月花楼ー②



 少し早足で帰る、月花楼への道。見慣れた景色、匂い、音。

 外の世界とは真逆。ここは昼ではなく、夜の世界で生きている。朝日ではなく、月と共に街は動き出し、太陽の光は沈み、夜の闇がここを覆い尽くす。

 静まり返っていた道は、夕闇と共に賑やかさを増し、美しい花たちが、宵闇に咲き誇る。

 けれどここは、欲望と夢が渦巻き溢れる場所。

 金で買われる一夜の夢。儚く終わるまやかしの愛。

 夢は見せましょう。あなたを愛しましょう。しかし心だけは、決して見せることもいたしません。

 夢も愛も、ここでは金で全て買えるだろう。けれど彼女らの心は、そんなもので買うことはできない。

 皆分かっているのだ。心を見せるその時は、ここから出る時であり、そしてそれは、生か死か問うことはないことも。


 蘭は夕闇が訪れるこの時が好きではなかった。

 美しく映るこの景色も、煙管や白粉の香りも、欲望を孕んだ声や偽りを語る声も。

 ここが美しい花の街だと言う者や、天国だと言う者もいる。

 けれど蘭にとっては、ここは地獄に見えた。


 この景色から目を背け、一刻も早く辿り着けるよう、蘭は帰路を急ぐ。しかしそれが良くなかった。

 急ぐあまり、蘭は人混みの中をきちんと前を見ずに歩いていた。目の前で何が起きていたのか確認もせずに。

 どんっ。


「きゃ!!」


 突然体に走る衝撃。何かに勢いよくぶつかってしまったのだと、蘭は少し遅れて気付く。幸いにも手に持っていた餅菓子はしっかり持っていたので、悲惨な姿になる事は免れた。


「お前、何をしている!」

「も、申し訳ありません」


 頭の上からひどく怒った声が降り注いだ。

 なぜきちんと前を見なかったのか、と後悔するのももう遅い。ぶつかられた相手はすでに怒りが収まらない様子だ。

 ここに訪れる者は様々だ。将軍の膝元とはいえ、時折おかしな輩だって訪れることはある。そんな者に遭遇したならば、命を絶たれる事だってあり得なくはない。

 恐る恐る目を向けると、目の前の男は蘭を恐ろしい顔で並んでいた。しかし、蘭は彼の顔を見て驚く。


(…なんて綺麗な人)


 黙っていれば女性だと思ってしまうかもしれない。そう思ってしまうほど、目の前の怒り狂っている男は、この花街の客では見ないほど整った顔をしていた。

 青白い肌に、長い銀髪は結われ、淡い赤の瞳は吊り目がかっている。

 一体なんの妖なのだろうか、と蘭は怒られているにも関わらず、ぼんやりと見つめてしまう。


「おい!聞いているのか!!」

「申し訳ありません!」


 蘭はふと我に帰り、慌てて頭を下げる。

 ぼんやりとしていた蘭に、彼はますます怒りが込み上げている様子だ。


「一体どこの店の者だ!!」

「あ、あの」

紫苑しおん様が今宵の店へと向かっている所へふらふらと飛び込んでくるとは!!お前は」

「やめろ」


 すっかり怯えてしまい、恐怖から震えて下を向くしかない蘭。飛び込んだつもりはなかったのだが、ぶつかった事よりも、彼はどうやらその事に対して怒っているようだった。

 ところで紫苑様とは、なにやら聞き覚えがあるような、と蘭の頭に疑問が浮かんだ時だった。

 空気を鋭く揺らすような、しかしどこか心地よく感じる低い声が響く。


「そこまでにしておけ、はく

「しかし」

「お前の忠誠心は見事だが、小娘一人をそこまで追い詰めることもあるまい」


 誰かの足音が、蘭に近付く。


「お前、怪我はないか?」

「…は、はい」


 蘭は自身のつま先と睨めっこしたまま答える。

 しかし返事が気に食わないのか、それともなにか気に障ったのか、問いの主は黙ったまま目の前に立っている。

 理由が気になるところだが、先程の怒っていた男が言う事を聞くあたり、目の前の男の方が格上なのだろう。ということは気軽に頭を上げるわけにはいかない。

 ざわざわと、周りの声がうるさい。しかし皆小声で話しているため、何を言っているのか分からない。

 一体目の前の人物は誰なのか。


「…お前、どこの店の者だ?」

「月花楼でございます」


 蘭は震える声で答えた。

 するとまた、嫌な沈黙が訪れる。なぜか横からは怒っている男の不満そうな声が漏れるのが聞こえたが。

 いつまでこうして頭を下げ続けなければならないのだろうか。


「名はなんだ」

「…蘭、と申します」


 答えたらまた、沈黙がやってくるのだろうか、と蘭は飽き飽きする。すると今回は沈黙ではなく、息が溢れる音が聞こえてきた。


「蘭、おもてをあげよ」


 その言葉に、蘭は恐る恐る顔を目の前の人物へと向ける。

 するとその瞬間、目に映ったその姿に蘭の時は止まった。

 

