第4話
最早行く意味を失った高校の授業を終え、私はいつも通りの重い体を引きずって、廃ビルの階段を上がる。
さて、昨日はよく眠れたが、一晩経ってから考えてみるに、昨日のあの出来事は、果たして本当のことだったのだろうか。
はなはだ疑問である。
例えば、夢とか、幻覚とか、そういった類のものであると考えた方が、よほど合点がいく。
……いい。
別に。
現実じゃなくても。
もう、私は決めたから。
また明日と言って、彼らが来なかったのならば、こちらで命を絶つ。
先に約束を破ったのはあちらなのだから(そもそも、地獄だの天界だの、現実かどうかも怪しいものだが)、文句を言われる筋合いもないだろう。
廃ビルのへりに腰掛けて、待つ。
昨日より早く授業が終わったから、だいぶ待つかもしれない。
いい。
どうせ、刻限は決まっているし、この後の予定なんてまったくもってないのだから。
待ちに待って、日が傾いた逢魔が時。
そろそろ昨日ここに来た時間が近づいてくる。
「……ホントに来るんだか」
ぽつりと呟く。
「いやー、別にアタシとしては来なくてもいいんだけどね」
「いや、でもそれは……、ん?」
隣に目を遣れば、そこには黄色の髪を二つに束ねた小柄な女の子が、私の隣に座ってこちらを見ていた。
「えっ」
思わず声を上げる。
そこにいたのは、〝死神〟こと生流浬。
涼しい顔をして、「何を驚いているんだい」なんてのたまっている。
「いや、だって……いつから?」
私の疑問に、にやりと笑って彼女は応える。
「三十分くらい前からだよ、ずっと座ってたよ。まったく、いつ気が付いてくれるのかと期待してたけど、こっちが声かけるまで気が付かないからさー。最初は無視されてるのかと思ったけど、ずーっとぼーっとしてるから、逆にこっちも声かけづらくてねえ」
「ご、ごめんなさい……?」
「はー、なんで謝るかな、調子狂うな! ……まあいいや。ところで奏ちゃん、今日、ここに来たってことは、やっぱり〝死にたい〟ってことかな? そうなのかな?」
「……そのつもりで、来ました」
私の言葉を聞いた生流は、じっと私の目を覗き込むように見ると、「そうかい」と呟くように頷いた。
「奏ちゃんがそうだと言うなら、そうなんだろうさ」
含みのありそうなその言い方に首を傾げると、目の前からコツ、という革靴の音が聞こえた。
そちらに目を遣れば、翼の生えた、スーツ姿の男が一人。
「おや、奏さんお早いですね。ちょうど今が刻限通りですが──、そちらの死神からは、何か妙なことを吹き込まれたり、困らされたりしていませんか?」
「あ、いえ……」
〝天使〟こと、都築亘の問いの返答に詰まる。
何も吹き込まれてはいないが、正直この高いテンションで迫られるのは、困る。
「なあに、ちょっくらご機嫌伺いをしていただけさ。死神のごきげんよう、ってね!」
「ですから、あなた
ぴょんと立ち上がった生流に、都築が呆れたような表情を見せる。
「さて、さてさて、役者も集まったことだし、さっそく
「……別に」
聞きたいことは、大方昨日聞いた気がするし、今更特別聞くべき内容もないように思う。
私の返事を予想していたのだろう。
彼女は「だろうね」と頷いて、そのまま続けた。
「じゃあ、問題は勝負の方法だね。勝負というからには、なるたけ公平な手段を用意してきたつもりだけど、そっちはどうだい? ズルしてないかい?」
「心外ですね。あなたじゃあるまいし、ズルをするはずがないでしょう」
「へえ、じゃあどんな手段を用意したんだい? 見せてみなよ」
落ち着いて話す都築を煽るように、生流が挑発的に言う。
