悠斗/2
「ただいま」
「おかえり」
そんなシンプルなやりとりが、何故だか愛おしい。迎えてくれる人がいる。迎え入れてくれた心地がする。側から見たら、当たり前のことにいちいち何を感ずる必要があるのかと、白眼視されるかもしれない。周囲の当たり前が特別に思えるタイミング、それはたぶん、肩の力を抜くタイミング。私にとって、それはまさに今だった。
悠斗と過ごすうちに、人の声が、怖くなくなった。
頑張らないことを、出来るようになった。
何を感じやすくて、何に怯えて、何を避けるべきかが見えてきた。
そして、何が好きなのかも。
「親子丼がいい」
「一昨日も食べたけどいい? 今なら変えられるよ?」
「変えなくていいよ」
「わかった。じゃあ今日は特別に紅生姜もりもりね」
美味しいものを食べたいと思う元気が出てきたから、少しずつひとりで外出するようにした。玄関のドアを押し開けようとする度に足がすくむけれど、立ち止まっていたら、悠斗は永遠に私のそばを離れられない。
私のために君がいるのに、私は君のために勇気を出せる。家族でも恋人でもない、君のために。
そう思ったら何故だか笑いが込み上げた。相手を優先し続けた結果として悠斗が隣にいるのに、私はまた、同じことをしている。私は何処までいっても私だった。そう打ち明けた時の彼の反応は予想外で、そして同時に、私が私自身に抱いていた不信頼を氷解させた。
「それ言うのだいぶ勇気要ったよね。教えてくれてありがとう。うん、あのね。僕は、それがわかってよかったんじゃないかなって思うよ。変われないんじゃなくて、変わらなくていい部分なんだって思うから」
「変わらなくて、いい?」
「うん。君がそうしたい気分ならね」
「気分って言い方、曖昧」
「自分で言っておいてなんだけど、その気持ちわかる。言い訳になっちゃうけど、僕が気分って言ったのは、明確な根拠や理由がなくても、真っ当な利益や生産性がついてこなくても、気分がそちらを示すのは意味のあることだと思うんだよね。気分って言い方がしっくりこないなら、そうだな、やりながら軌道修正すればいいやの気持ち?」
「ふふふ。ほぼ同じ意味じゃない?」
「まあね。僕は何処までいっても曖昧みたいだけど、たぶんこれが僕なんだね。白黒はっきりさせたい時もあるけれど、グラデーションを味わいたいタイプというか」
「悠斗、服はモノトーンが好きなのに?」
「バレたか。これは軌道修正できないやつだ」
「その代わり笑いに変わったから花丸」
私を私でいさせてくれた君に花丸。
彼と出会って間もない頃、こう言っていた。
「僕がここを去るときは、君が君を取り戻したしるしだよ」
仕事に復帰してしばらくののち、そのしるしを見て安心したと、隣で悠斗が微笑んでいた。
とある休日。押入れから久しぶりに顔を出すボストンバッグ。滞在中に彼の私物が増えることはなく、彼の全てがそこに収まった。丁寧にジッパーを締め、すぐ去るのかと思いきや、彼はそのままソファに腰掛け「不思議だ」と呟いた。
「僕が思ってたより、なんか、少ない。思い出の方が、ずっと多い」
晴れない心のうちを悟られぬよう言葉を押し込んだ。
「次の人に出逢ったら、もっといい思い出が増えるよ」
初めて浮かぶ、寂しそうな横顔。
「うん。ただ、思い出を一緒に重ねる相手が違うから、比較するのは僕には難しいかな。全部大切。ああ、でもね」
こちらに正面を向けるその表情にはまだ寂しさが残る。事務的な話で申し訳ないと詫びつつ、彼は先を続けた。
「共に過ごした日々の記憶は、個人情報の保護のために消去されるんだ。学習事項を例外としてね」
「ええと、それはつまり……?」
「僕の頭で考えたことや感じたことは、個人を特定しないように残されていくの。例えば君は嬉しいときに笑うではなく、人は嬉しいときに笑う、みたいにね」
首肯しつつも、理解が追いつくのは半分程度。
「でもね、万が一また僕が必要になった時のために、摘出した記憶は全部保管しておくんだって。先生はこれをカルテって呼んでる」
急に現実を突きつけられた心地がした。そうだった。彼はおくすりなのだ。心のめぐりが悪くなった私の、おくすりでしかない。
「ねえ」
優しい瞳と目が合った。
「僕の記憶はリフレッシュされてしまうけれど、君と過ごした時間はこの世に確かに残る」
「うん」
「また会いたいなんて言えないけれど、もしまた会えたら、久しぶりって、抱きしめさせてね」
別れのとき。それは私が私を取り戻した合図。嬉しいはずなのに、涙が出るのはどうして。
温かい腕の中で、最大限の感謝を届けた。
「僕の方こそありがとう。さよならは寂しいけど、この涙も、君と僕の勇気に変わるよ」
私の部屋にひとり。かつての当然が、違和感となって押し寄せる。感傷に浸るも束の間、静かな空間に「ぐう」とお腹が鳴った。君なら「元気な証拠だね」と笑ってくれるだろうか。
久しぶりに自分で冷蔵庫を開けると、棚の中央、一番見えやすい所に見覚えのある丼ぶりが鎮座していた。マスキングテープで貼られたメモには「チンして食べてね」。
彼はおくすりとして私のそばにいたかもしれない。治療というプログラムに忠実なだけだったかもしれない。それでもいい。この思い出は大切だから、そう信じたい気分だから、胸の中で私を見守っていてね。悠斗。
メモの裏に残された悠斗流親子丼のレシピを眺めつつ、そう願った。ふと窓から風が舞い込みメモを揺らした。見上げた空は青く、爽やかに今日を照らしている。
君のおくすり 木之下ゆうり @sleeptight_u_u
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