第4話 麻衣の秘密

 山内は、麻衣がどうして急に自分を誘ったのか、考えていなかった。普段だったら、もう少し警戒心があるはずなのに、麻衣に対してだけは、自分が無防備になっていることに気づいていない。

「山内さん、佐土原さんと私がお付き合いしていたのを、あなたはご存じでした?」

 お酒を呑み始めてすぐのことだった。

 会ってからの会話も世間話を少ししただけだったのに、いきなり十年前の事故を思い出さされて、山内は茫然としてしまった。

「いや、それは知らなかった」

 と、とっさに答えた。

 山内は、十年前の自分を思い出していた。この事件のことは、必死に封印しようとしてきたこともあって、自分が十年前に戻らなければ、思い出せないことは分かっていた。それなのに、今の答えは十年前の自分を思い出す前に答えた言葉だった。

――反射的に答えてしまった――

 と感じたが、答えたのは今の自分ではなかったことに気が付いた。

――呼び戻してもいないのに、勝手に戻ってきて、答えたんだ――

 明らかに返事をしたのは、十年前の自分だった。

「山内さん、やっぱり記憶を失くされていたんですね?」

 麻衣は山内に語りかけたが、その目は山内を正面から見ている目ではなかった。

 顔の向きは完全に正面で、見つめる目の先にいるのも、山内に違いないのだが、焦点が山内を捉えていなかった。そのために、山内は自分が見つめられているように思えず、麻衣の声をまるで他人事のように聞いていた。

 麻衣の目は山内の身体を通しぬけて、その向こうを見ていた。目の前にいる自分ではなく、その奥を見ていたのだ。

――彼女の言っている記憶を失くされているとは、どういうことなのだろう?

 山内は目の前にいる女性が、最初誰なのか分からなかった。

――どこかで見たことがある――

 とは思っていたが、その顔には追い詰められた様子が浮かび、今にも泣き出してしまいそうな気持ちを必死に堪え、その様子が、普段の毅然とした態度とのギャップを感じさせた。

 だが、普段の毅然とした態度にも、あどけなさがあり、余計に男心をくすぐる表情であることを誰よりも感じていたのが、山内だった。

――俺はあの頃の麻衣が好きだったんだ――

 そう思うと、自分が好きだった麻衣が目の前にいる。

 再会した十年後の麻衣は、まるで別人だった。十年前の麻衣には、毅然としたところがあって、決して誰からも愛されるというわけではなかったが、気になってしまうと、最後好きになるのは決まっていたような気がする。

――佐土原がそうだったんだろうな――

 麻衣もそんな佐土原を好きだった。

 麻衣のことを好きな男性は、思っているよりもたくさんいた。しかし、麻衣と付き合おうとまで思う人はいなかった。

「誰も付き合っている人がいないのなら、俺にだってチャンスがある」

 と誰もが思ったはずだろうに、実際に麻衣に告白をしてくる人はいなかった。

 好きになってから、付き合いたいと思うまでにいくつかの過程があり、そこを通過できなかったのだろう。

「恋愛と結婚は別」

 というが、好きになってから、付き合い始めるまでにも同じような思いがあるのかも知れない。

――断られるかも知れない――

 という思いから、

――断られるに違いない――

 という思いに変わるまで、紙一重だったのではないだろうか。一歩踏み出せば、断られるに違いないなどとは思わなかったのかも知れないが、一歩踏み出す前に、紙一重の境界が自分を筒でしまったのだ。

 山内も、断れられるに違いないと思った一人だった。

 根拠などどこにもなかったはずなのに、何を感じたのか分からなかった。しかし、今、いきなり佐土原と付き合っていたのを知っていたのかなどという質問をされて、戸惑ってしまった自分を顧みると、我に返った気がした。

 麻衣の中に感じたサディスティックな部分。

 誰もが、麻衣のあどけなさの中に何かを感じながら、それが何かを分からずに好きになるが、付き合うまで行かないのは、その何かに気づいたからだ。それが、麻衣の中のサディスティックな部分なのだ。

「一体、僕のどこが記憶を失くしているというんだい?」

 と聞くと、

「あなたは、自覚がないようですね。あなたは、都合の悪いことは記憶を失くしてしまい、しかもほとぼりが冷めると、その記憶がいつの間にか元に戻っているタイプの人がこの世にいることを知っていましたか?」

 麻衣は、それを山内のことだとでもいうのだろうか?