いがみ合いには応じない、という意思表明のように、都築は肩を竦めて、ジャケットの中に手を突っ込んだ。
「決闘と言えば、やはりこれでしょう」
そう言って取り出したのは、光沢を失った回転式拳銃。
「はー、スミスウェッソン社の初期モデルね! しかも銃身切り詰められてるし、こんなの、少し離れたら滅多に当たらないでしょ。どこで手に入れてきたのさ、こんな骨董品」
「とある大きな合衆国の古民家から、ちょっと拝借してきたんですよ。なに、どうせ使い物にならないんですから、一日くらいはいいでしょう」
「……おいおい、ペテン師じゃなくてもう盗人じゃん、犯罪天使じゃん」
「第一、こういうものが開発されたから、僕たちの仕事が増えてるんです。ちょっとした意趣返しというやつですよ」
「うわ、アンタ性格悪くない?」
呆れた、と言うように、生流が顔を顰める。
「あなたにだけは言われたくないですよ」
都築が受け流すようにそう言って、「それはそうだけどさァ」と生流が口を尖らせる。
「それをどうするつもりだい。決闘ってったって、アタシらが直接するわけにはいかないだろう、そうだろう? 直接やりあったら大問題だと言ったのはそっちでしょ?」
どうやら彼女は昨日バカと言われたことを気にしているらしい。
都築が苦笑を漏らす。
「忘れたわけがないでしょう。僕たちのせいで戦争勃発なんてなったら目も当てられません」
そう言って彼は、拳銃を放って左手でキャッチしたかと思えば、特にそれ以外はしたようには見えないのに、既に彼の右手には、赤い球体のような物が握られていた。
マジック──じゃなくて、これも昨日言っていた魔法なのだろうか。
「はは、ウィリアム・テルか。……やっぱりアンタ、性悪が過ぎると思う」
彼の手に握られた赤い果実──林檎を見て、生流が心底嫌そうな顔をした。
「性根がひん曲がったあなたからお褒め戴けるとは!」
軽口に対して軽口の応酬が始まる。
なんだかこのままでは埒が明かないような気がしたので、当事者である私は口をはさむことにした。
「ねえ、その、ウィリアムなんとか、って、何?」
やいのやいのと言い争っていた二人が、ぴたりと動きを止めてこちらを向く。
口を開いたのは、生流だった。
「あー、そうか、この国のお話じゃないんだっけ、知らない人もそりゃいるよね。うーん、そうだねぇ、簡単に言うと、リンゴと
「林檎と……?」
いまいち飲み込めない私に、都築が助け船を出してくれた。
「スイスの英雄ですよ。息子の頭の上に乗った林檎を射抜いた、という逸話はそこそこに有名です」
ああ、なんとなく聞いたことがあるような気がする。
弓の名手が貴族に目を着けられて、息子の頭の上に乗った林檎を射抜いて見せよと言われたとかなんとか。
結局、息子を誤って射抜いてしまって、その貴族も殺したんだっけ?
それとも、林檎を射抜いて、二の矢で厚顔無恥な貴族を殺したんだっけ?
仔細は覚えていないが、彼女がウィリアム・テルの名前を出して、そして彼が否定しなかったということは──。
「……えっと、つまり私は──」
「そうだよ、きっと予想通りだよ」
にんまりと笑った生流が、都築の手から林檎をひったくる。
「このリンゴを頭に乗っける係さ。なーに、柱に背中を預けて、林檎が撃たれるのを待つだけだよ。カンタンでしょ?」
なるほど、これを提案してきた生流は、それは性格が悪いと言わざるを得ない。そして同時に、こうやって意地悪く笑う生流も、やはり彼が言ったように性根がひん曲がっているのだろう。
……私は、ただ普通に死にたいだけだったんだけど。
どうしてこう、うまいこと行かないのだろうか?
