月花楼ー⑤




 先程はどうなるかと蘭は思った。どうなったとしても、いい未来でない事は確かだった。幸い、将軍がその場を収めてくれたおかげで最悪な事は免れることができた。

 蘭は、まだ落ち着かない震えた呼吸がバレてしまわないよう、なるべくゆっくりと呼吸をし、冷静なふりをして、笑顔を貼り付けて遊女達の横に新しい酒を置いて回る。

 そんな蘭を先程から気に食わない様子で、珀の鋭い視線がじっと睨んでいた。その視線は離れる事なく、まるで蛇のように蘭にまとわりついていて、あえて気付かないふりをしてやり過ごす他なかった。

 一方将軍はというと、先程の騒ぎなど無かったかのように、涼しい顔で木蓮が注いだ酒を静かに口に運んでいた。

 座敷の中で忙しなくしている蘭の姿など、まるで見えていないかのように。

 本当に気にも留めてないのか、それともあえて気にしないそぶりをしているのか。それは分からなかった。



「君、変わった匂いがするね」


 酒を置こうとしたその時、伊吹と呼ばれていた男が蘭の顔を覗き込み、その手を掴んだ。

 ざわり、と蘭は全身に緊張が走るのを感じる。


「そ、そうでしょうか」

「うん。…食べごろの果実や開いたばかりの花ように甘く、汚れを払う聖水や病を消し去る薬のように清廉な、とっても不思議な匂いだ」


 蘭は必死に目を合わせないようにしているが、息吹はその様子を面白がっているかのように、顔を近付け、蘭の匂いを嗅いでいた。


「そしてわずかに人の匂いがするね」

「……!!」


 その言葉に、冷静にやり過ごすべきだった。

 けれど蘭の手に思わず力が入ってしまい、顔には緊張の色が濃く映る。

 その反応に、伊吹は口角を上げた。


「君、人間なの?」

「…あ、あの」


 確信をつこうとするその言葉に、震えるな、と念じてもその声は緊張を含み、震えてしまう。

 この場で人だと明かされてしまえば、どんな咎めを受けるか分からない。だがありがたい事に、座敷の中はそんな些細な言葉など聞こえないほど賑やかだったため、伊吹の言葉が耳に届いた者はいない様子だった。

 しかし安心などしている暇はない。その震える体と声、そして青ざめる顔は、言葉にせずとも、意思とは関係なく肯定を意味してしまっていた。


(そういえば、将軍様も)


