月花楼ー⑦
「黒雪?」
紫苑に言われ、大急ぎで厨房へとやってきた蘭。
そこではあちこちで、今宵のもてなしのための料理が忙しなく作られ運ばれていた。
蘭はその厨房の中で一番の古株である、
「将軍様のために婆様が用意していると聞いたんですが」
訪ねる蘭の顔を困ったように見ながら、源介は覚えのないその名前に首を傾けた。
まさか名前を書き間違ったのだろうか。いや、たしかにそう言った。それとも将軍に騙されたのか。しかし楪が用意してあるはずだ、と彼は言った。からかい騙すつもりなら、酒の名を言い楪が準備しているとまで言う必要あるだろうか。
一番忙しい時間に、彼の手を止めさせてしまっていることを心配する蘭だったが、源介はそんな心配する必要もなく、記憶を蘇らせながら手を動かし、下の者に効率よく指示を出していた。
「黒雪、黒雪、ねぇ。将軍様と楼主様は古い付き合いだからなぁ。もしかすると自分で用意して、どこかに保管してるのかも知れねぇな」
「そんなぁ」
「そんな顔されてもなぁ。楼主様に言われて準備しているのは、あそこにある酒だけだ」
源介は手元の包丁で、大きな魚の頭を切り落としながら、その目を厨房の端に置かれた大量の酒瓶に向けた。
そこではいくつもの酒瓶が次々運ばれたり、燗されていたり、いるだけで酔ってしまうそうだった。
そしてその場所は先程蘭が持って行った酒を受け取った場所でもあるため、そんな特別なものが置かれていない事は、すでに分かっている事であった。
「悪りぃな、蘭。力になれそうに、………っていや、ちょっと待てよ」
自身の記憶にはないその酒を、目の前の小さな娘に出してやることが出来ず、源介が申し訳なさそうに目を伏せた時だった。
何かを思い出したように、細く切長の目を精一杯大きく見開かれる。
「…そういや、木蓮さんがしまっておいてくれと置いていった酒が一本あったな。おい!」
源介は近くにいた若い男に声をかけた。男はその声がけに驚いたようにびくりと肩を揺らし、怯えた顔で源介を見た。入ったばかりの新人なのだろうか、その顔に蘭は見覚えがなかった。
「は、はい、なんでしょう」
「あそこの引き戸の棚の一番下に、一本酒が入っていたはずだ。取ってくれ」
「は、はい」
男は困り顔を浮かべながら、慌てて言われた棚に向かい、一番下の引き戸を開ける。
するとそこには源介が言った通り、一本の酒が入っていた。男はその酒を取り出して、こちらへ持ってきた。
「ありがとな。作業に戻っていいぞ」
「は、はい」
入ったばかりで慣れないのか、源介の事がよほど怖いのか、怯えた顔に震えた手。
源介は確かに口は悪いし声も大きい。しかも教え方は厳しい。しかし誰よりも根は優しく、料理に対する熱意も大きい。慕う者は多いが、嫌う者は少ない。そのはずなのにこの男の反応。
(よほど気が小さいのかしら)
ここではあまり見ないその態度に、蘭は少し違和感を感じた。
「お、蘭!これじゃねぇか?」
ぼんやりと、見覚えのない男の背中を見つめる蘭に、源介は大きな声で言った。
蘭は慌てて源介の持つ瓶に目を向ける。
その瓶はひどく年季が入っていて、貼られた紙は色褪せやっとやっとその文字が読める程度だった。
"黒雪"
そこには色褪せて所々掠れてはいるが、墨で書かれた繊細で美しい文字。
その酒瓶が、蘭が探していた物に違いないようだ。
「…これだわ!!」
「よかったな、見つかって」
「源介さんのおかげです」
「ははっ。さ、早く持っていきな。将軍様がお待ちなんだろ」
蘭が嬉しそうにお礼を言うと、源介は照れたように、魚臭い手で鼻を擦った。
受け取ったその瓶は重たく、少しのカビ臭さが蘭の顔を顰めさせた。
黒雪を手に、蘭は再び座敷へと戻る。
中からは相変わらず、陽気な声や大きな笑い声が響いてきていた。
手に持つ黒雪が、異様なほどに重たく、冷たく感じる。
握りしめる手に力を込めると、蘭は恐る恐る座敷の襖を開けた。