────
───
──
─
場所は変わって、屋上から一段下がって、廃ビルの六階。
風化したオフィスと、埃にまみれた床に、落書きのされた壁。
私はそんなモノたちに囲まれて、壁紙も剥がれたコンクリートの柱に背中を預けていた。
今から、私の処刑──、そう、銃殺刑が始まろうとしていた。
いや、そもそも別に、処刑なんてものではないのだろうが、彼らが『どちらが私を優先的に職業案内するか』という奪い合いの手段として、私の頭に乗せた林檎を打ち抜く、というものを採用したのだ。
──まあ、いい。
体裁なんてどうだっていいんだ。
肝心なのは、その先だから。
だから、私の体がどうなったところで、別に気することじゃない。
さて、そして、この処刑ゲームのルールはこんなところだ。
まず、私は林檎を頭の上に乗せ、じっと立っている。
そして、天使と死神が、交互に銃を撃ってくる。
照準の定まらない、古ぼけた拳銃で、林檎を打ち抜いた方が勝ちとのことだ。
ただ、もちろん誤射してしまうことだってあるだろう。
頭に乗っけているのだから、そこに当たる可能性だって高い。
そうなった場合は、撃ち抜いてしまった方の負け、ということになるようだ。
私は林檎を両手に抱えて、周囲を軽く見る。
この期に及んで、まだいがみ合うように言い争っている二人。
その向こうには、黄色く輝く光の壁が立っている。
これは、昨日天使が最初に張ったのと同じ結界らしい。なんでも、音が外に漏れるのを防ぐ効果があるのだとか。
それのおかげで、日本の街中で銃を撃っても問題ないというわけだ。
ただ唯一、気になるとすれば──。
「……もし弾が当たったとして、痛かったり苦しかったり、そういうの、ないですよね?」
その問いには、都築の方が応えた。
「ああ、安心してください。天界製の特殊弾です。通常通りの威力はありますが、撃たれても痛みはないですから、ご安心を」
「安心できる要素は何もないけどねー」
あっはっは、とからりと笑って、生流が微笑んだ。
今までに見たことのない優しい表情で、彼女は続ける。
「まあ、安心しなよ少女。キミの綺麗なドタマに銃弾がめり込むことはないだろうからさ」
なんて自信たっぷりに言って、彼女はウインクまでしてのけた。
少し毒気の抜かれる気分になって、しかし気になることは聞いておかなければ。
「あと、林檎に弾が当たったとして、その後、私はどうやって死ぬんですか?」
「ん? リンゴが撃たれた時点で、奏ちゃんはもうこの世からバイバイだよ?」
そのままの流れで生流が言うが、やはり理解が追いつかない。
私の顔に浮かんだクエスチョンマークに気が付いたのか、彼は疲れたように溜め息を吐いた。
「あなたの説明は雑が過ぎます。彼女が混乱しているでしょう」
「なんで。人生は驚きとサプライズで彩らなけりゃ損だとは思わない?」
「死神が人生を語るのはどうかと思いますが」
「確かに。言えてるね」
いつもの調子に戻って、相変わらず軽口を叩く生流のに、都築が溜め息を吐いて、そして私の方へ向き直り、手に持った林檎を指差した。
「その林檎は、普通の林檎じゃないんですよ」
「はあ……?」
「命の果実とでも申しましょうか。今、十分ほど、その林檎を抱えてましたよね? 私の魔法で、あなたの命をその林檎と同期させていただきました」
「……なるほど、魔法ですか」
それなら、まあ納得はいく。
魔法の原理なんてとんと検討が付かないけれど、実際この結界やら何やらを見てしまえば、そういうモノもあるなんて思考停止な納得もやむなしだ。
「ああ、禁断の果実じゃなくて、黄金の方か。聖書じゃなくて、神話の方か」
どうやら理解も納得もしたように頷く生流の首根っこを掴み、廊下を引きずっていく。
「まあ、そういったわけなので、林檎に着弾したら、そのままあなたの肉体と魂は離れ離れになる、という寸法です。では、準備ができたら始めましょうか」
言うが早いか、彼は十メートル弱離れると、くるりと振り返り、私との距離を確かめた。
こんなものですか、と小さく呟いて、指を立ててから足元を指す。
すると、彼の足下に光のラインが引かれた。
その線より後ろから撃つということらしい。
「さて、奏さん。心が決まったら、頭の上に林檎を乗っけてください。──ああ、立ち上がらなくて結構ですよ。高いところから林檎を落としたら、勝負の前に終わってしまうかもしれませんから」
指示に従って、私はコンクリートの柱に背中を預け、林檎を頭の上に乗せようと──
「あ、そうだそうだ」
地面に放り出されていた生流が、思い出したように起き上がった。
「そういえば、先攻と後攻を決めていなかったね、そうだったね。ねえ奏ちゃん、どっちが先に撃った方がいいとか、ご希望はある?」
