月花楼ー③



「ようこそお越しくださいました」


 楪の声は、店先に下げてある火の灯る提灯を揺らすのではと思うほど凛としたものだった。

 将軍の訪問に選ばれた事に、驕ることも怯むこともなく、ただ凛とした誠実な態度をとっている彼女に、将軍は柔らかくに微笑んだ。


「久しいな、楪」

「ご無沙汰しております、紫苑様」

「お前の店も女達も、この街で一番質がいいと、最近よく耳にするぞ」

「ありがたいことにごさいます」

「お手並み拝見だな」

「こちらへどうぞ」


 周りの店の楼主も遊女も、道行く客達ですら、この月花楼を訪れた将軍に目を奪われている。

 それもそうだ。将軍には滅多にお目にかかることは出来ず、龍神という、他の妖とはそもそもその存在からして違う。生まれながらに高貴なる地位に君臨する彼は、妖でありながら、神に近い存在。他の妖達の羨望の的だ。

 そしてその高貴なる地位でありながら、彼は戦う事が好きであった。そのため過去に起きた大きな戦では、たびたび他の名だたる妖と肩を並べ、多くの功績を上げてきた。

 彼が将軍と呼ばれている理由がそれであった。

 神に近い存在でありながら、戦があれば自らが先頭に立ち妖達を率いて戦う。そして本来ならば目にすることすら許されないほど高貴な存在だというのに、時折こうして民の前に姿を現してくれる。

 おまけに。


「将軍様だわ。いつ見てもお美しい」

「月花楼の遊女が羨ましいわ」

「あんな美しい方を見たら、他の者が石ころに見えてしまう」


 その美貌である。

 力のある高等の妖ほど、その容姿も美しいと言われているが、その中でも紫苑は、男も女も道端の獣ですら目を奪われ熱を上げてしまうほど美しかった。

 容姿、力、地位、生まれ。何もかもが他の妖とは違う彼に、目も心も奪われ惹かれることなど当たり前の事なのだった。

 多くの好奇の目を向けられながら、紫苑と一行は月花楼の中へと入っていった。




「はぁ、はぁ」


 月花楼に近付けば近付くほど、人の数は増え、蘭は思うように進めない。

 

(ただでさえ、先に向かってしまったのに)


