第3話

 カン、カン、と金属の階段が音を鳴らす。

 ここは、安普請のアパート。

 外装は古臭く、もちろん内装もガタガタだ。

 ドアを扉たらしめる蝶番は錆のせいで、開閉の度に耳障りな音を立てる。

 軋みを上げたドアの先には、真っ暗な玄関。

 暗い廊下。

 暗い居室。

 良かった、と私は胸を撫で下ろす。

 あの母親悪魔がいないというのは、朗報以外の何物でもなかった。

 悪鬼。

 暴虐。

 毒親。

 奸悪。

 暴君。

 性悪。

 凶賊。

 蒙昧。

 暗愚。

 酒乱。

 醜類。

 邪悪。

 狡知。

 冷血。

 廓女。

 鬼畜。

 下衆。

 非道。

 暴悪。

 陋劣。

 陰湿。

 腐者。

 毒婦。

 畜生。

 淫売──。

 あの悪魔母親への罵詈雑言など、履いて捨てるほどに自然と出てくる。

 あれは、最悪の母親だった。

 思い起こすだけで、眩暈と吐き気を催し、うっかりすると涙まで流してしまいそう。

 私は誰もいないはずの自宅の中で、唯一安心できる──と言っても気休めだが──自室へと逃げ込み、震える息を吐きだした。

 大丈夫。

 あいつは今、いないんだから。

 目を閉じて、深呼吸をして、心を落ち着かせる。

 三度。

 五度。

 ようやく、うるさいほどの心臓の音も落ち着き、冷静さを取り戻す。

 ゆっくりと目を開けて、時計を確かめれば、まだ九時を過ぎたばかり。


 ──この時間なら、まだ洗濯機を回しても文句は言われないか。


 制服を脱いで、部屋に脱ぎ散らかしてあった寝間着を拾い、洗面所へと向かう。

 洗濯機の蓋を開ければ、まだ洗われていない衣類が、そろそろ狭いと言わんばかりに詰まっているのが見えて、私は小さく顔を顰めた。

 下着を脱いで、その洗濯機に放り込み、洗剤類を入れてツマミを回す。

 ゴウゥ……という鈍い音がして、洗濯機が回り始めた。

 古びたその機械の振動を少しだけ眺めてから、ふと目を上げる。

 水垢にまみれた洗面台の鏡。

 そこに映るのは、服を着ていたらわからない、胴体やそれに近い位置についた、青い痣、痣、痣、痣──。


「あ、そうだっけ……」


 私は無意識にそう呟いて、頬にとめていたガーゼをはがした。

 その下から出てくるのも、痣。

 昨日夜、殴られたんだっけ。

 その鈍い痛みを思い出して、私は──、もう一度溜め息を吐いて、鏡から目を背けた。

 別に、いい。

 あの女がこの時間にいないということは、きっと今日は帰ってこないのだろう。

 どうせまた、男の所に行っているに違いない。

 ホテルか、それとも男の家か。

 けれど別に、そんなことはどうだっていい。

 その男が、昨夜私に迫ってきて、私が嫌がったからといって顔を殴ってきた奴かどうかだって、私には関係がない。

 一切合切、関係がない。

 風呂場へと入り、冷水と温水の蛇口をひねり、適温になるよう調整する。

 水の流れる音が、妙に心地いい。

 髪の毛を洗いながら、考える。考えて、しまう。

 私の母親が、あんな女になってしまったのは、いつからだろうか。

 記憶を手繰ってみても、正確に何時、ということは思い出せない。

 だって、それはそうだろう。人は徐々に変化していくものなのだから。

 しかし、きっかけは明白だ。

 父の死。

 私が高校に上がった直後だったから、もう二年以上も経ったのか。

 私が高校の入学式を終えたその日、父は帰らぬ人となった。

 交通事故だった。

 不運と言ってしまえばそれまでだが、当事者である私たちにとっては、そんな言葉では到底片付けることはできなかった。

 その日を境に、母親は壊れ始めた──んだと、思う。

 悲しみと喪失に蝕まれるように、徐々に、徐々に。

 気が付いた時には、もう取り返しがつかなくなっていた。

 蝕まれた心を埋めるように、酒と、そして男に走るようになった。挙句には、


『お前を見ると、あの人を思い出すから、できるだけ顔を見せないで』


 そんなことを言って、殴られた。

