トカゲの宿

多田いづみ

トカゲの宿

 男の鼻の穴からトカゲが顔を出している。

 男はコートのポケットに両手を突っ込んで、わたしの隣りに座っていた。上向きかげんに、口をだらしなく半開きにして、目はずっと閉じたままだった。

 ほんとうに寝ているのか、目を閉じているだけなのかは分からない。が、どちらにしても、自分の鼻からトカゲが顔を出していることには気づいていないようだった。


 そこはある駅の待合所だった。

 男を含めわたしたちが乗っていたのは、終点まで行かない途中止まりの列車だった。運行計画の都合かなにかで、そうしたものがたまにあるのだ。その先に行きたい乗客は、そこでいったんホームに降り、待合所で次の列車を待つ。

 乗り継ぎを待つ者はそう多くないが、待合所もそう大きくはない。しぜんと中は混んだ。


 待合所は暖房もなく、吹きさらしのホームの上に薄っぺらなアルミの建具で囲われただけの簡素なつくりだが、風が吹き込んでこないだけ外よりはましだった。それでも寒風吹きすさぶというような天候だったから、ぬくぬくというわけにはいかない。

 わたしは背中を丸めて待合所の椅子に座り、手に息を吹きかけたり膝をこすったりしながら、列車がくるのを今か今かと待っていた。


 それにしてもおかしな男だった。たいしてあったかそうな格好でもないのに、待合所の隅にふんぞりかえるような姿勢で座ったまま、ぴくりとも動かない。寒さに強いのか、よっぽど仕事で疲れているのか。見ようによっちゃ凍死寸前に見えなくもなかった。

 あんまり動かないので、わたしは男のことが気になって目が離せなかった。そのおかげでこの奇妙な出来事に立ち会えたというわけだ。そこには何人もの乗り継ぎ客が列車を待っていたが、わたしのほかに気づいた人がいたとは思えない。


 鼻からトカゲを出していることを除けば、男はこれといって目立つところのない、どこにでもいそうな中年だった。折り目の消えただらしないスーツ。そのうえに羽織った薄っぺらいコートはボタンがいくつか取れていて、えりそでもすり切れている。

 いかにも仕事に疲れた貧乏サラリーマンという風体だったが、酒の匂いはしてこない。男は酔っ払っているというわけではなさそうだった。


 トカゲを目にしたとき、わたしは声を出さなかった。それは驚きのあまりというより、トカゲをびっくりさせたくなかったからだ。つまりは驚きよりも、好奇心のほうがまさったといえる。

 その甲斐あってトカゲは穴に引っ込んだりすることなく、わたしはそいつをゆっくり観察することができた。トカゲは頭と前足、そして胴体の半分ぐらいを男の鼻から出していた。目が大きくて指先が丸く膨らんでいるから、あるいはヤモリの仲間だろうか。寒々とした蛍光灯の光に目がうるみ、うろこが鈍く輝いている。


 なぜトカゲが顔を出したのかといえば、もしかするとこの寒さのせいかもしれない。ついさっきまであったかく暮らしていたのに、急に寒くなってきたのはどうしたことかと、あわてて調べに出てきたのではないだろうか――まあこれはただの憶測にすぎないが。


 トカゲは爬虫類はちゅうるいで寒さに弱いから、気温の変化には敏感なはずだ。事実、ちいさな舌を何度も出して、外の温度を正確に測ろうとしているようにも見える。

 そしてついには、男の人中のあたりに前足を置いて踏ん張るような姿勢をとると、下半身も鼻の穴から抜け出て、全身を外にさらした。

 トカゲとしてはそう大きくもなかったが、よくこんなものが鼻のなかに入っていたなと感心するほどの大きさではあった。とにかくしっぽが長い。体と同じくらいの長さだった。そのしっぽは、男のほおからこぼれてぶらんとたれさがっている。


 トカゲは鼻と上唇のあいだにとどまったまま、何かを決めあぐねているようだった。つまりこの宿に居つづけていいものかどうかを――。

 いままでトカゲの宿は快適だった。ほとんどの場合、男は空調のきいた屋内にいただろうし、たまに外に出ることがあっても歩いていれば少しは発熱するから、それほど寒くは感じない。

 しかしこの厳しい寒さのなかでじっとしているとなると話が違ってくる。体温はどんどん外気に奪われていくし、鼻から入ってくる吸気もかなり冷たいにちがいない。それで確かめにきたのだ。


 だがその判断をくだす前に、ちょっとした事件がおこった。男がいびきをかいたように大きく鼻を鳴らしたのだ。

 トカゲはあわてて、先ほどとは別のもう一方の鼻の穴にするりと入っていった。

 男が目を覚ましたときも、しっぽが鼻から出ていたように思う。しかし男はまったく気づかなかった。


 わたしがあぜんとして男の顔を見ていると、男の方もキッとわたしを見返して、

「何だ!」と問いつめるような声を上げた。

 他人にじろじろ顔を見られたりしたら嫌な気持ちにもなるだろうから、それはまあいい。しかしわたしは男が起きたらトカゲのことを話そうと思っていたのに、そういう気分ではなくなっていた。

 それで、「いや、べつに……」と言葉を濁し、何も言わずに引き下がった。


 というのもこの状況で「あなたの鼻の穴からトカゲが出てきて、もう片方の穴に入っていきましたよ」と言っても、からかわれたと思って信じてくれないだろうから。いや信じないどころか男の剣幕からすると、もっとひどいことになるかもしれない。

 それにもし信じたとしたら、トカゲから宿を奪うことになる。わたしは今や、男よりもトカゲの方に親しみを感じていたからそれは避けたかった。


 男はこれまで何も気づかずに生きてきたわけだし、鼻のなかにトカゲがいたってそんなに害はなさそうだ。もともと人間は何千何万という菌や微生物や寄生虫なんかと共存しているのだから、トカゲの一匹くらい増えたところでどうってことあるまい。

 それにヤモリは家の神様、幸運のしるしとも言われている。このまま飼っていれば、男の身にも何かいいことがあるかもしれない。


 しばらくすると、次の列車の到着を告げるアナウンスがホームに流れた。

 わたしは他の乗客たちといっしょに待合所を出た。しかし男はどうやら、列車が来るぎりぎりまで待合所で粘るつもりらしかった。

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トカゲの宿 多田いづみ @tadaidumi

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