月花楼ー⑥
その声に、目の前の伊吹は青い顔をしていた。
何事かと蘭も慌てて振り返ると、そこには入口の所にもたれかかり、腕を組んでは不敵な笑みを浮かべる紫苑の姿があった。
「し、紫苑様」
「何をそんなに驚くんだ、伊吹」
「なんでここに」
「ここに俺がいたらまずいのか?それとも、何かやましい事でもしていたのか?」
「いや、そういうわけでは」
思わぬ人物が現れ、先程まで蘭の事を捉えて離さなかった視線は、紫苑に向けられ青い顔でたじろいでいる。
紫苑はそんな伊吹を横目に、突然蘭の細い腕を掴んだ。
「え…?」
掴まれた、と思った瞬間、蘭はあっという間に紫苑の胸の中へと引き寄せられる。
蘭の身体は鍛えられた腕に捕らえられ、見た目以上に逞しい胸に押しつけられる。
清らかな雨と甘い梅の花のような香りが鼻を掠めた。
蘭を捕らえている腕はびくともせず、おかけで動くことは叶わない。そのため、紫苑と伊吹が一体今どんな顔をしているのか、確かめることはできずにいた。
「厠に行くと、言っていたはずだろう」
「それは」
ふぅ、と呆れたように息を吐く音が、紫苑の胸から響く。
「お前がまさか、このような場所に女を連れ込むとはな」
「紫苑様、何か誤解が」
「この状況で、誤解だと言いたいのか?」
花街にあるこの妓楼で、そこの娘と宴会を離れ、
「別に構わないがな。お前がこの娘と何をしようとも」
決して柔らかさなど感じさせない、冷たい声が伊吹を突き刺す。
肝心の娘を自身の腕の中に捕まえておいて、構わないなど口だけだろう、と伊吹は顔を引き攣らせた。
このままここで、将軍の目を盗み、逢引していたなどと誤解されてはたまったものではない、と伊吹は口を開く。
「…その、紫苑様、非常に言いづらいのですが」
伊吹はその先の言葉を迷っている様子で、言葉を詰まらせる。
紫苑の腕の中にまだいる蘭は、伊吹が何を言おうとしているのか察して、血の気が引いた。
もしもこの場で、伊吹が将軍に自身の正体を明かしてしまったら?もしそうなれば、蘭自身どころか、蘭を隠していたこの店や店の人々にも、処罰が下るかもしれない。
蘭は必死に紫苑の腕の中でもがく。しかしなぜか、紫苑の腕にはますます力が入り、動けないどころか呼吸すら苦しくなってしまう。
「なんだ、言ってみろ」
蘭の必死の抵抗虚しく、紫苑は伊吹に向かって言葉の続きを求めた。まるで、蘭が今何をしたいのか分かっていて邪魔しているかのように。
「紫苑様、その娘」
蘭は力の限り、紫苑の胸を押す。しかしやはり、びくともしない。
虚しさと、浅くなる呼吸が、蘭の瞳に涙を溜め込む。
「その娘は、ひ」
「待て」
伊吹が続きを語ろうとした時だった。
なぜか紫苑は突然、その言葉を遮った。
伊吹の戸惑いが、空気越しに伝わってきて、蘭も何事かと、聞き逃す事がないよう耳をすませた。
「もういい。さっさと戻れ」
「ですが」
「聞こえなかったのか。戻れ」
「…はい」
伊吹は納得がいかない様子で返事をすると、そのまま部屋を出て行った。
パタン、と襖が閉められる音が響くと、蘭はようやくその逞しい腕から解放される。
足りていなかった酸素を求めて、蘭は大きく呼吸をする。おかげで紫苑の匂いが酸素と共に入り込み、酒にでも酔ったかのようにくらくらと蘭の意識を揺らした。
「苦しかったか?」
紫苑はきつく抱きしめ過ぎて、大きく呼吸する蘭を心配する。その気遣いに、蘭は整わない呼吸で慌てて返事をした。
「い、いえ。将軍様のお身体に触れるなど、大変なご無礼を」
「いい。俺がした事だ」
本来ならば、蘭のような身分の者が勝手に将軍の身体に触れるなど御法度だ。たとえ不可抗力だったとしても。
ひとまず伊吹から逃れる事ができた。しかし伊吹が去ったからといって安心などしている暇はない。今目の前にいるのは、伊吹よりもはるかに厄介な人物なのだから。
「あ、あの、将軍様」