「いや、知らない」

 山内は、それまでと態度が変わっていた。

 この変わり方は、今まで自分の方が優位だと思っていた相手が、自分の知らないことを知っていることで、急に立場が逆転し優位に立ったために、自分が今までにない不安に駆り立てられたことから起こる変わり方だった。

 何しろ相手は、こちらの意識がないのをいいことに、

「記憶を失っている」

 というのだ。簡単に信じられることではなかった。

 しかし、この言い知れぬ不安はどこから来るのだろう? 相手が自分も知らない自分のことを知っているとでもいうのであろうか?

「あなたは、人を殺したのよ」

 とでもいうようなことを言いだすのではないだろうか?

 そんな不安に駆られていると、麻衣は呟くように言った。

「あなたは、まだ心の中で、ほとぼりが冷めたと思っていないのね。だから、記憶を失ったままなのだわ」

 というと、

「君は、何のことを言っているんだい? 僕がまるで君がいうような都合よく記憶を失った人間のような言い方だけど」

「ええ、その通りよ」

「僕が一体、どこで何をしたというんだい?」

 さすがにここまで来ると、山内も落ち着いてはいられなかった。

「あなたは、砂土原さんを殺したのよ。表向きは事故だったんだけど、あの場所に彼を呼びだして、不安定な場所を作り出して、彼を突き飛ばして、池に落としたの。本当なら彼は泳ぎが上手なので、溺れるはずはないんだけど、あなたは、彼に睡眠薬を飲ませていたのね」

「でも、睡眠薬を飲んでいたなんて、僕は知らなかったよ」

 それにはさすがに驚いた。

 警察の人間である自分が知らないのに、被害者の関係者の一般人が知っているというのはどういうことだろう?

「知らなかったのは、捜査本部の方でも、あなたを少し疑っていたからなんでしょうね。あなたは、警官という立場から、彼のことを密かに見張っていても、目立たないと思っていた。でもね、あなたは結構目立っていたのよ。特に彼や私のまわりの人から見ればね。だって私と彼は付き合っていたんですから、そんな彼や私のことを見ていれば、目立って当然よ。しかも、あなたは警察官というものは、市民を守るための影の存在のように思っていたので、行動も大胆になっていたんでしょうね。でも、あなたが考えていた警察官というのは、警察官から見たイメージで、民間の人から見れば、少しでも怪しいと思えば、すぐに目立ってしまうのよ。何しろ、自分たちとは違って、武器を持っているわけですからね」

 山内はその話を聞きながら愕然としていた。

――麻衣は、こんなことをいうような女性だったんだ――

 と感じながら、麻衣が自分に対してここまで強硬に話をしているのに、心の中で、

――これが俺が好きになった女性だったんだ――

 と感じていた。

 麻衣と再会した時、懐かしさはあったが、どこか物足りなさもあった。

 自分が麻衣を好きだったという意識はなかったが、いずれ好きになるのではないかという意識はあった。そう思った時、巡査になって街に配属になった時の懐かしさと新鮮さがよみがえってきた。麻衣のイメージは、そのまま自分が好きだった街のイメージそのままだと感じたからだ。

 しかし、一歩進んで、自分が麻衣を好きだったからだということにどうして気づかなかったのだろう。そもそも人を好きだったということは気づくものではない。忘れるはずのないことだと思っているからだ。

 いくら成就することはなくとも、失恋や片想いは、淡い思い出として心の中に残っているもの。忘れようとしても忘れられないもので、忘れてしまうと、そのことだけではない他の思い出も一緒に忘れてしまうだろう。

 だから、

「あなたは記憶を失っている」

 と、麻衣の言った言葉を、簡単にウソだと決めつけることができなかったのだ。

 そんなことを考えていると、自分が夢を見ていることに気が付いた。

 さっきまで、バーのカウンターで麻衣と呑んでいたはずなのに、さっきまで目の前にいたはずのマスターはいなくなっていた。そこに誰か違う人がいるように感じたが、暗くてそれが誰だか分からない。

 場所は確かにバーカウンターで自分は椅子に座っている。横には麻衣が座っているが、さっきまで一緒に呑んでいた麻衣ではなかった。あどけなさと懐かしさが残るその表情は、十年前の麻衣だった。

 二人を照らすスポットライトが眩しくて、そのまわりは、真っ暗だった。カウンターの奥に潜んでいる人物が暗くて見えないのは、そのせいだった。

「あなたは、これから失った記憶を取り戻すのよ」

 そういうと麻衣は、今までのあどけなさから、まったく違う形相になってしまった。

「どういうことなんだい?」

 と問いただしても、もう麻衣は答えない。

 麻衣の後ろに佇んでいる人間の息遣いが聞こえる。よく聞いてみると、それは息遣いではなく、苦しんでいるような声だった。

 さすがに刑事を何年もやっていると、死を目のあたりにすることは何度もあったが、次第に慣れてくるからなのか、恐怖や不気味さを感じなくなっていた。

 しかし、この時に感じた苦しそうな声には、恐怖と不気味さで、身体が震えあがりそうな気持になってきた。一体そこには誰がいるというのだろう?

 真っ暗な中に誰かが潜んでいると思うだけでも恐怖を感じるのに、息遣いが苦しそうなのを感じると、まるでもう一人の自分がそこにいるような気分だった。

 この感覚は半分当たっていた。苦しんでいるのは自分ではないのだが、そこにはもう一人潜んでいて、まったく気配を感じさせることはなかった。

 なぜ気配を感じないのかというと、その人間が自分とまったく同じ周波の人間だったからだ。人間の中には微量ながら電流が流れているという。静電気が発生するのはそのいい例なのだろうが、電流が周波となり、誰がいるかというのを、見なくても分かることがあるのは、その周波を感じるからだった。

 しかし、まったく自分と同じ周波を放っている人物なら、感じることはない。それは誰あらん、もう一人の自分なのだ。

 そう思うと、さっきまで真っ暗で何も見えなかったはずなのに、急に見えるようになってきた。

――目が慣れてきたからなのか?

 と思ったが、そうではないようだ。

 もう一人の自分を感じたことで、見えるようになったのだが、もう一人の自分というのは、同じ自分には決して見えないようになっているはずだった。

「だんだん思い出してきたかしら? そこにはもう一人のあなたがいるでしょう?」

 山内は驚愕した。

――どうして、この女にはそれが分かるんだ?

 と思った時、

「不思議でしょう? 私はもう一人のあなたの側の人間なのよ」

 何を言っているのか分からず、茫然としていると、

「人間というのはね。必ず表と裏があって、自分の中だけで表と裏を持っている人もいるんだろうけど、もう一人の自分は存在するの。完全に表と裏を一人の自分の中だけで持っている人には、もう一人の自分の存在が分かるんだけど、それ以外の人には決して分からない。今、あなたにもう一人の自分の存在が分かったということは、あなたには自分の中だけで表と裏が存在している証拠ね」

「何が言いたいんだ」

「あなたは、最初から表と裏を持っていたのよ。自分では分かっていないんでしょうけどね。警官としての正義感のあなたと、嫉妬に狂った裏のあなた。どちらもあなたなのよ。そして、裏のあなたが表に出てきた時、もう一人の自分の存在に気づき、もう一人の自分の囁きに乗って、どんなことでも自分の欲望を満たすためならしてしまう。それがあなた……」

「そんな……」

「だから、あなたは裏の自分が出てきているのだから、その時の記憶が失われていたとしても、それは無理もないこと。それに、失った記憶が絶対に思い出したくないことだというのをあなたは分かっているので、思い出そうと努力することもない。だから、自分に都合のいい記憶の失い方になるのよ」

「どうして、君にはそんなことが分かるんだい?」

「だから言っているじゃない。私はもう一人のあなた側の人間だって」

「君は、一体何者なんだ? 僕の知っている麻衣じゃないということか?」

「そうじゃないわよ。私はあなたの知っている麻衣なの。ただ、あなたが勝手に過大評価したために、あなたにとって私は嫉妬の対象になった。あなたの中にいる裏のあなたのね」

「頭が混乱してきた。じゃあ、僕には裏の自分と表の自分がいて、その二つが存在しているから、もう一人の自分が分かるということなのかい?」

「そういうこと。意識はできるけど、もう一人の自分がどんな自分なのか、きっと想像もつかないでしょうね。他の人は、もう一人の自分を意識することはできないけど、もう一人の自分が存在しているとすれば、そんな人間か想像できるのよ。でも、あなたのように意識することができる人は、その人がどんな自分なのか、そこまでは分からない。実に中途半端で、皮肉なことよね」

「僕は何かしてはいけないことをしてしまったのか?」

「ええ、人を殺したのよ」

「人を殺した? 誰を?」

「佐土原さん」

「えっ? 彼は池に落ちて溺れた事故死じゃなかったのかい?」

「まだ、そんなことを言っているの? 事故死じゃないって、あなたが一番感じていたはずじゃないの。昔、私が彼は決して溺れたりなんかしないって言った時、あなたも同感だって思ってたわよね。その時点であなたは、完全に警官であり、すべてを他人事のように理解させていたのよ。自分の中でね。でも、事故死じゃないことは意識していたはず、警察の捜査の限界は、状況から見て、事故死以外に何物でもないという判断があったからなのよ」

「そうなんだ。だから事故以外にありえないんじゃないか?」

「そう仕向けたのはあなたよね。彼の肩が脱臼していたのは、あなたともつれた時、必死で助かろうとした彼をあなたが、無常にも突き落とした。必死の思いだったはずの彼の脱臼、普通ならもっと捜査されてしかるべきなのに、あなたは刑事に事情聴取されて、脱臼に対して、彼が最近肩を壊していたことを証言したのよね。刑事もその証言を鵜呑みにした。何しろ状況証拠は、すべて事故を示していたんですからね。脱臼だけが気になるところだったのを、あなたの証言ですべてを事故にしてしまった。その時のあなたは、裏だったの? それとも表だったの?」

 麻衣の質問に、山内は考え込んでしまった。

――自分の中に、裏の部分があったなんて――

 そういえば、刑事のような仕事をしていると、やりきれないこともたくさんある。

 他の人はどのように発散させているのか分からないが、自分は放っておけば、時間が解決してくれた。

 それを、気持ちに流されているようであまりいい気持ちはしなかったが、それでもやりきれない気持ちを払拭できるのであれば、それ越したことはなかった。

 麻衣は続ける。

「私は、最近まで、あなたのことを信じていた。今でも信じていると言ってもいいわ。だからあなたとデートもしてみた。でも、あなたと一緒にいればいるほど、裏のあなたにじっと見つめられているような気がして怖くなるの。あなたには分からないでしょうけど、ストーカーの恐怖って、他人が考えているほど生易しいものではないの」

「……」

「私は、佐土原さんを失って、しばらく自暴自棄になりかけたの。あなたは知らないでしょうけどね。もし、あなたに少しでも、私を正面から見てくれる気持ちがあったら、知ることもできたんでしょうけど、その少しもなかったのよね。そしてあなたはその時の記憶の都合の悪い部分すべてを消し去って、私を好きだという記憶すらも消してしまった。人を殺すほど好きだった相手なのに、本当に殺してしまうと、好きだったということも消してしまわなければいけない。本当にあなたは何をやっているんでしょうね」

 彼女の叱責は続いていた。

 麻衣の顔を見れば、

「言っても言っても、言い足りないわ」

 とで言いたげだった。

 それにしても、麻衣はなぜ今頃になって、山内の前に現れたのだろう?

 復讐のためだと考えるのが一番妥当なのだが、本当にそれだけなのだろうか?

――何か大きな秘密を秘めていて、それを口にしたくて仕方がない――

 そんな表情にも見えた。

 気になるのは、麻衣の向こうで暗闇に蠢いて、苦しんでいる声だった。

 麻衣に叱責されている間は気にならなかったが、麻衣の言葉が途切れると、断末魔のうめき声が気になって仕方がなくなる。

「まさか、そこにいるのは、佐土原君?」

「そうよ。あなたが殺した佐土原さんよ」

「そんなバカな、彼は死んだはずだ」

「だから、あなたが殺したんでしょう?」

「違う。俺は殺してなんかいない。あれは事故だったんだ」

「口では事故だっていくらでも言えるけど、あなたは自分の心にウソをつける人だから、平気で言えるのよ。卑怯や卑劣などという言葉をすでに凌駕しているわ」

 麻衣の言葉はどんどん過激になっていく。

 こんな過激な言葉を平気で口にできる麻衣は、すでに自分の知っている麻衣ではなかった。

「そうよ、私はあなたの知っている麻衣ではないわ。でもね、これが本当の麻衣なのよ。それを引き出したのは、やっぱりあなた、あなたさえいなければ、私は表に出ることもなく、表の私は佐土原さんと幸せな未来が待っていたのよ」

 麻衣も、裏表のある人間だったのか、そういう意味では、裏の麻衣を引き出すことができるのも、裏表のある自分だったと考えれば、辻褄が合う。もっともこれは麻衣の話を全面的に信じた場合の話ではあるが……。

「私は、佐土原さんとの恋を、消してしまおうと思ったわ。そうすれば、気が楽になると思ったの。でもできなかった。あなたが何も知らないうちに、自分が佐土原さんの記憶を消してしまうということは、彼の存在自体を消してしまうような気がして、私にはできなかった。まさかあなたが、自分から記憶を消していたなんて、私は知らなかったから、最初はあなたを許せばそれでいいのかって思った。でもそれは間違いだって悟ったの」

「どうして悟ることができたんだい?」

「私は、佐土原さんの実家でお世話になった。そこで佐土原さんのお父さんに犯されたのよ。私は何もかもが嫌になった。この世の男は、しょせん皆同じだと思った。死んでしまおうとまで思っていたところに現れたのが、武藤部長だった」

「えっ、武藤部長って、あの紀元研究会の?」

「あなたは知っているようね。ええ、そうよ、あの武藤部長。彼が私を救いに導いてくれたのよ」

「じゃあ、君は宗教団体に入信していたのかい?」

「ええ、宗教団体とか私には関係ないの。救われるならそれでいい。どうせこの世を普通に生きることなんて私にはもうできないのよ。私に残された道は、復讐しかなかった」

「その相手が僕だということかい?」

「ええ」

 何ということだ。麻衣は自分に復讐するためにずっとそれだけを考えて生きてきたというのか。

「佐土原君のお父さんはどうしたんだ?」

「とっくに死んでいるわ。もっとも、あの男は私以外にも酷い目に遭った女性もいて、あの男はその人からの復讐を受けた」

「そんな……」

「しょせん、あの男はそんな男だったのよ。殺されても可哀そうだなんて、まったく思わなかった。私は人の生き死にには興味ない。興味があるのは復讐だけ。それもあなたへのね」

 山内はたじろいでしまった。

 こんなところで死んでは溜まらないという思いと、恐怖とで身体が鉛のように重たくなっていた。

「あなたには死んでもらうわ」

「紀元研究会というところは、復讐支援機関のようなものだったのか?」

――まさか、そんな機関が存在するわけはない――

 という思いを持っていながら、わざとありえない言葉を口にして、カマを掛けたつもりだったのだが、

「ええ、そうよ。あなたが今捜査している変死体。あれも、紀元研究会が関わっているのよ。紀元研究会に入信した人たちは、誰かしら、殺したいと思っている人がいるの。彼らは私と同じ、裏表を持っていて、もう一人の自分の存在も知っている。だから、彼らには復讐をすることができるの。自分たちは復讐をするために生きてきたとすら思えるほどの力を身につけていた。別に紀元研究会に入ったからと言って、その力が身についたわけではない。その力の引き出し方を、紀元研究会から教えてもらうのよ。そういう意味ではああなたが今言ったような、復讐支援機関という言葉が、この場合、的を得ていると言えるんでしょうね」

「そんな殺人集団が、宗教団体の仮面をかぶっているわけか」

「殺人集団? よく言えたものね。あなたたち警察が無能で、被害者がどんどん増える。被害者がいくら声を出しても、警察は何もしてくれない。だから紀元研究会なんてものが存在するのよ」

「やつらは、人知れず、復讐のための殺人をするのか?」

「彼らがするんじゃないわ。復讐を企んでいる人の手助けをするだけ、復讐される相手が死んでも、自然死にしか見えないので、復讐をした人に警察の追及が及ぶことはないわ。そうあなたが、佐土原さんを殺したようにね。でもね、復讐をすれば、その人もただでは済まないの。死んだ相手の年齢までしか、生きることができないのよ。ところで、どうしてあの団体を「紀元研究会」っていうか知ってる?」

「いや、知らない」

「そうね、あなたのような人には考えも及ばないわよね。この国の紀元前後、神話があったのよ。その神話は一部の考古学者にしか知られていない。内容はかなり人間性に特化したもので、まるで人間を作った神が、人間のいろいろな性格をテストしているような感じなのよ。その神話の中に、復讐劇が載っているの。自分にとって大切な人を殺された人が復讐するんだけど、それは神の力を借りてね。その人は他の誰にも知られることもなく殺害に成功するの。でも、彼の寿命はその瞬間、神から与えられた寿命を他の神に塗り替えられるのよ。つまりは、殺した相手までしか生きられない。でも、人間というのは、罪の呵責に苛まれるもので、寿命が分かっていて、しかも罪の意識を背負っていると、死ぬよりも苦しいことに気づくのね。そうすると、自殺を企てる。でも、それは許されない。その人はそれから年を取らなくなった。せっかく寿命までは自由に生きられたのに、成長するということまでままならなくなったのね。でも、時間だけは無常に過ぎていく。肉体的に年を取らないんだけど、過ぎていく時間は容赦なく寿命に近づいてくる。本人は年を取らないので寿命がいつかも分からなくなってきた。そして、いよいよ塗り替えられた寿命の日に到達してしまう……」

 聞いているだけで、汗が流れ落ちるのを感じていた山内だった。

「それでどうなったんだ?」

「その人は、一気に年を取ってしまい、そのまま絶命してしまう。身体は一気に年を取ってしまうことに耐えられず、死んでしまうと一気に腐乱してしまったんだ。腐乱している表面とは別に身体の内部は綺麗なもので、不思議な変死体が発見されるというわけなのよ」

「そ、それはまるで今発見されている変死体のようじゃないか」

「……のようじゃないかって、その通りなのよ。だから、団体の名前は『紀元研究会』という名前になっているのよ」

「まるで浦島太郎の話のようだ」

「そうね、あの話はきっと、この伝説の乗っている神話をあの時代の誰かが見て、それで創作したのかも知れないわね。御伽草子という話のほとんどは、紀元研究会で研究されている内容なのよ」

