花は咲き、月夜に散りゆく
雪月香絵
月花楼ー①
それは花。
夜に咲く、美しく儚い、一夜ひとよの幻。
そしてそれは毒。
その身を滅ぼし、堕としてゆく。
あなたがそれを望むのなら。あなたが必要とするのならば。私はあなたのために、花にも毒にもなりましょう。
夜の闇に浮かぶ月のようなあなたを、私は捕えることはできない。けれどその美しい夜に、散りゆく花となり、雲をはらう毒となることはできましょう。
「蘭らん、私がお前を愛すことはない。それでも私のために、美しく咲いてくれるか」
これは大きな運命の河。逆らうことのできないその河は、私のちっぽけな一生を飲み込んでしまう。
掴んだその手は、私を生かす神となるか。それとも殺す悪魔となるか。
どちらでもかまわない。
私はあなたのために、は花にも毒にもなりましょう。
*****
黄昏時は終わりに近付き、空は薄っすらと闇を従えて、夜を引き連れてくる。
街にはその闇に逆らうかのように、妖しく美しい明かりが灯ともり始まる。
香こうと白粉おしろい、むせかえるような煙管きせるの匂い。一夜の夢へと誘いざなう花。永遠の地獄へと堕とす毒。
嫌悪、好奇、虚言、嘲笑、欲望、侮蔑、嫉妬、悲嘆。
ありとあらゆるものがここでは渦巻き、多くのものを飲み込んでしまう。
「蘭!そんなところでぼんやりしてないで、こっち手伝いな!」
ぼんやりと外の景色を眺めていた蘭に、怒号を鳴り響かせたのは、ここの楼主ろうしゅである婆様ばばさまだ。
なにやら今日も今日とて機嫌が悪いらしく、豪勢な着物を持ち、鬼のような顔を浮かべている。
「お前がサボれば、困るのは木蓮もくれんだよ」
その名を出されては、重たい腰をあげないわけにはいかない。
蘭は渋々外の景色から目を離し、ようやく立ち上がる。
「これを持って木蓮の支度を手伝いな!」
蘭の細い腕に重たくのしかかる着物は、庶民の給金では一生かかっても買えないほどの高級品。
最高級の絹を使い織られ、全て手作業で縫い付けられた大輪の花の刺繍は、見事としか言いようがない。
「今日はとんでもないお客がいらっしゃるんだ!その覇気のない顔のままいたら、承知しないよ」
「はぁい」
ごん。生意気な返事には、お仕置きが。
蘭の頭の上には婆様の拳骨が降り注ぐ。痛みがじんわりと襲うが、困った事に着物を持っているため、その頭をさする事は出来ない。
「早く行きな!」
さらなる拳骨が降り注がないよう、蘭は慌てて急足で木蓮の元へと向かった。
ここは隠世。妖の住まう世界だ。
そしてここはその隠世の花街かがいにある店、月花楼げっかろう。この花街で一二を争う店だ。
この花街は"将軍"と呼ばれる方のお膝元にて、商いをしている。そのため他の花街と違い、格上の妖が多くやってくる場所だ。
今日この店がやけに騒がしい理由、それは。
「あら、蘭。ようやく来たの?」
「遅くなりました」
「またどこかで暇を潰していたんでしょう」
「そういうわけじゃ」
気まずそうに頬を膨らませている蘭の頬を、まるで風船をつつくのように優しく木蓮は触れた。
「嘘をついても無駄よ。顔に書いてあるもの」
彼女はこの月花楼で一番の売れっ子の遊女、木蓮。
美しく、知識豊富で物腰柔らか、芸をさせれば右に出るものはいない。
妖狐である彼女には、美しい白銀の耳と尾がついている。
「また婆様に怒られたんでしょう」
そう言いながら、木蓮はそのふっくらした唇に紅をさし微笑む。薄い藤色の瞳が弧を描き、美しく細められる。その姿は同じ女であったとしても見惚れてしまうほどだ。
「今日はぼんやりしていちゃダメよ。今日はあの将軍様がいらっしゃるんだから」
そう。今日はこの店に将軍がやってくる。おかげで朝から店はお祭り騒ぎ。息つく暇もないほどだ。
とはいえ、店の全員が将軍のお座敷につけるわけではない。婆様が選んだ遊女だけが、お座敷につける。
もちろん木蓮は、今日そのお座敷につく。もちろん将軍の隣で。
「将軍様にお会いできる機会なんて、そうあるものじゃないのよ」
「私は別に、会いたいとは思わないけど」
「ふふっ。あんたみたいに欲のない子は珍しいわ。心配しなくても、あんたは今日のお座敷につかないんだから」
はい、と木蓮は蘭に手渡す。なにかと思い、蘭は首を傾げる。
「これでおやつでも買っておいで」
