんと増えちゃうんだよ。地獄には来ないで天界直通だとしても、死の通達は来るからね。余った命の残量の調査と、原因の究明で、ヘタすると半月くらいは取られちゃうからね。最近はそういった〝死にたがり擬き〟が死んだせいで、業務がひっ迫して仕方ないのさ」
「……そういうことですか」
「そういうことなんだよ」
つまりは、そもそも彼女は、スカウトではなくて、〝死にたがり擬き〟を正常な状態に戻すために、方々で暗躍しているということなのだろう。
そして、今回都築は、そのダシに使われたというわけだ。
「……まったく、骨折り損のくたびれもうけですよ。本当に性質が悪い」
都築が、げんなりと、疲れ切ったように言う。
そんな彼を見て、生流は何か思い出したように人差し指を立てた。
「あ、そうだ! 知っているかい天使クン、巷では今、こんな言葉が流行っているらしいぜ?」
にやり、というその表情に、都築は嫌な予感を覚える。
顔を合わせてまだ二日だが、この女がこの表情を浮かべるときには、大抵碌なことが起きない。
「…………」
しかし、こちらが黙っていたからといって、彼女が黙っているわけもないのであるが。
生流は、右手の内側の指三本を立てて、それで都築を指すように、ビシと腕を伸ばした。
「ざまぁ♪」
舌を出して、小馬鹿にするように彼女が言う。
「……残念ながら、少しだけ流行に後れてますよ」
「そうだね、今のトレンドは〝わろし〟だね!」
「平安貴族ですかあなたは」
「アホが見る! ブタのケツ!」
「だから古いんですって。それに品がない」
顰め面のままそう言い返してから、都築は言い返した自分が馬鹿だったと自戒する。このテの性格の者は、構えば構うだけ冗長するのが常だ。
「あっ、おい! ねえ! ちょっと!」
都築が生流から目を離し、奏の方へと手を遣ったのを見て、彼女はもっと構えと言いたげな声を上げる。
しかし、都築はそれを無視して、口の中で天界の言葉で呪文を唱えた。
彼が呪文を唱え終わると同時に、奏の頭を囲うように光の円環が現れ、次の瞬間にはそれが縮まり、そして彼女の頭の中へと消えていった。
「……終わっちゃった?」
「ええ。これで彼女はもう、今日のことも、僕たちのことも、思い出すことはないでしょう」
都築の答えに、生流は伸びをして、「あー終わっちゃった!」と言った。
その物言いに何か含みを感じて、つい都築は彼女に突っかかってしまう。
「何かあるんですか?」
棘のある口調。
だが、それに対する答えは、あまりにも落ち着いた口調だった。
「お疲れ様、天使くん。誇りなよ、君は一人の人間を救ったんだ」
急に真面目になった生流に、都築は一瞬だけ目を見開いて、直ぐに苦笑を漏らした。
「どうも。……まあ、本来であれば、それは救済部門の管轄なんですけど。──それより、僕を労う前に、彼女への謝罪やらねぎらいやら、そういったのはないんですか」
「だってもう、奏ちゃん意識がない──、わかったわかった! そんな目で見るんじゃない!」
今日一の冷たい視線に、生流ははぐらかすのを諦め、両手を上げて降参の意を表明する。
「さっきは、アンタにアタシの代わりに罪滅ぼしをー、なんて言ったけど、実のところ、もう既にそれは済んでるんだよ」
「済んでいる?」
そう、と生流が頷く。
「なにせ、彼女が泣いている時に、〝神のご加護〟ってヤツを施してあるからね。ま、死神とはいえ神は神だから、きちんと効果はあると思うよ」
「……どんなですか?」
「なぁに、ちょっとした縁切りのおまじないさ」
「ああ、奇遇ですね。僕がかけたのは、縁を繋ぐ祝福ですから」
考えることが似ていたことに不満があるのか、生流がその返事に対して頬を膨らませる。
そんな彼女を意にも介さず、都築はパチンと指を鳴らした。
このフロアを覆っていた、光の結界が、霧散する。
「さて、じゃあ僕はこれで。拝借した銃を返しに行きたいですし」
都築は生流と奏に背を向けて、この場を立ち去ろうとする。
それを、生流は不満気に呼び止めた。
「おい、ちょっと! 奏ちゃんを廃ビルに捨てて帰るつもり? さすがに薄情じゃない? ひどくない?」
「あのですね……」
それを聞いた都築が、呆れかえったように肩を落とす。
「何のために記憶を消したと思ってるんですか」
「あ、そうだっけ」
今回はふざけていたわけではなく、完全に失念していたようで、生流はあちゃー、と言って額を叩いた。
そして彼女はすぐさま、何かを決意したように「よし」と言って頬を張った。
「……何をするつもりなんです?」
さすがに放ってはおけないと思ったのか、都築が振り返る。
もちろん、この放ってはおけない、という対象は生流のことであり、そして意味合いとしては、野放しにしてはならない、ということ。
その意図を察したのだろう。
生流は「信用ないなァ」といったん口を尖らせて言う。
「すっきり目覚めて周囲が廃ビル、ってのはあまりにも風情がないからね。なーに、ちょっくら空間を捻じ曲げるだけだよ、ちょっとしたアフターサービス、サプライズだよ、プライスレスだよ」
パチン!
言うが早いか、彼女が柏手を打つ。
すると、柱にもたれかかっているはずの奏の背後が、ぐにゃりと歪んだ。
「……具体的にはどうするおつもりで?」
少し訝し気な彼の言葉に、彼女はやはり、悪戯っぽく笑いながら応えた。
「人の営む社会に返してあげようぜ? こんな廃墟はもう、この子には似合わないでしょ?」
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