ぱんぱんと衣類についた埃を払いながら、生流が言う。
頭に林檎を乗せるポーズのまま固まって、私は少しだけ考える。
どっちが有利、どっちが不利。
そういうことがあるのなら、慎重に答えを出さないといけない気がするけれど──。
────うん。
「……あなたたちに、任せる」
多分、それぞれメリットデメリットがあるから、結局何も変わらない。
私はゆっくりと林檎を頭に乗せて、そのまま真っ直ぐに前を見つめた。
「じゃあ、ここはレディファーストでいきましょうか」
都築が銃身を握って、生流の方へと差し出す。
おや、と生流が少しだけ驚いたような顔をした後に、にやりと笑った。
「先手を譲るということは、よっぽど自信があるのかな? それとも逆に自信がないのかな?」
銃を受け取って、シリンダーを引っ張り出して、くるくると回す。
カシャン、と軽い音を立てて、弾倉が銃身に納まった。
生流が銃を顔の前に上げて、半身になる。
「返せと言っても返さないぜ?」
それに対して、涼しい顔をして都築が言う。
「言いませんよ、天使に二言はありませんから」
「おーけい」
頷くと同時に、銃を握った右腕がまっすぐ伸び、そして後に続く銃声。
それとほぼ同時に、私の右後方で鈍い音がする。
柱に、弾丸がめり込んだらしい。
パラパラという音。
「おっと、外れ。残念」
そう言って彼女は肩を竦める。
……不安になる。
さっき「頭に当てるなんてしない」みたいなことを言っていたが、それもあまり信用できないような気がする。
「次はアンタの番だよ」
その台詞と共に、生流は都築に向かって銃を放り投げる。
放物線を描いた銃を、都築が少し顔を顰めてキャッチした。
「銃火器くらい、丁寧に扱ったらどうですか?」
「必要ないでしょ? ほら、奏ちゃんがお待ちだよ」
「……まったく、あなたという人は……」
「人じゃなくて〝死神〟だぜ?」
「言葉の綾でしょう」
言い合いをそう断ち切って、都築は私の正面に立ち、肩幅に足を開いて銃を両手で構える。
三秒、五秒──。
しっかり照準を定めて、彼がゆっくり引き金を引いた。
銃声。
弾丸は、私にも林檎にも当たらずに、今度は左後方の柱にから鈍い音がする。
「あっはっは! 外れー!」
「あなたもさっき外したでしょう。ほら、次はあなたの番ですよ」
都築は生流とは裏腹に、丁寧な所作で彼女に銃を手渡す。
受け取った彼女は、その場で半身になり、そして先ほどよりも早くに銃を撃った。
銃声。
外れ。
……うん、これは、目を開けているとつらいやつだ。それに、これほど弾がぶれていると、いつ当たるか分かったものじゃない。
私は静かに目を閉じる。
……これでいい。
見えないまま、静かにぽっくりいければ、それは幸いだろう。自殺の中では、きっと上等な死に方だ。……いや、天使と死神の力を借りておいて、自殺と呼称していいのかは知らないけれど。
銃声。
外れた音。
銃声。
外れた音。
銃声。
外れた音。
銃声。
外れた音。
指を鳴らす音。
……そう言えば、弾は天界製とか言ってたっけ? 魔法か何かで装填したのだろう。
銃声。
外れた音。
銃声。
外れた音。
銃声。
外れた音。
銃声。
外れた音。
銃声。
外れた音。
銃声。
外れた音。
銃声。
外れた音。
銃声。
外れた音。
銃声。
外れた音。
銃声。
銃声。
銃声。
銃声。
銃声。
銃声。
銃声。
銃声。
銃声。
銃声──
パッ、と、小さな音が鳴った。
「あっ」
コンクリートに銃弾がめり込む、あの外れた音が鳴る。
少しだけ遅れて感じたのは、熱。
右頬だ。
弾丸が殴られた痕を隠していたガーゼを吹き飛ばし、頬の皮膚を少しだけえぐって、そして後ろの柱に当たったのだろう。
そして、この感覚は──。
ゆっくりと目を開いて、痛みもない右頬に、手を当てる。
温かい、感触。
どろどろとした、温かい感触。
そこから離した手を見てみれば、そこに見えるのは、赤。
赤。
そう、赤だ。
その赤色が、あまりにも鮮明過ぎて、私は思わず身を固めてしまった。
頭から、林檎が落ちる。
少しだけ皮の剥げた林檎が、地面に当たり鈍い音を立てて弾むのと同時に、私の心臓が、不整脈を起こしたかのようにぎゅっと締め付けられた。
でも──、そんなことも気にならなかった。
その赤色に、私の目はくぎ付けになっていた。
未だに、頬から血は流れ続けている。痛みがないから、どれほどの怪我だったのかはわからない。
ただ、頬から顎を伝い、そして首に流れる生ぬるいモノが。
顎から滴り、服に染みを作っているであろう、その赤く生ぬるいモノが。