蘭は紫苑から急いで離れると、大慌てで頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
「…お前は何に対して謝っているんだ」
「今の事と、先程の事でございます」
その謝罪に、紫苑からは言葉の代わりに大きなため息が一つ返ってきた。
気分を損ねてしまった、と蘭は血の気が引く。しかし謝らずにいられるほど、蘭は図太い性格ではない。
「過ぎた事だ。気にするな」
「…ありがとう、ございます」
「ところで」
すると蘭の顎に、紫苑の長く美しい指が添えられ、自身のつま先に向いていた目は無理矢理上を向くこととなった。
美しい竜胆の瞳が、蘭を貫く。
「人の身であるお前が、なぜここにいる?」
ひゅっと、喉が閉まり空気が逆流する。全身から血液が消えていくようだった。
なんの感情もないような無表情で、自身を見つめる美しいその顔。蘭の目にはひどく恐ろしいものに映る。
(どうして)
身体が凍りついたように震え始め、視界は揺らぐ。
なぜ、ばれてしまったのか。伊吹も言っていた、匂いとやらなのか。
蘭の頭は混乱でいっぱいになり、何も考えられなくなる。
するとその時、ある事が急に蘇る。
"人か?"
微かに聞こえたその言葉。
人々の賑やかさと、突然の出来事に混乱してしまい、よく理解できていなかったが、店の外で紫苑にあった時、それは確かに蘭に向けて放たれた言葉。
なぜ今まで気にしていなかったのか。彼は確かに、蘭の事を人だと言った。初対面で、しかも目を合わせただけで。
「な、なぜ、将軍様は、私が人だと」
「さぁ、なぜだろうな」
紫苑は微かに微笑み、蘭の瞳を覗き込む。
「心配するな。お前が思っているような事をするつもりはない」
「あ、あの」
「とって喰いはしない。もちろん処罰もな」
異常なまでに怯えている蘭の姿を可笑しく思ったのか、紫苑は笑いながら言った。
しかし信じてはいけない、と蘭は警戒を解くことはなく、紫苑はその様子がますます面白いようだった。
「蘭、といったな」
「…はい」
「座敷に"
「黒雪…?」
「今日のために楪が準備しているはずだ」
「そんな大切なものを私がお持ちするのですか?そんなこと、婆様がお許しには」
「楪には俺から言っておく。それを持ってくれば、俺の部下とここで逢引していた事は黙っておいてやろう」
「あ、逢引など」
紫苑の目が鋭く光る。
その表情で蘭は察した。伊吹とここで何を話していたのか、紫苑は分かっているのだ。逢引などしていたわけではないという事。伊吹に蘭が人である事が気付かれてしまっている事を。
分かっていて、あえて黙っていてやるというつもりなのだ。
「…分かりました。お待ちいたします」
了承するしかない。
蘭は菓子など買いに行った自分を恨む。行かなければ、目をつけられる事などなかったのかもしれない。
「頼んだぞ」
紫苑はそう一言言うと、部屋を出て行こうとする。
ようやく緊張感から解放される、と安堵した蘭だったが、そんなわけには行かなかった。
「そうだ」
出て行こうとした紫苑は、再び何を思ったか蘭の方を振り返る。
「蘭、お前は客を取った事があるのか?」
突然の質問に、蘭は目を丸くして言葉に詰まる。
一体なぜそんな事を書く必要があるのか。
「い、いえ。ありません。私はただの店の手伝いですから」
「…そうか」
正体が気付かれてしまう危険もあったため、蘭は遊女としてではなく、雑用や遊女の世話係として働いていた。そのため蘭個人で客を取ったり、床に入ることはなかった。
紫苑はなぜかその返事に不敵な笑みを浮かべると、そのまま部屋を出て行った。
「なんなの、あの人」
掴みどころのない、腹の中で何を考えているのか分からない人物だと、蘭は思った。
なぜ客を取った事があるかなど気にするのか。
理解のできない紫苑の問いに、蘭は頭を悩ませたまま、言われた黒雪を受け取りに向かった。
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