 急いで戻らなくては。将軍は蘭より先に月花楼へと向かってしまった。どれほど怒られるのか、考えるのも恐ろしい。

 そもそも将軍がやってくる時間には、まだ早いはずだ。こんな時に限ってそんな不幸な偶然があるとは。蘭は自身の不安を恨む。


「気をつけろ!」

「す、すみません」


 焦れば焦るほど、周りに目が向けられなくなってしまう。

 急いで前に進もうとするが、密集している人混みと、あちこち動いていて予測できない動きのせいで見ず知らずの人にぶつかってしまう。

 怒られるのはもうこれで何度目だろう、というほど、蘭は何回も人にぶつかってしまっていた。


「ごめんなさい、通してください!」


 店に近付くほど、人は増え、動いている者より立ち止まっている者の方が多くなっていく。

 おかげで蘭は進むことできなくなり、なんとかできている隙間を掻い潜るようにして歩みを進める。

 嫌な顔を向けられ、冷たい言葉をかけられても、一刻も早く店に辿り着かなければならない蘭は、そんなこと構っちゃいられない。

 そうこうしていると、やっとの思いで店へと辿り着く。

 周りから聞こえてくる声と、人々の様子を見る限り、やはり間に合わなかったらしい。

 どうやら将軍はすでに店の中。蘭は体中から一気に血の気が引いていく。

 その時店先に立っていた番頭が蘭の姿に気付き、顔が真っ赤に染め上がっていく。


「蘭!!!お前、そんなところで何をしてる!!」

「も、申し訳ありません」

「探していたんだぞ!!一体どこに行っていたんだ!楼主様はカンカンだ!もう将軍様はいらしてるんだぞ!!!」


 将軍の訪問に集まっていた野次馬達は、今度は何が起きたのか、と興味津々に再び集まってくる。

 番頭は、ジロジロと向けられているそんな目など気にしている余裕もなく、蘭に向かって怒鳴り散らす。

 蘭は手に持っていた餅菓子を急いでバレないように懐にしまい、深く頭を下げ、何度も謝罪の言葉を述べる。

 もし菓子を買いに行っていた事がバレてしまえば、蘭だけでなく木蓮まで怒られてしまうかもしれないからだ。


「店先で何騒いでるんだい」


 その時、店の中から楪が怪訝な表情で顔を出す。


「蘭!!お前、どこほっつき歩いてたんだい!?」

「婆様、申し訳ありません!」


 楪の目は、蘭の懐に向けられる。しかし楪は何も言う事なく、蘭の腕を引っ張り、急いで店の中へと入れた。


長助ちょうすけ、人様の目があるところで怒鳴り散らすんじゃないよ」

「ですが」

「店の格が下がるだろう。それに今日は将軍様がいらっしゃってるんだ。あまり騒ぐんじゃない。さぁほら、仕事に戻りな」

「へ、へい」


 番頭は楪に言われ、慌てて仕事へと戻っていった。


「……懐のものを出しな」

「ええと、なんのこ」

「誤魔化したって無駄だよ。木蓮から聞いてるからね」


 蘭は一瞬そのままなんとか誤魔化してその場を切り抜けようかとも考えたが、楪の顔はどうやらそれを許してはくれないようだった。

 諦めたように、その懐から餅菓子を出す。

 せっかく買ったというのに、包紙は破けてシワだらけ、中身も潰れて餡が飛び出てしまっていた。

 あんなに必死に持って帰ってきたというのに、幾度となく人にぶつかってしまったため、その被害は免れなかったようだ。

 すると楪は、目の前に差し出されたその包みを勢いよく取り上げる。


「あ!!」

「これは預かっておくよ」

「そんな」


 必死に買ってきたのに、悲惨な姿になっていただけでなく、終いには取り上げられてしまうなんて。

 蘭の嘆きは、楪の拳骨によってかき消された。


「いった!!」

「餅菓子なんかに気を取られてる暇は無いんだよ!将軍様はもういらしてるんだ。木蓮の頼みがなきゃ、こんな大事な日にほっつき歩いてたお前を店から追い出してたところだよ」

「…木蓮姉さんが?」

「ほらさっさと支度をして手伝いな!」


 餅菓子を買うための小遣いまでくれたというのに、まさか遅刻まで庇ってくれていたとは。一歩間違えば木蓮まで叱られてしまうことになるというのに。

 蘭は木蓮の心遣いに嬉しくなり、頭の痛みなどどこかへ吹き飛んでしまった。

 これ以上ここにとどまる時間はなく、いつまでもこうしていれば拳骨よりも恐ろしいものが飛んでくることになるだろう。蘭は大急ぎで支度をしに、自分の部屋へと戻った。



 準備をしていると、座敷からの賑やかな声が聞こえてくる。座敷と蘭の使っている部屋は遠く離れていると言うのに、それでも聞こえてくるほどの賑やかさだ。

 蘭は大急ぎで着物を着替え、化粧を施す。薄暗さと時間の無さが心配だったが、なんとかある程度形になったようだ。日々繰り返しやってきたおかげだ。努力とは経験は大切なのだと、蘭はしみじみ思う。

 しかしそんな事をしみじみ思っている場合ではない。こんなところでいつまでも支度が終わらないでいれば、それこそ叱られてしまうだろう。

 蘭は普段は身に纏えない、豪勢で繊細な模様の着物に目を向ける。

 この日のために楪が用意した着物。皆それぞれ準備されているものだ。あの守銭奴な楼主殿にしては、なんとも太っ腹である。


(綺麗…)


 自分には勿体無いほど(実際勿体無いほど高価なものなのだが)のこの着物。白の花が描かれた淡い桜色の着物だ。

 今後着ることはもうないのだろう、と蘭は少し寂しさを覚える。

 しかしこの美しさの余韻に浸っている場合ではない。手を握り、力を込めると、勢いよく立ち上がる。

 そしえ重たいその着物の裾を翻すと、蘭は大急ぎで賑やかさの中心である座敷へと向かった。

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