補足解説:千葉さなは明治後に結婚していたのか?
拙著“桔梗一凛”をお読み頂き、ありがとうございます。
当小説は、ご覧のように“千葉
先般「実は、千葉さなは明治初頭に結婚していた」と思える資料がみつかり、研究家のあさくらゆう氏が分析されています。
あさくら氏の研究に、筆者幸田は敬意を表します。
とはいえ、幸田はあさくら氏の結論とは逆の見解をもっています。つまり、
「千葉さなが本当に結婚していたかどうか、肝心のところは未だ不明」
と考えます。
あさくら氏によると、兄・千葉重太郎の養子である千葉つかね氏が、千葉さな没後数年して横浜毎日新聞記者の質問に答えた、いわゆるインタビュー記事が掲載されたそうで、それが発見されたのだとか。
千葉家は維新後道場をたたみ、一家で横浜に移り住んだそうです。そこでさなは、因習鳥取藩の元藩士・山口菊次郎と結婚した。
それを知った父・千葉定吉が、
「さな。お前は龍馬に操を捧げた筈ではないか!!」
と怒り、盛大なる親子喧嘩に発展した。さなは近所の商家に逃げ、そこの主人が怒る定吉を取りなした……と重太郎養子の千葉つかね氏が、当時の様子を新聞記者に語ったそうです。
あさくら氏いわく、
・千葉家が明治後、横浜に住んでいたことは確認が取れている。
・因習鳥取藩に山口菊次郎という男が在籍していた、という確認が取れている。
・山口菊次郎が維新後、横浜に住み商売をやっていたという確認も取れている。
・親子喧嘩を取りなした、という商家も確認出来ている。
……そういった事実のウラは取れている。だから千葉さなが山口菊次郎と婚姻関係にあった蓋然性は高い、だそうです。
ですが、筆者幸田は、
「確かに婚姻関係にあった、という一番肝心の部分は疑わしい。住民票なり何なり、確実な資料が見つかるまでは断定出来ない」
と考えます。
だって、千葉さなは危うく無縁仏になりかけたんですよ。
つまり、兄・重太郎(そしてつかね氏)の家は京都にあり、東京に住んでいたさなとは、長年ほとんど没交渉だったのです。
養子・つかね氏も、さなとは随分世代が異なると思います。つかね氏がさなの婚姻騒動をすぐそばで直接見ていたとも思われず、全ては後に、さな以外の関係者から聞いた話でしょう。
それをどこまで信用できるか、という問題に至るわけです。
確かに傍証は幾つも取れています(あさくら氏の成果です)。ですが婚姻を裏付ける確実な証拠自体は見つかっていない。であれば、結論はまだ出ていないと見るべきでしょう。
作家の阿井景子氏によると、千葉つかね氏は前述の新聞インタビューから数年を経て、千葉家の人々に関する手記を残しているそうです。
が、そこに千葉さなの話は書かれていないのだとか。
また重太郎-つかね氏の家に、千葉さなの話が一切残っていないそうです。
そりゃそうですよね。さなの亡骸だって、引き取られていないぐらいですから。縁が切れていたと思われます。
というわけで、そういった諸々の事情を勘案し、筆者幸田は、
「千葉さなはやっぱり、山口菊次郎と結婚していない」
……説を採って小説を書いています。
山口菊次郎という男は、いわゆる女たらしだったそうです。
まさに、女たらしの典型的な手口なんですよ。「あの女は、オレのイロだよ。嫁だよ」と吹聴するのが。……
世間にそうデマを流し、外堀を埋め、ターゲット女性を落とす。千葉さなは多分、それをやられたんです。
で、勘違いした父・千葉定吉と喧嘩になり、さなは勘当された。
横浜には自身の不動産もあったそうですが、それさえ手放さざるを得なくなり、一人東京に舞い戻った。
兄・重太郎は当時、北海道開拓使として他所にいたため、これとも没交渉となった。その養子・つかね氏は、騒動の顛末こそ聞いているが、真相までは知らなかった。
そういうことではないか、と幸田は現時点で解釈しています。
桔梗一凛 幸田 蒼之助 @PeerGynt
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます