月花楼ー④
「そしてその時将軍様はーー」
「あははは!!」
「そして俺がこうしてーー」
「やぁだ
「これで終わりだと思うか!?さらにーー」
座敷の前まで来た蘭は、酒を乗せた盆を持ったまま中々入れないでいる。
中は盛り上がり、細部までは聞こえないが、どうやら誰かが遊女達に武勇伝聞かせているようだ。
このまま襖を開け、もしそのせいで話が途切れてしまえば、こんな興醒めはないだろう。
(さて、どうしたものか)
このままではせっかく
考えるが、困ったことに座敷の賑やかさのせいで、蘭の思考能力は奪われ、いい方法が思いつかない。
「紫苑様、俺ちょっと厠に行ってきます」
その時、大声で武勇伝を語っていたその本人が、尿意を催したのか厠に行くようで、話が途切れる。
「さっさと行ってこい」
「はいはい」
話が途中になり、残念そうな遊女たちの声が聞こえてきた。と思っていた矢先、お次は私が私がと、なんとか彼に厠の場所を案内しようという声が上がる。
口ぶりからして将軍の部下であり、親しい間柄なのだろう。将軍に対し、名前で呼んでるあたりほぼ間違いない。
もちろん今宵の客は皆最上客だ。将軍は当たり前だが、その部下や御付きの者でさえ、一般の者は普段は相入れることなどない。龍神である将軍のそばで働くのだ。もちろん高等な妖や力のある者ばかり。
つまり、たとえ将軍のお手付きになることがなくとも、その側近に近付ければ、それはそれで十分すぎるくらいだ。
おそらく将軍の側にはこの店一番の遊女である木蓮と、二番手のあやめが付いているはずだ。そうなれば他の遊女達の狙いが側近に行くのも納得がいく。
皆、誰かしらに見初められようと必死だ。この美しい地獄から抜け出すために。
ところでこうぼんやりしている場合ではなかった。
そう蘭が気付いた時にはもう遅かった。
「じゃあお前とお前、ついてこーい!!」
「まぁ、禎様ったら」
「厠はあっちですよ」
バンッ、と勢いよく目の前の襖は開き、両脇に遊女を抱きながら引き連れ、酔っているのか顔が赤く、着物のはだけ逞しいまな板が露出した男が現れる。
男は開けた襖の前に、驚いた顔で固まっている蘭に気付くが、一瞬のことに、2人は目を合わせたまま無言になってしまった。
「…誰だ?」
先に口を開いたのは男の方だった。
「も、申し訳ありません」
蘭は慌てて盆を持ったまま避けようとするが、それは男の逞しい腕によって阻まれる。
酔っているせいで力加減が効かないのか、元々馬鹿力なのか。掴む腕は痛みが走るほど強く、振り解くことはできない。おまけに盆を持っているため、うまく動けない。
「蘭、なにぼんやりしているの」
固まっている蘭に、焦った様子で男の隣にいた
しかし何をしてるかと言われても、この腕が邪魔をして退くこともできないのだ。
「で、でも腕が」
「なんだ?ここの遊女か?」
すると男は蘭の顔をじっと覗き込み、まるで品定めするかのようだった。
酒の匂いがぶわっと吹きかかり、蘭は思わず息を止める。
「あぁ、いえ禎様、この子は」
「いいだろう、お前もついてこい」
必死に止めようとする両脇の遊女達の声など聞こえていないかのように、男は蘭を気に入ったのか、その腕を引っ張る。
あまりの力に、蘭はお盆の上の物を全てひっくり返しそうになってしまった。しかしそんなことをすれば、酒は全てこの男にかかってしまう。それだけは避けなければ、と蘭は全神経をお盆に集中させ、なんとか堪えた。
「禎様、おやめください。この子は」
「禎様どうか」
必死に男を止めようとする2人だったが、男の力を、しかも将軍の側近である人物を、女2人の細腕で止めることなどできず、懇願だけが響く。
相手は屈強な将軍側近。下手に騒ぎ立てることも逆らうことも出来ず、小さな抵抗をするしか出来ない。
しかし中が騒がしいせいか、興味もないのか、誰も蘭達には気付かず助けはこない。
「なんだ、いいだろう。大人しくついてこい」
「どうかお許しを」
「禎様、ご勘弁くださいませ」
自分のために、この男の機嫌を損ねでもしてしまえば、それは彼女達にとって良くはない事を、蘭はよく分かっていた。
厠について来い、と言われただけだ。ついて行けば満足するかもしれない。
蘭は諦めて男に従おうとした、その時。
「禎」
座敷の中から、低く美しい声が空気を揺らした。
その声に酔って赤くなっていたはずの男の顔は、途端に真っ青になる。
男は慌てて座敷の中を振り返る。男背丈も高く体も屈強なため、蘭からは、一体男が誰のことを見ているのかは見えない。
しかしこの声と怯えようは。
「紫苑様、どうかされ」
「さっさと厠に行け。いつまでもそこで何をやっている」
「あ、あぁ、いや、その」
「お前の両脇の花が寂しがっているだろう。
「…は、はい」
威勢が良かったその姿はどこへ。男はまるで借りてきた猫のように大人しくなってしまった。
「さぁ行きましょう禎様」
「あちらですよ」
この助け舟を逃すまいと、遊女達は大人しくなった男を半ば引きずる形で厠へと向かって行った。
さて残された蘭。開かれた襖の間から中の様子が目に映る。一体何事か、と座敷の中の者達の目線は全て蘭へと向いていた。
この状況を一体どうすればいいのだ。
蘭は緊張で、背中に嫌な汗が伝い、お盆を持つ手が震えだす。
「お前は…!!」
静まり返ったこの空気の中、まるで刃の如き冷たい声が蘭を突き刺す。
その声の主は珀。蘭が先程ぶつかってきた相手だと気付き、冷たい声と目を向けた。
「あ、あの」
喉が渇き張り付く。声を出そうとしても嫌な痛みが走り、うまく謝罪の言葉も口にできない。
「本当にこの店の者だったのだな。紫苑様の前に飛び出ようとするなど、あんな無礼を働いておいてよく顔が出せたものだ」
「……も、うし」
「謝罪も満足に出来ないのだな」
ぶつかられた事よりも飛び出そうになったことの方がよほど腹が立っているようだ。よほど忠誠心が高いとみえる。
蘭はなんとか声を絞り出すが、思うように声は出てこない。そのせいで彼はますます怒りを募らせているようだった。
賑やかな雰囲気だったはずが、一瞬で殺気漂う空間となってしまい、蘭は申し訳なさで喉の奥が苦しくなる。
「なんだなんだぁ珀。ずいぶんとご立腹じゃあないか」
「うるさい」
「皆楽しんでいるというのに、そうやって怒りを振り撒くのは良くないぞ」
「お前はどうしていつもそう適当なんだ!お前も見ていただろう!?あの娘が、紫苑様の前に飛び出ようとしたのを」
珀の怒りを宥めたいのか、それともさらに煽っているのか。なんとも読めない話し方をする男。
少し淡い焦茶色の髪は結われ、タレ目がちの翡翠の瞳、まるで珀を馬鹿にするように細められていた。
「おぉ。見た見た」
「そうだろう」
「その子が走っていた先に、お前が不注意で立ち塞がったのを」
「…はぁ?」
「そしたらお前が急にその子に怒り出したんだったよな」
「違う!!!」
珀は目の前にあった料理や酒の乗った膳を勢いよく叩く。おかけでその上に乗っていた物は悲惨な姿になった。
「お前はまた適当を」
「いいや俺は見ていたぞ」
「物は言いようだなぁ、
「やなこった」
「っお前は!!!」
「そこまでだ」
青白い珀の顔が、怒りで真っ赤に染め上がった時だった。
それまで黙っていた紫苑は、先程のように一声でその空気を止める。
「いい加減にしろ。今日のような日に、わざわざこの場所で争いとは」
「しかし」
「何度も言わせるな。珀、一度済んだことをぶり返すんじゃない。伊吹、お前はその珀をすぐに煽る癖をやめろ」
「申し訳ありません」
「…申し訳ありません」
紫苑の言う事を聞き、2人は頭を下げる。その顔は納得していないように見えたが。
「皆、すまなかった。続けてくれ」
皆に向けて紫苑はそう言い放ったが、なかなかそうもいかない。
緊張、困惑、興味、皆色んな感情が渦巻き、言葉を発そうとしない。お互いがお互いの腹の中を探り、どんな言葉を口にしようか、誰が最初に口を出すか、駆け引きに必死だ。
するとその時。
「そうだ。禎様がいらっしゃらないことですし、どなたかなにか禎様の恥ずかしいお話や面白いお話はありませんか?」
パンッと弾ける音が響く。それが木蓮の手を叩く音だと気付いたのは、彼女が一言そう言った後だった。
彼女の一言により、重たく冷たかった空気がだんだんと和らいでいく。まるで雪解けの春のように。
さすがは木蓮だ。この空気の中、第一声を請け負う事はひどく勇気がいる事。
「それはいいな。話が途切れたのも、元はと言えばあいつが原因だ。誰か話してやれ」
木蓮の提案に、紫苑も乗り気だ。空気を作るためにわざと乗ったのかもしれないが。
しかし木蓮と紫苑の言葉のおかげで、座敷の空気はだんだんと元の賑やかさを取り戻していった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます