第39話 四神の戦い(二)
「白蘭、確か毅の若者がヤリシュタリシュと口にしていたと言っていたな」
「は? ええ、そうですが?」
「それは、こんな発音じゃないか?」
冬籟が白蘭の聞いたことのない単語を発した。あの毅の若者が発した音声そのものを耳に蘇らせることはできないが、当時の白蘭が書き取ったつづりに照らし合わせてその発音はありうるものだ。
「そうかもしれません。それが何か?」
冬籟は拳を握った。
「それは玄武を意味する毅の古い言葉だ。その若者……兄上は『玄武よ、こちらに来い』という文言をあんたに伝えようとした。それが……玄武を使役する呪文だ!」
毅国王子のその言葉を聞いたかのように、ギャアーッと獣の声が遠くで上がった。
そちらを見ると、南の夜空の遠くに染みのような赤い点がある。それはみるみるうちに大きくなり、そして星の間を羽ばたく炎の翼が見えた。
白蘭が「朱雀が!」と叫ぶ間にも、赤く巨大な鳥の姿が目前に迫ってくる。
「くそっ、蘇王か!」
冬籟が腰に佩びていた剣を抜いた。
皇太后崩御の場面に禁軍将軍が駆けつけると蘇王は予想したのだろう。主を失った後宮でならば混乱に乗じて負傷中の将軍をしとめられると踏んだのか。それにしても後宮内で朱雀を使役して人を襲わせるとは!
冬籟は白蘭を片手で押しのけ、朱雀の方に躍り出た。口の中から炎を吹き付けてくる朱雀の足元へ駆け、幼子の背丈ほどもあろうかという足の爪をかいくぐって、剣を高く払う。朱雀の火焔をきらめかせたその刃は、宙を鋭く動いてその脚を斬った。
「ギャアアアアーッ」
朱雀は耳をつんざくような叫び声とともに、身をよじりながら上空に戻る。しかし、冬籟も苦し気に膝をついた。
「冬籟様!」
賊に斬られた傷口が開いたのだろう。それが分かっているかのように、空中で姿勢を立て直した朱雀が再び襲い掛かってくる。
冬籟の判断は早かった。さっき明らかになったばかりの呪文を叫ぶ。
「ジャルクタルシュプラヤギス!」
白蘭の耳にはこう聞こえた。
──パシッ
冬籟を突き刺そうとした朱雀の嘴を、大蛇の尾が払いのけた。打撃をくらった朱雀は一瞬闇に浮かぶ大きな火球となり、そして再び鳥の姿を取って星の広がる夜空に舞い上がる。
地には、跪く冬籟を守って玄武が立ちはだかっていた。巨大な亀とそれに絡みつく蛇とが頭を持ち上げ朱雀を威嚇する。
玄武の登場に朱雀はためらっている様子だったが、蘇王が何らかの命令を下したらしい。空から舞い降りて来ては冬籟に攻撃を仕掛けてくる。
朱雀の炎が近づくたびに、冬籟の姿がその光に浮かび上がり、そして玄武が尾と頭で追い払う。それが何度も続いた。玄武と朱雀の戦いは互角だ。そう簡単に決着がつくはずもない。四神のそれぞれはほぼ同格の力を有しているからだ。
冬籟の表情が苦しげに歪む。紅蓮の光の中でもそうと分かるほど、その顔色は蒼白い。このまま時間が経てば冬籟の身体が持たない。どこかで誰かがこの戦いを終わらせなければ──。
白蘭は胸の護符を握り締めた。彼を救うためにできることはやらなければならない。白蘭は護符を鎖から引きちぎった。そして、腕を大きく振りかぶって朱雀に投げつける。
白蘭の手を離れた護符は空中で白い光の塊となって朱雀と玄武のもとへ向かう。白蘭はその光に琥の言葉で命じた。
「姿を現しなさい! 玄武を助け、朱雀を払って!」
光の先から前脚が現れ、顔が現れ、そして後脚が現れた。
──ガルルルゥッ
巨大な白い虎が玄武のそばに降り立ち、すぐに勢いよく跳躍して朱雀に噛みつこうとした。
朱雀がそれを避けようとするところを玄武の尾がしたたかに打ち落とす。地面をかすめた朱雀がギャアアと鳴きながら上空に飛び上がった。
四神のうち玄武と白虎の二つを相手にして勝ち目はないはずだが、それでも朱雀の使役者は退くつもりがないらしい。どこかでこの光景を見ているはずの蘇王は玄武と白虎が天空までは昇って来られないのをいいことに、なんとしてでも機をうかがって冬籟をしとめようと攻撃を繰り返す。
そこにピカっと閃光が走った。ついで雷鳴がとどろく。ポツンポツンと雨が降り始めた。
白蘭が見上げると、夜空に濃灰色の雲が押し寄せ、雲居を駆ける細身の龍の影が見えた。
坂の上の側燕宮に立つ人影が「青龍!」と叫ぶ。卓瑛だ。
「青龍、雨を降らせよ。朱雀の焔が消え去るように!」
朱雀が滞空している場所よりも高い天空から、龍影の動きに従って雨が降る。暗くなった空から強く激しく雨粒が降り注ぐ中、朱雀は羽ばたくごとに小さくなっていく。
再び稲妻が走り夜闇を切り裂いた。雨は雲の底が抜けたようにどっと勢いを増し、天地を揺るがすほどの轟音をたてる。しかし、皇帝の気迫に満ちた声はそれにも負けることはない。
「去れ、朱雀! 董の皇帝が命じる。本来のお前は徳ある皇帝の守護者のはずだ!」
蘇王が朱雀を使役しおおせるか、それとも卓瑛の命が勝るのか。答えは後者だった。朱雀ははばたきを止めて一瞬宙に漂ってから、ふっと姿を消した。
「冬籟!」
卓瑛が宮殿から坂を駆け下りてくる。青龍は雨に溶けたかのようにいなくなり、何事もなかったかのような月影が戻ってきた。玄武の傍で冬籟は片膝をついて立ち上がろうとし、それができずにいる。
「冬籟、大丈夫か。私の肩につかまれ」
皇帝の卓瑛が冬籟の前に膝をつき、冬籟の左脇に自分の肩を差し入れる。形の上では臣下でも卓瑛にとって冬籟は弟同然であり、そうせずにはいられないのだろう。
冬籟が何かを呟く。玄武を呼び出す呪文が分かれば、「去れ」という文言も分かったらしく、玄武がふっと姿を消した。
白蘭も琥の言葉で「戻りなさい」と白虎に声を掛ける。白虎は首を巡らせると、白蘭に向かって地を蹴った。白い光が白蘭の胸元に飛び込み、そして消える。白蘭の首には再び虎の護符があった。
卓瑛に肩を借りて立ち上がった冬籟が、唖然とした様子で白蘭を凝視している。
「白蘭……どういうことだ?」
「……」
「あんたが白虎を使役するのか? なぜ?」
「それは……」
答えに迷う白蘭に卓瑛が静かに声をかけた。
「もうこれ以上、自分の身の上を偽ることはできないよ、白蘭──いや、琥王国王女、康婉。以前に言ったとおり沙月姫とお呼びするのがよろしいか?」
白蘭はうなだれた。
「陛下……」
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