するとその途端、中にいる全ての
その視線に蘭の体はまるで石のように硬くなり、先の方から血の気が引いていくのを感じる。心臓は大きく音を鳴らし、妙な汗が伝う。
沈黙と刺すような視線。
その空気に、蘭は一歩も踏み出すことができず、俯き、その場に立ち尽くす。
「ようやく来たか」
沈黙を揺らすように、美しい声が響く。
酒に向かって言っているのか。それとも蘭に言っているのか。どちらかは分からないが、蘭は思わず声の主に顔を向けた。
前を向くと、座敷の中の皆が興味深そうに、蘭や手に持つ酒瓶を凝視しているのが視界に入った。
その目線に、蘭は再び息が詰まる。
「そんなところに突っ立っていないで、早くここへ持ってきてくれ」
そんな蘭や、蘭を見つめる者達のことなど知らん顔で、紫苑はその酒と蘭を呼び寄せる。
皆の視線を集めたまま、蘭はごくりと息を呑み、ゆっくりと紫苑へと向かって歩みを進めた。
座敷の真ん中を突っ切るように、蘭はまっすぐ歩く。
着物が畳を滑る音だけが響き渡り、蘭はまるで地獄の橋でも渡っているかのような気持ちだった。
紫苑の目の前まで辿り着き、蘭はその場に座る。横からの珀の鋭い視線と、伊吹のにこやかな視線が刺さり、緊張は増す。
「ご苦労だった」
紫苑はそう声をかけると、
慌てて蘭は黒雪の栓を開けようと急ぐ。
黒雪の栓の上には、表面貼られたものと同じように、最早読めないほど劣化した紙が貼られていた。その紙をなんとか剥がすと、意外にも木製の栓はほとんど劣化していなかった。
なんとも不思議だ、と蘭は思うが、そんな呑気にしている時間はない。急いでその栓を外すと、中からは嗅いだことのない異様な臭いが微かに香る。
(わざわざ用意したお酒よね)
あまりにも嫌な臭いだ。酒特有の匂いや、甘さや酸味を感じるような匂いではなく、異様に薬臭いような、膿んだ傷のような、雨に当たった地面のような、とにかく鼻を背けたくなるような臭いが、一瞬蘭の鼻を掠めた。
「どうかしたか」
その一瞬の顔の変化を紫苑が見逃すはずもなく、怪訝な顔が向けられる。
蘭は慌ててぎこちない笑顔を浮かべて言う。
「いいえ、なんでもありません」
見るからな古そうなお酒だもの。それに特別なお酒だから、きっと普通のお酒とは違うんだわ。
生まれた違和感を、蘭は自分にそう言い聞かせて飲み込んだ。
紫苑が差し出す盃に、蘭は黒雪を傾け、その中身を注ぐ。
美しく透き通ったその酒は、まるで全ての穢れを払うかの如く、紫苑の手の中にある朱を満たす。
「さすが、秘伝のことだけはあるな」
手の中に揺れる黒雪を見た後、紫苑はそう言うとなぜか意味深に珀へその切れ長の目を向けた。
珀はその目に、どこか不満そうな顔を浮かべると小さく、
「…ありがとうございます」
と言い、楪を見た。
「よりによって、この酒を用意するとはな」
その声には怒りと呆れが含まれているように感じられた。
「古い付き合いでございますから」
楪はにこやかに返す。珀は苛立ちを隠せない様子で、ふんっと息を漏らすだけだった。
紫苑は酒をしばらく凝視したまま、一向に口をつけようとしない。すると隣にいた木蓮に目を向けた。
「そなたも飲め」
「そんな、私には勿体無い代物でございます」
「遠慮はいらん」
紫苑は木蓮の目の前にあった盃を持たせると、蘭にその盃に酒を注ぐよう目で支持した。
蘭は木蓮の美しい手に持たれた盃も酒で満たした。
「ありがとうございます、将軍様」
木蓮は嬉しそうにお礼を言う。
紫苑は微かに口角を上げて、酒を口元へ運んだ。
貴重な酒だろうに、木蓮にも勧めるとは、よほど彼女を気に入ったのだろうか。ならば喜ばしいことだ。
などと蘭は呑気にそんな事を思っていた。これから起こる事など、考える事もせずに。
花は咲き、月夜に散りゆく 雪月香絵 @mizuki_kae
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