第40話 四神の戦い(三)
冬籟が卓瑛の顔を噛みつくように振り仰ぐ。
「卓瑛……何を言ってるんだ? 沙月姫ってのは王宮の奥深くから出てこない、大人しくて内気な……」
「それは噂に過ぎない。深窓の姫君を直接知る者はおらず伝聞が流布しているだけだ」
冬籟は二、三度小さく首を横に振った。
「年齢だって違う。沙月姫は十六歳のはずだ。だが白蘭は十七で俺と三歳違いだ」
「西域では生まれて一年経って一歳となるが、こちらは生まれた時に一歳と数える。だから彼女は西域では十六歳で、董では十七歳だ」
冬籟はしばらく言葉を失ったあと「卓瑛はなぜ知った?」と問いを絞り出した。
「初対面でも引っかかる点はあった。白蘭と沙月姫とは境遇がよく似ている。父親が若く新しい妻に入れあげて最初の妻を娘ごと見捨てたところがね。ただ、これは不実な男によくある話だから、そのときの私は少し妙に思っても同一人物とまでは思い至らなかった」
「……」
「突然現れた女商人の素性より私には気がかりがいっぱいだったからね。女商人が言うように護符の謎を解かなければならないと思ったし……。そのうち蘇王の野心が明らかになって、どう対抗すべきかという難題も持ち上がった。冬籟の故郷、毅国の平定だって昔から私の課題だ」
「卓瑛……」
「そう……その北域討伐にはカネがいる。だから西妃の入内は必要だ。そこで入内に備えて、琥にいる間諜に沙月姫について綿密に調べるように命じた。ところが優秀なはずの彼らが該当する王女の気配を王宮に見つけられないと言う」
「……」
「私は念のため戴家の養女となった王族の娘の素性を探れとも命じていた。彼らからの情報も少し錯綜していたが、華都にいる女商人白蘭こそが沙月姫だと考えざるをえないと私も結論付けた。それをいつどうお前に伝えるか迷っているうちに今、このような状況をむかえてしまった」
冬籟が今度は白蘭に視線を転じた。切れ長の目から放たれるそれに圧があるような気がして、顔を向けているのも辛い。
「あんた、俺を騙していたのか! こうして調べればすぐに分かることだろう? そもそも沙月姫ならいつかは卓瑛に嫁ぐ。いくらなんでも正体を隠したまま婚礼を上げるわけにはいかない。なんでいつか必ずバレる嘘をついて俺たちを騙したんだっ!」
これには卓瑛が答えた。
「冬籟、彼女には騙すというほどの強い意図はなかったのだと思うよ。どちらかといえばある意味悪ふざけに近いのかもしれない。いや、おふざけというより、彼女なりの目的はある」
冬籟が声を荒げる。
「それは何だ! どんな目的だというんだ!」
「彼女自身が口にしていたことだ。周囲のために課せられた結婚はしても、夫の寵愛には頼らない。後宮出入りの女商人として西妃の役割の実務を回し、婚家に確固とした立場を築く……」
「確かに白蘭はそう言っていた……。だが自分の素性を隠して騙すような真似をしたのは、董皇帝を愚弄したってことじゃないのか?」
「姫だと知られれば行動に制約がかかり、自由に謎解きができない。だから彼女は身元を隠した。一方で、彼女は別に我々を『愚弄』する気もなかった。確かに彼女には、謎解きを通じて我々を『出し抜く』とか、我々の『鼻を明かす』という意図はあり、その結果として、された側の我々の面子が少々傷つくことにはなる」
「それだ! それを愚弄だと言っている!」
「冬籟。彼女の目的は自分の有能さを認めさせることであって、我々を傷つけることではない。だから、私が恥をかかずに済む落とし所もきちんと用意していた」
「恥をかかずに済む……?」
「彼女は正体を明かすときには茶目っ気たっぷりにふるまう予定だったのだろう。ならば初めてそれを知った皇帝の私が取るべき態度だって決まっている」
「なんだ?」
「苦笑して姫の風変わりな登場を面白がることさ。そうして鷹揚に笑い飛ばすことで私は自分の器の大きさを示すことができる。反対に言えば、ここで本気で怒れば冗談を解しない小さな男だと私の方が恥をかく。そしてもちろん私は大いに笑ってみせるつもりだった」
冬籟が「どこまでも計算づくか……」と呟いたあと、感情を噴出させた。
「白蘭、あんたは人を盤上の駒のように見る。あんたにとって俺はただの皇帝の側近に過ぎなかったんだろう。だが、俺はあんたの駒じゃない。感情のある人間だ! だから俺は……俺は!」
「冬籟……。彼女の苦手分野はそこだ。彼女は幼い頃から、愛という感情について、その美しさではなく醜さを先に学んでしまった。 だから、自分は両親のようになるまいと決意して生きてきた」
「……」
「そして彼女は自分がそうであるように、まともな人間なら与えられた役割の中で生きるものだと考えている。その前提で他者を見るから人を盤上の駒として扱うように見える」
卓瑛は「私が言うまでもないだろうが」と続ける。
「本来の彼女は愛情深い。だが、それを素直に認められない。だから人に親切にするにも金勘定というやや斜に構えた態度をとる。そのうえ……」
卓瑛は自分の肩を借りている、実の弟も同然の冬籟の顔を痛ましげに見つめる。
「皇帝の側近として知り合うだけだったはずのお前に恋をするなど、彼女には全くの予想外で大きな誤算だったんだ」
「……」
「私もお前にどう説明しようかと………」
卓瑛が心配そうに自分の肩にもたれかかっている冬籟の顔を覗き込んだ。けれど、その冬籟の表情が傍目で見ても分かるほどにさっと強張る。
──東妃に続いて白蘭もまた卓瑛が妻に娶る。冬籟ではなく……。
冬籟は卓瑛からぱっと身を引き離し、その弾みで大きくよろけた。卓瑛が即座に手を差し伸べる。
――パシッ
自力で姿勢を立て直した冬籟は、差し出された卓瑛の手を叩くようにして払いのけた。
「冬籟……」
卓瑛がはっきり傷ついた顔をする。
冬籟はそんな卓瑛から二、三歩後退った。彼もまた瞬きもせず、自分で自分のしたことに衝撃を受けたように立ち尽くす。
しばらくして彼は拳をぐっと握り、それから今度は「沙月姫」に体を向けた。
「冬籟様……」
一瞬、彼と視線が合った。そのはずだった。
しかし冬籟はそれを素早く断ち切り、その場に跪いた。そして丁寧に、丁寧すぎるほどゆっくりとした仕草で首を垂れて揖礼を取る。
「西妃様」
冬籟は彼女をそう呼んで、頭を上げた。膝をついて見上げてくる視線が刃物のように鋭い。そして瞳の中で様々な感情がせめぎ合い、烈しく爆ぜているのが見て取れる。憤怒、苦悩、嫉妬、そして悲哀──その奥底には渇望と諦念。
冬籟は再び「西妃様」と口にする。焼けつく視線とは裏腹に、凍えるほど冷たい口調で、彼は自身の役割に課せられた台詞を滑らかに述べ始める。
「西妃様の入内を禁軍将軍として歓迎申し上げる。西妃様におかれては入内なされたあとはどうぞ陛下を一心にお慕いなさいますよう」
「冬籟様……」
焼かれるような、凍えるような心地で、彼女は言葉を失う。
「禁軍将軍が負傷中、麻酔のせいで妙なことを申し上げた。董のためにも、琥のためにも、私の名誉のためにも、そして西妃様ご自身のためにも一切をお忘れいただきたい」
冬籟はそこまで一息に言い切って、白蘭に背を向けながら素早く立ち上がった。傷が痛むのか一瞬だけ体の軸が傾いたが、ぐいっと肩を怒らせる。
「冬……」
冬籟様と呼びかけて途中で言葉を飲み込んだ。彼の背中は完全に彼女を拒んでいた。
卓瑛が側燕宮の方を向く。多くの宦官や宮女達が、何が起こったのか分からぬまま、皇帝と禁軍将軍のただならぬ気配に近づけずに立ち尽くしていた。
「冬籟将軍を手当するように」
皇帝の命で一斉に人々が動き出す。冬籟は比較的背の高い宦官の肩を借り、彼らに囲まれて洞門の外に姿を消した。
卓瑛が「沙月姫」と呼びかけた。老成した性格でも、今はやり場のない感情を抑えきれないようでそれが声ににじみ出る。
「沙月姫、私は貴女自身にそれほど怒っているわけじゃない。けれど、冬籟を傷つけることになったのは許せないんだ。それに冬籟が私の手を払いのけた。こんなことは初めてで私はそれに傷ついている……とても」
「……」
彼は立ち去ろうと踵を返し、顔だけで沙月姫に振りむく。
「冬籟が毅国に行くなら軍資金を潤沢に用意してやりたい。それから蘇王が天下を狙うのを総力あげて阻まねばならない。蘇王とその周辺の、他民族や女や貧民を虐げる価値観をのさばらせるわけにはいかないからね」
「……」
「ゆえに董帝室は西妃を厚遇する。後宮出入りの女商人も、だ」
「……はい」
「全て貴女の願ったとおりだ。これから励んでいただこう」
西妃と後宮出入りの女商人の役割は重い。それは今までの自分もよくよく理解していることだった。それなのに、今は、後宮を出入りして生きる自分の人生が虚ろに思えてしかたない。踏みしめていた足元が崩れ去っていくような、そんな心許なさに彼女は自分で自分の身を抱いた。もう、辛いときに自分を抱きしめてくれたあの人はいないのだった。
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