第19話 蘇の役者の登壇(二)

 春賢が「妻だと?」とさえぎる。


「僕は貴族だぞ。西戎を妻に娶るなんてみっともないことするわけないじゃないか。これは僕の妾だ」


 春賢はさっきよりずっと乱暴に白蘭の胸の前に手を伸ばし、荒々しく腕を捕まえて引っ張ろうとする。白蘭は腰を落として抵抗した。


「お前だって、皇太后のような出来損ないの西戎になどなりたくないだろう?」


「出来損ない?」


「女の身体というのは男を悦ばせ男に可愛がられるためにある。夫に愛されもせず侘しく独り寝で毎晩過ごし、花の盛りを無駄にする人生などお前だって嫌なはずだ。だから僕が妾として囲ってやると言っているんだ」


「な、何を言って……」


 白蘭は体をよじってもがくが、男の腕力から逃れられる気がしない。


 そのとき春賢の体がふわりと浮いた。璋伶が春賢の傍でうずくまると、その腰を自分の肩で担ぎあげたのだ。春賢が足を宙にバタバタさせて叫ぶ。


「誰か! 誰か来い! 崔家の春賢に危害を加える蛮族を取り締まれ!」


 騒ぎを聞きつけた坊門の番人たちが駆けつけてきて、白蘭たちを坊門傍の詰所まで連行する。直接関係のない雲雀は帰宅を許されたが、璋伶は同行を命じられた。


 もちろん白蘭は「私たちは何もしていません!」と主張した。対する春賢はだんまりを決め込んでいる。


 坊正たちは顔を見合わせて困るばかりだ。大貴族の御曹司が相手では、彼らの手に余る事態なのだろう。陽がすっかり落ちて明かりを灯しても、結論を出せないままだ。


 白蘭は冬籟を頼ることにした。


「私は本当に春賢様の夕餉をお断りしました。後宮出入りの女商人の仕事があるんですから。お疑いなら北衙禁軍の冬籟様に聞いてみて下さい」


 小役人達は冬籟の名前が出たことにほっとしたようで、急いで使いを出した。


 ほどなくして冬籟が到着する。カッカッカッと規則的で力強い靴音が近づき、「どうした?」とよく響く低い声が空気を震わせる。長身の体躯から武人らしい威圧感を漂わせながら、奥に据えられた椅子にどすんと音を立てて座り、長い足を組んだ。


「事情を聞こうか」


 春賢が弾かれたように顔を上げる。


「この女が僕を誘惑したんだ!」


「は? そんなことするわけないでしょう!」


「僕は貴族の崔家の嫡男だぞ? 科挙だって受ける。もちろん受かるさ。だから僕に媚びを売って誘いをかけて!」


「なっ!」


 冬籟が「春賢殿」と、明瞭な発音ながら怒気の滲んだ声を出す。


「彼女は後宮出入りの女商人だ。独立独歩の商人でありたいと背伸びをし、年齢に釣り合わぬふるまいもするが、それほどに商売の才覚で自立したい願いが強い。そして陛下もその姿勢をお認めになった。そんな彼女が貴族の坊ちゃんと男女の仲になって愛人におさまろうなど思うはずがない」


 ──分かってもらえた……


「春賢殿、前も言ったが、陛下の勅命を受けた後宮出入りの商人の仕事を妨げるのは止めていただこう。それに彼女には許婚がいる。貴方はどうも白蘭を我がものとしたいようだが、それはいさぎよく諦めることだ」


「……」


 春賢は何も言わない。冬籟が「お分かりか、春賢殿?」と念を押しても、だ。白蘭が春賢に目を向けると、彼の両目は焦点を失い、ひどく虚ろでのっぺりとした表情をしていた。


 そして彼はふらりと立ち上がった。ゆらゆらと上体を左右に揺らしながら覚束ない足取りで戸口から外に出ようとする。冬籟が椅子から春賢の背中に声を掛けた


「春賢殿。繰り返すが、彼女に害をなすのは陛下への無礼と弁えられよ」


 春賢が妙にゆっくりとした動作で振り返り、そして再び冬籟と白蘭に背を向けてぼそりと呟いた。


「は。教養に乏しい皇帝など……。禁軍の将は北狄上がり。後宮の妃は東夷、出入りの商人は西戎。華都の街を南蛮の賤人風情が好き勝手に歩き回る……蛮人どもが大きな顔をするようなこんな今の世は狂ってる」


「何?」


 冬籟の声に答えることなく春賢は戸の外に歩み出し、篝火が届かぬ夜の闇に消えていった。言葉が出てこない白蘭と冬籟をよそに璋伶がその方向に向かってべぇっと舌を出す。


「狂ってるのはお前の頭の方だよ、バーカ」


 彼が自分の気持ちを代弁して毒づいてくれたように思えて白蘭はかすかに笑った。冬籟も苦笑を浮かべたが、真顔に戻ると今度は璋伶を真正面から見すえる。


「璋伶というそうだな。男一人を軽々と持ち上げたとか。そんな膂力がある身体には見えないが」


「はは、私は役者ですからね。舞台で悪役を投げ飛ばすことだってございます。かといって筋肉ムキムキなむさくるしい体格だと、ご婦人方の人気を失ってしまう。私はいつでもスラリと細身であるよう食事と鍛錬に細心の注意を払っているんでございますよ」


 そして連子窓から夜空を見上げる。


「おお、すっかり夜になってしまった。夜更かしは美容の敵。私はこの花のかんばせが商売道具ゆえ、そろそろ帰宅をお許しいただけますか?」


 冬籟は何かを警戒する表情を緩めず「ああ、帰っていいぞ」とだけ応じた。


 璋伶は「では」と立ち上がって去っていく。その動きを冬籟が食い入るように見つめていた。彼の気配が遠のいてから、冬籟が白蘭に問いかける。


「あの男は何者だ?」


「本人も言っていたでしょう? 蘇国の舞台役者だそうですよ」


「それだけかな?」


「え?」


 冬籟は低く短く言いきった。


「あいつはただものじゃない」


「……」


「身のこなしに一分の隙も無い。相当の手練れだ。武器を持たせてもつかえるだろう。それも並みの武人以上に、な」


 *****

 各話ごとの「あとがき」を書いております。「どの部分がどの資料に基づいているか」あるいは「どの部分が鷲生の独自設定かなのか」などについて書いております。何かのご参考になれば幸いです。

 →「中華ファンタジー「後宮出入りの女商人」の資料や独自設定など。」

 https://kakuyomu.jp/works/16817330659369663557

 第19話 「坊正」「華夷意識」について

 https://kakuyomu.jp/works/16817330659369663557/episodes/16817330659571040110

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る