手のひらに乗せられたのはお金。おやつを買うには有り余るほどだ。
「姉さん!こんなにもらえません!」
「いいから、黙ってもらっておきなさい。ほら、それだけあればあんたの好きな餅菓子がたくさん買えるでしょう」
「…ありがとうございます」
木蓮は優しい。誰に対しても、どんな時でも。美しく、優しく、誠実な彼女は誰にとっても憧れだった。
「さぁ、おやつを買いに行く前に、その持ってきた着物の着付けを手伝ってちょうだい」
この見事な着物は、彼女のためのものだ。将軍が来ると決まり、婆様は大急ぎでこの着物を彼女のために仕立てた。
隠世中探しても、木蓮以上にこの着物が似合う妖はいないだろう。
将軍は時折この花街にやってきては、気に入った娘を自身の女として連れ帰るそう。
もちろん木蓮自身はそんなことを望んではいない。彼女は自身の仕事に誇りを持っている。金持ちや権力者に媚を売り、見受けしてもらおうなとどいう浅はかな事は考えてなどいない。自尊心はあるが野望はない。この花街では珍しい遊女だから。
しかし婆様は違う。将軍が自身の店の遊女を連れて行ったとなれば、箔がつく。他の店には一線引けるうえに、売上に大きく影響が出るだろう。
木蓮ならば、将軍の目に留まる可能性は高い。だからこそ木蓮の意思は関係なしに、婆様も店も今日は必死で、慌ただしくしているのだ。
「ありがとう」
化粧を済ませ、着物を見に纏った木蓮は、まるで天女の如く。その美しさに蘭は目を奪われた。
「蘭も、ここへ来た時は幼いただの子供だったというのに。ずいぶん大きくなったわね」
「木蓮姉さんのおかげです」
「みんな、のおかげでしょう?この隠世で、しかも花街で、人の子が生きていくなんて、本当なら不可能に近いのよ」
「感謝してます」
実は蘭は人間だ。なぜなのか、誰がそうしたのかは誰も分からないが、記憶もないほどの幼い頃、蘭はこの花街に捨てられていたのだ。
ここは隠世。妖の生きる世界。本来ならば人が足を踏み込んでいい場所ではない。
時折、この世界に生きる人間もいるにはいる。けれどそれは元々妖と縁えにしを持つ者であったり、抵抗できる力を持つ者だけ。
縁も力もない者は、食われるか、無惨に殺されるか、口にするのも恐ろしい目にあうことになる。蘭はそのどちらも持っていない幼い子供。しかし幸運は彼女に味方をした。
捨てられていた蘭を見つけたのは、ここの楼主である楪ゆずりは。彼女は人に恩がある妖。そして口は悪いが面倒見のいい性格だった。
彼女に見つけられた蘭は、この月花楼に連れて来られ、たくさんの姉に囲まれながら今日まで生きてきたのだ。
最初に見つけたのが楪でなければ。連れてこられたのがこの店でなければ。蘭の命はとうの昔に、その灯火を消されていたことだろう。
「あーあ。準備をしたら小腹が空いたわ。蘭、早く小福屋こふくやに行って、お菓子を買ってきてちょうだい」
「すぐに行ってきます!」
蘭は慌てて、木蓮にもらったお金を握りしめると、お菓子を買うべく小福屋へと向かった。
「可愛い子。……今日は、何事もないといいけれど」
窓から見える空は青く澄んでいる。文句のつけようのない空だ。しかし遠い遠い空に、暗く濁った雲が見える。
まるでこの空を喰らい尽くそうとしているかのように。
まるでなにか恐ろしいことの前触れのように。
「はい。いつもの」
「ありがとう」
小福屋で、蘭は見慣れた包みを受け取る。これはいつも買う、木蓮と蘭のお気に入りの餅菓子だ。ここで働いている小豆洗いが作った極上の餡が中に入っていて、素朴な味ながら、いくらでも食べられてしまう。
「あなたも飽きないわね」
「ここの餅菓子が一番美味しいもの。あなたの作る餡が好きなの」
「嬉しいこと言ってくれるわね」
「本当のことよ」
小さな女の子のように見える彼女が、お気に入りの餅菓子をさらに美味しくする餡を作る小豆洗いだ。
噂ではかなりの年齢らしい。見た目では信じられない話だ。
「杏ちゃーん。ちょっと手伝って」
「はーい。今行きます」
「じゃあまた来るわ」
「はい。お待ちしております」
蘭は大事そうに餅菓子を抱え、小豆洗いに挨拶をすると、月花楼への道を急いだ。
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