 なにも言ってはいないというのに、蘭が人である事を見抜いていたのを思い出す。

 なぜなのだろう。

 今まで、蘭自身も周りも用心深く蘭の正体を隠していたため、蘭が人である事は幸いな事に気付かれなかった。

 ではなぜ、今目の前で微笑みを浮かべている伊吹にも、そして将軍にも人である事が気付かれてしまったのだろうか。

 自身では気付かない、その匂いとやらのせいなのだろうか。しかし楪にも遊女達にも、そんな匂いがするなど言われた事はない。

 おまけに念のため、人の匂いを誤魔化せるよう特別な香の匂いを常に纏っていた。だから匂いでバレる事などないはずなのだ。


「に、匂いとは、なんのことでしょうか」

「あぁ」


 怯えた様子で、小さな声でなんとか誤魔化そうとしている蘭に、伊織は何か気付いた様子で声を上げた。


「内緒にしてるんだね」


 伊吹はそう小さな声で、蘭の耳に囁いた。

 それもそうか、となにか納得している様子を見せると、伊吹は「おいで」と掴んでいた手に力を込めて立ち上がる。

 突然のことに蘭は勢いよく体が引っ張られ、思わず小さな悲鳴をあげてしまった。

 伊吹は手を強く掴んだまま、にっこり微笑み将軍の方を向いて言った。


「紫苑様、俺も厠に行ってきます」


 紫苑は伊吹の声に、わずかに眉間に皺を寄せたが、何も言う事はない。目を伏せ、相変わらず静かに酒を口にしているだけ。

 それはおそらく許可しているという事なのだろう。

 伊吹は何も気にする様子なく、蘭にそのまま笑顔を向けた。


「君、案内して」

「…は、はい」


 力強いその手を拒めるわけもなく、蘭は伊吹に手を引かれ、座敷を出るしかなかった。

 おかけで後ろから自身をじっと見つめている目にも、気付くことは出来なかった。










「で、なんで人間の娘が、こんなところにいるわけ?」


 座敷を出て、辺りに誰もいないことを確認すると、伊吹は近くの人気ひとけのない小部屋へと蘭を連れて入った。

 そしてようやく手を離すと、興味津々な様子で蘭に迫る。


「あ、あの」

「心配しなくても、別に誰かに話したり、君に危害を加えたいわけじゃないよ。単純な興味だ」


 そうは言われても、簡単に口を開くことなどできないに決まっている。

 この隠世で、人の身である事がどれだけ危険で、その事が明かされる事が意味する事を知らないほど、蘭は愚かではない。


「………」

「まぁ、そうだよね」


 すると伊吹は、口を頑なに開こうとしない蘭を特に責めるわけでもなく、軽くそう言った。

 なぜこんなにも彼が自分に興味を示しているのか、蘭にはよく分からない。わざわざ嘘をついてまで座敷から連れ出し、問う真意はなんなのか。

 単純に珍しいのか、上手く言って咎めを受けさせるつもりなのか、それとも人の肉を好む妖なのか。

 どれにせよ、蘭にとって不安しかなく、いい事などない。そもそも初対面の相手に自分が人間などと簡単に話す愚か者はいないだろう。

 すると伊吹の口から、予想もしていなかった言葉が飛び出る。


「俺、人間が好きなんだよ」

「………へ?」


 蘭は思わず拍子抜けする。


「なんだよその顔。信じてないだろう」

「ええと」

「君、名前は?」

「…蘭です」

「蘭。いい名だね。俺は狸塚伊吹まみづかいぶき。蘭は8大妖家はちだいようけを知ってる?」

「はい、存じております」

「俺はそのひとつの狸塚家の出身なの。つまり狸」

「…は、はぁ」


 一体何が言いたいのだろう。

 突然自己紹介を始める伊吹に、蘭は戸惑いを隠せなかった。

 8大妖家とは、隠世においてそれぞれの土地を治める、かつて名を馳せた妖を先祖にもつ8つの妖一族のことである。

 その力や名声は隠世ではもちろんのこと、現世でも格式高い名家として一目置かれる存在だ。

 狸塚家はその8大妖家のひとつで、化け狸の一族。

 狸塚家は人数が多く、情報収集において頭ひとつ抜きん出ている。その能力を使って隠世、現世の両方で瓦版を作っては売っていて、その人気は凄まじい。

 そして人好きとしても知られる種族だ。


「狸は人が好きでね。よく現世にも行き来してるんだよ」

「はぁ…」

「人が嫌いなやつなんて、俺の一族にはいないね」

「そうなんですか…」

「まだ信じられない?」

「…えぇと」


 伊吹は拗ねたように頬を膨らませ、残念そうに眉を寄せた。


「珀なんかと違って、俺は本当に人が好きなんだよ。そんなに警戒しないでよ」


 両目の端を指で引っ張り、伊吹は言う。おそらくその顔は珀のつもりなのだろう。

 しかし伊吹がたとえ本当に人が好きだとしても、一体なぜ蘭に興味を示すのだろうか。

 単純な興味とは言うが、その理由のせいで余計怪しさを増している。


「……私が本当に人間だったとして、伊吹様はそれを知って何をなさりたいのですか?」

「え?」


 初めて曖昧な返事ではない言葉を返してきた蘭に、伊吹は拍子抜けしたように目を丸くした。


「なにもないよ」

「え?」


 その返事に、今度は蘭が拍子抜けする。


「言っただろう単純な興味だって。ただ匂いがしたから気になっただけ。こんな所に人がいるなんて珍しいにも程があるからね。君に危害も加えないし、誰かに告げ口したりしない」


 善良な笑顔を浮かべて言う伊吹。

 本当に興味だけなのだろうか。だがこの事は、簡単に語ってはいけない事だし、信じてもいけない事だ。

 蘭の警戒は相変わらずのまま、ひとつの疑問を口にする。


「伊吹様は先ほどから"匂い"とおっしゃっておりますが、匂いで私の事を人だと指摘してきた方は今まで1人もおりません」


 人の匂いは個人差がある。その強さも匂いの種類もだ。

 強い者もいれば無臭に近い者もおり、匂いも甘い花や果実の匂い、食欲をそそる血肉の匂い、思わず鼻を塞ぎたくなるような匂いなど様々。

 蘭は幸運な事に元々の匂いがほとんどしなかったため、匂いを誤魔化す香を纏うだけで人である事を隠し通してくる事が出来た。

 それなのになぜ、伊吹は匂いのことを指摘してきたのか。


「あぁ、そのことか」


 伊吹は納得したように声を漏らした。


「俺は鼻がいいんだよ」

「鼻が?」

「他の妖よりも良くてね。他の奴らが感じ取れない匂いまで感じ取れるんだ。だから君の匂いも分かったってわけ」


 伊吹は生まれた時から嗅覚が異常に良かった。それは他人には感じ取れないものまで感じ取ってしまうほどに。

 そしてただの匂いだけでなく、気配や感情といった匂い以外のものまで感じ取れてしまう。

 つまり実はたった今も、蘭の警戒心や誤魔化そうと必死になっている気持ちは匂いで読み取られてしまっているが、蘭は残念ながらそれに気付く事はできない。伊吹1人が、戸惑う蘭の感情を読み取り微笑むだけである。


 伊吹はこの嗅覚のおかけで、多くの苦労をしたが、多くの幸運も手に入れた男である。

 とはいえ、今の蘭にはそんな事は知り得ない事であり、そう言われたとしても信用に足る根拠はない。

 蘭の頭は今、この男の前からどうやって逃れるかでいっぱいだった。

 簡単には逃げられないだろう。腕一本を掴まれただけでも抵抗できないのだ。逃げるなど不可能だ。

 どうしたらいいのだろうか、と蘭は必死に混乱している頭で考える。

 信用して話すか。いいやそれは危険すぎる。かといって誤魔化しも効かない。逃げることもできない。

 頭の中で答えの出ない問いがぐるぐると巡り続ける。

 するとその時。部屋の戸が勢いよく開き、蘭の背後から低い声が響いた。


「一体こんな所で何をしているんだ」

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