 深い青と紫の美しい竜胆りんどうの切れ長の瞳。

 柔らかく揺れる濡羽ぬれば色の艶やかな長髪と、隙間から覗く瑠璃の耳飾り。

 白く透き通った肌に整った顔。低く鼓膜を揺らす声。

 闇に煌めく月のような。

 朝露に濡れた花弁のような。

 触れたら二度と戻れない深淵のような。

 言葉にはできないその美しさ。それは蘭の目を一瞬で奪った。


「どうした」

「あ、いいえ。申し訳ありません」


 すると男の長く美しい手が、蘭の顎を掴む。

 困惑して蘭の瞳はあちこちに忙しく動き回る。


「…人か?」

「え?」

「人の身で、ここにいるとは珍しいな」


 物珍しそうに、男は蘭の顔を凝視する。


「それに瞳に星が浮かんでいるな」


 そう言って男は、竜胆色の瞳で蘭の瞳を覗き込む。

 そう蘭の瞳は珍しいものだった。黒の瞳の中に、翡翠ひすいの星が浮かんでいるのだ。けれど出生も分からない蘭に、その理由を調べる術はない。

 男は微笑むと、その手を離す。


「後ほどまた会おう。いくぞ珀」

「は、はい」


 怒っていた男はどうやら珀という名前らしい。男は珀に声をかけると、男は人々が開けていた道の真ん中を颯爽と歩いて行ってしまった。

 一方で珀は、蘭を何か言いたげに睨みつけていたが、渋々男を追いかけて行った。

 一体今のは誰だったのだろう。なぜ皆、彼のために道を開けているんだろう。浮かんだ疑問は、近くにいた店の楼主によって解決する事となった。


「お前、月花楼のとこのだろう」

「こんばんは、楼主殿」

「お前怖いもの知らずだなぁ」

「え?」

「今のが誰か分かってないのか?」


 よく見ると、周りの人達が蘭を見てざわざわとしていた。驚いた顔をした人もいれば、嫌な目を向けている人もいる。


「今のって…?」

「お前知らなかったのか!今のはあの将軍、紫苑様だよ!!」

「えぇ!!!」


 将軍と言われても、滅多にお目にかかれるものではなく、顔を知らないものも多い。けれど今日ほど、蘭が自身の無知さと不運さを恨んだ日はないだろう。

 一体なんて方の前に飛び出てしまったのか。あの珀と呼ばれる男が怒っていたのにも納得ができる。


「…どうしよう。今日は将軍様が店にいらっしゃる日なのに」


 よりにもよってこんな日に。何かあれば折檻では済まないだろう。

 帰りたくはないが、帰らなければいけない。これほどまでに足取りが重たい帰路は、今までも、そして今後もないだろう。

 蘭はずしりとのしかかる餅菓子を抱え足を進める。大衆の目は蘭に向けられ、これでは針のむしろだ。

 早く帰りたい気持ちと、辿り着きたくない気持ちが心の中で暴れたまま、蘭は俯き気味に月花楼へと向かった。









「紫苑様、何事もございませんか?」

「なんともない。俺がぶつかったわけじゃないだろう」

「しかし」

「お前は少し、寛大な気持ちを持たないとな」

「ところであの娘、今宵向かう月花楼の者と申しておりましたね」

「そうだな。……くれぐれも告げ口をして、折檻させようなどとは考えるなよ」

「……はい」

「美しい花が、他人の手で散るのを見たくはない」

「美しい…?」

「美しいだろう。あのように怯えて。それに隠世では珍しい人間だ。散らすならば自らの手で、だろ」

「紫苑様、あのような娘に構われるのは」

「ははっ。お前が嫉妬とは珍しいな」

「嫉妬などではありません!」

「まぁいい。今宵もよい夜となるといいな」


 怒りがおさまらない様子の珀を宥めながら、紫苑は月花楼を目指す。


「蘭、か」


 今宵の空には大きな満月が浮かぶ。

 けれどその光は、薄い雲が遮り、鈍く差し込む。

 美しくも妖しいその夜が、二人を巡り合わせた。

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