「腐乱していない変死体は、復讐された人で、腐乱した変死体は、復讐した変死体だということなんだ」

「その通り」

「でも、今の話を聞いていると、復讐される人よりも、復讐を企てる人の方が、残酷なんじゃないか? そんな運命が待っているのを知りながら、それでも復讐を行うというのか?」

「そうよ」

「でも、宗教団体なら、そんな人たちを救うのが宗教の意義なんじゃないか? 俺には分からない」

「あなたのような人には分からないでしょうね。でも、復讐をした人が救われるには、現世を犠牲にするしかないの。来世では逆転するのよ。これこそが宗教の教えというんじゃないのかしら?」

「残酷だ」

「そんなことはないわ。その証拠に武藤部長は、寿命を少しでも伸ばそうとして努力しているでしょう? あなたもそのお話を聞いたはずだわ」

「まさか、この間の話にそんな含みがあったなんて……」

「だから、あそこは団体重視なの。個人にとっては、それどころではないので、それで、武藤部長が頑張っているというわけ」

 山内は考え込んだ。

――一体、俺はこれからどうなるというんだ――

 山内はこの期に及んで、気持ちの中では何とか助かりたいと思っている。

――これが夢であってほしい――

 などと考えていた。

 実際に自分が佐土原を殺したという意識もないのに、どうして死ななければいけないのか。刑事になってたくさんの死体を見てきたこともあって、死に対して深く考えることもなく、感覚がマヒしていた。マヒしなければやっていられない商売であるからだ。

「もう、あなたは終わりなの」

 そう言って、麻衣は恐怖の形相に変わっていった。そして、麻衣の顔に白いものが生えてくるのを感じた。

――まるで白い苔のようだ――

 そう思って見ていると、何と顔から腐乱し始めたのだ。

「あなたは知らなかったでしょうけど、私はあなたと同い年なのよ。元々あなたに復讐するために、あなたの記憶を捜査した。あなたが、あの街で私や佐土原さんと接していた記憶は、すべて私が後から埋め込んだものなのよ」

「そんなバカなことが」

「できるのよ。それが紀元研究会の力。だから、私はあなたに今復讐をしているので、あなたの年齢に達して、このまま死んでいくことになるの。これが私の復讐。あなたにすべてを話して、私は満足だわ」

 消えゆく意識の中で、麻衣が断末魔のうめき声をあげるのを感じ、いつの間にか、自分もそれを見ながら、恐怖におののきながら死んでいくことを悟ったのだ……。


「この死体、山内さんですね」

 新米刑事はそう言った。

「ああ、そうだな。この隣で腐乱した女の死体が一緒にあったんだが、山内がどこかに隠し持っていたということかな?」

「じゃあ、これは心中ではなく、山内さんが殺したか、死んでしまった女の死体をどこかに隠していて、自分は自殺をした?」

「よく分からないな」

「まあ、山内さんという人もよく分からない人だったので、あの人らしいということでしょうか?」

「ああ、やつには、かつて警官時代に人を殺したという疑惑があったんだ。知らなかったのは当時の捜査員の中で本人だけだったんだがな。証拠がないだけで、完全にクロだったんだ」

「それなのに、どうして刑事に昇進できたんですか?」

「それは知らないが、上層部に圧力があったようだ」

「どんな?」

「どこかの宗教団体だって聞いてる」

「結局、あの人は宗教団体から離れることができず、惨めな死体となって発見される運命だったわけですね」

「しょせん、こいつの寿命はここまでだったというだけのことさ」

「そういうことですね」

 山内刑事の死が、世の中にまったく何の影響も及ぼすこともなく、今日一日は過ぎていく。麻衣の身元はすぐに判明し、手厚く葬られた後は、佐土原青年の隣に墓が設けられ、二人は永遠に来世で結ばれる運命を手にしたのだった……。


                 (  完  )

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寿命神話 森本 晃次 @kakku

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