 ……気持ちは、わかる。

 悲しみは、わかる。

 つらいのも、わかる。

 わかるからこそ、私は消えたかった。

 母の前から、この世から、いなくなってしまいたかった。

 だから──、死にたかった。

 髪を洗ったら、体を洗う。

 桶にお湯を張り、シャワーは止める。

 体を洗いながら、さらに益体もないことを考える。

 不幸なことに──いや、同じ地域に住んでいれば、そういうこともあり得るだろう。ある時、ついにあの女は、同級生の父親に手を出してしまったようだ。

 いわゆる、不倫というヤツだ。

 同じ地域に住んでいて、娘息子が同い年の親同士の話。それは親同士の年齢も近しくなるというのが必然であり、そんな中で男漁りなどしようものなら、いつかは引っかかることは必然だったのだ。

 あの女にとっては幸か不幸か、裁判沙汰になるほど大事にはならなかった。

 だけど──、私にとっては、それが不味かった。

 そう、最悪だ。

 不倫なんて可愛い悪戯、なんて小言で済むような家庭が相手だったら良かったのだが、相手の家は、 外面は取り繕い、しかし内面は取り繕えない、そんな過程だったらしい。

 私の母のせいで、その生徒の家庭が酷い状況になってしまったということで、私は学校からも居場所を失った。

 ありていに言えば、いじめだ。

 もちろん、彼らも馬鹿じゃないから、直接何かを仕掛けてくるわけじゃない。。

 ただ、陰湿に、執拗に。

 それがまた一段と、精神をすり減らせた。

 桶に張ったお湯で、体の泡を落とす。

 もちろん全部は落とせないから、もう一度シャワーの温度を合わせて、体の隅まできちんと洗い流す。

 だけど、本当に度し難いのは、あの女がまだ、私に愛情らしき執着も持っているらしいということ。

 素面の時から罵倒して、酒を飲んでは手を上げて、娘が寝ている隣の部屋に男を連れ込みよろしくやって、挙句の果てには、酒の勢いで男が娘に手を出すのを手伝うような……。

 そんなことをしておいて、高校へは通わせて、通信費も払って、食費分の小遣いも寄越してくるのだ。

 家を出たいといった時には、泣き喚かれて、そしてしこたま殴り、叩かれた。


「……気持ち悪い」


 本当に、意味が解らない。

 私はシャワーを止めて、そのまま脱衣所へ出て、タオルで体を拭く。


「気持ち悪い」


 呟く。

 そんな、意味不明な行動をする母親が気持ち悪くて仕方がなかった。

 捨てるなら、捨ててしまえばいいのに。

 殺すなら、殺してくれればいいのに。


「気持ち悪い、気持ち悪い……本当に、気持ち悪い」


 わかっている。

 本当に気持ち悪いのは、そんな現実に順応し、受け入れてしまっている自分だということ。

 母からしたって、気持ち悪いだろう。

 こんな感情の起伏があるかも怪しい、能面を被ったような娘なんて。


 ──ああ、死にたい。


 体を拭いたタオルを洗濯機に入れようとして、私ははたと気が付く。


「あー……」


 洗濯機を回す順番を完全に間違えた。

 というより、そもそも洗濯機を回す必要もなかった。

 だって明日には、私は死ぬ予定なのだから。

 後のことは、何も関係ないでしょ?

 溜め息を吐いて、洗濯機の蓋を開けて、その中にタオルを放り込んで、そして私は寝間着を着る。

 もう一度、鏡を見た。

 目つきの悪い能面が、そこに映る。

 こちらを睨みつけてくる鳶色の瞳を睨み返して、私はそのまま自室へと戻る。

 晩御飯は一応買ってきたが、食欲はわかなかった。

 ……別にいい。

 せっかくあの女がいないのだ。

 私はそのまま布団にもぐる。

 死のことを永眠と表現することはあるが、どうも今日出会った二人の話を聞くに、あくまで眠るのは肉体だけであり、その魂がゆっくりできるかは怪しいものだ。

 明日死ぬ予定があるなら。

 最後の夜くらい、ゆっくりぐっすり眠ってやる

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