今、私の右手を真っ赤に染めている、生ぬるい液体が。
否応なしに、私が生きていることを実感させる。
否応なしに、私の生命が流れ出ていることを実感させる。
────違う。
嘘だ。
そんなはずはない。
だって、だって──。
────違う。
だって。
死にたいと思っていたはずだ。
死にたいけれど死ねなくて、どうしようもなくて苦しんでいたはずだ。
今日、死ぬ覚悟はできていたはずだ。
その気持ちに、偽りはないはずだ。
なのに、なんで。
私の頬を流れていくのは、血液よりも少しだけ冷たく、そしてさらさらとした液体──。
なんで。
死にたい、はずなのに。
この期に及んで──、この期に及んで何故、死ぬのが怖いなんて。
いざ死ねるとなってようやく──、言葉だけでなく、死を目の前にしてようやく。
命が惜しいだなんて。
死にたいはずなのに。
私でも、私のことがわからない。
死にたい、はずなのに。
生きる価値なんてないのに。
もう、死にたいのに。
この世から、消え去ってしまいたいのに。
────ああ、そうか。
ようやくそのことに気が付いてしまい、同時に、もう涙を止めることができないと悟った。
そう、違ったのだ。
死神の言った、あの言葉。
私の『死にたい』に対して言った、あの言葉。
『わからないなら別にいいさ。無理してわかろうとするものでもないさ』
『アンタがそう言うならいいけどさ』
……もしかしたら、彼女は気付いていたのだろうか。
違ったのだ。
死にたいわけじゃなかったのだ。
震える唇を、噛みしめる。
ただ、どうしようもなく、つらくて、苦しくて、母親が嫌で、母親が連れてくる男たちが嫌で、私自身とは関係がないのに当事者であるように扱ってくる同級生が嫌で、そして、そんな現実に浸って慣れてしまう自分が嫌いで、そんな世界が大っ嫌いで。
嫌で嫌で嫌で嫌で仕方なくって。
逃げ出したかった。
だけど、逃げ場なんてないから──死にたかった。
そう、思ってしまった。
だけど、私の本当の望みは──。
ふと、私の前に影が落ちる。
ぱっと目を上げると、そこには、あの死神が立っていた。
「ちょっと生流さん!」
都築が慌てて呼び止めるような声聞こえる。
──ああ、死ぬのかな。
なにせ、彼女は死神なのだから。
私が、本当の気持ちに気が付いたことがわかって、ここで終わらせるつもりなのかな。
「文句は聞かないし、なんなら勝負はアンタの勝ちでいいよ、どうでもいいよ。もう、意味がなくなったから」
…………ああ、視野狭窄も甚だしい。
もっと前にこのことに気が付いていたなら、私はまだ、生きていられただろうか。
生流が、私に覆いかぶさるように、体を傾けて──
「……え──?」
死神のはずなのに。
死神だというのに。
死神の、くせに。
彼女は優しく、どこまでも優しく、私の体を抱きしめた。
──涙が、止まらない。
「ようやく気付いたみたいだね。眼の光が、戻ってる」
つい先ほどまでふざけていたのが嘘みたいな、優しく暖かい声が、私の耳元でささやく。
私は、声も上げられず、鼻をすすりながら頷いた。
「だから言ったのに。キミはバカだなあ」
どこまでも優しい声で、彼女が言う。
「死にたくなんて、なかったんでしょ?」
声を出すことも叶わず、ただ、頷く。
「つらかったんでしょ?」
頷く。
「苦しかったんでしょ?」
頷く。
そう。
言語化してしまえば、そんな簡単な感情。
ただ、その簡単で単純な感情が、途方もなく重くて、大きくて。
抱えきれなくなって、圧し潰されてしまったのだ。
「どうしたい?」
彼女が、優しい声のまま、訊いてくる。
「どうしてほしい?」
ああ、そんなの、決まっている。
ずっとずっと、そうして欲しかったのだから。
「言ってごらんよ、奏ちゃん、キミの望みをさ」
そんな望み、叶うはずがないと目を背けてきたのだ。
いつしか、私なんかが、そんなことを望むなんて烏滸がましいと。
目を背けているうちに、見えなくなってしまったのだ。
「助けて……」
涙に濡れて震えた声が、私の口から洩れる。
そう、言葉にしてみれば、そんな単純な望み。
苦しくて、つらくて、どうしようもないから、助けてほしい。
たったそれだけの、ちっぽけな望み。
そのちっぽけな願望を吐き出して、ついに私の心を塞いでいた堤防が切れた。
きっと初めて──、死にたいと思い込み始めてから初めて、私は声を上げて泣いた。
今までため込んでいた感情が溢れたように、みっともなく、赤子のように泣いた。
私がわんわんと鳴き続ける間も、彼女はずっと、私を優しく抱きしめていた。
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