短編ホラー:浸潤
のいげる
第1話 浸潤
岡田と小山は大学時代からの友人で今でも一緒に飲む間柄だ。
岡田はフリーライターでいつも取材で日本中を飛び回っているので、こいつが東京に帰って来たときが飲み会の合図となっている。
居酒屋でテーブルを囲んで揚げ物をつまみにビールを次から次へと空けていると、小山が奇妙なことを言いだした。
いつもの癖で掛けている眼鏡の端をくいっと上げると、小山は話し始めた。
「最近変なんです。この間から奇妙なことが続いているんです」
「おっ! ついに女房に愛想をつかされたのか。そうか、浮気されたのか」
岡田が混ぜ返した。実際には小山の女房は貞淑な女性で間違っても浮気はしそうにない。二人して読書が趣味なのだから、そもそも家の外での出会いというものがまったくない。
「こら、岡田、話の腰を折るな」と俺。
「すまん」と岡田。こいつは見た目は見事な顎髭を生やした強面の男だが、性格は素直である。
「で、何が変なんだ?」
「それなんですが」やや青い顔をして小山が話を続けた。「二週間前から、どこかで風が吹き荒れる音が聞こえてくるんです」
「風?」
「そう。ごおおぉ、ごおおぉって。どこか遠くで風が吹き荒れるんです。だけど実際には風なんか吹いていない。そんなことが続いているんです」
「耳の病気なんじゃないか?」俺は答えた。
「もちろん医者にはかかりました。問題無しとお墨付きを貰いました」
「へえ」俺は一つ相槌を打つとビールを喉に流し込んだ。小山は神経質なんだ。
「これを聞いてください」
小山はスマホを取り出した。
「録音アプリです。マイク部分を自分の耳に押し付けて録音して見ました」
音量最大にして小山は再生した。
ごおおおぉぉぉと暴風の音がした。俺と岡田はしばらくの間その音に聞き入った。
「どうして幻聴が録音できる?」と岡田。
「あれじゃないか。ほら、スマホで耳の穴を塞いだからなんでもない雑音が増幅されて」
「君の耳で試してみてくれ」小山がスマホを差し出した。
試してみたが俺の耳では何も起きない。
「それになんだか最近ひどく体が冷たくて訳も無く体が震えだすんだ」
「ああ、だからビール党のお前が熱燗を飲んでいるのか」
俺は奇妙に納得した。
そして岡田が黙りこくっているのに気が付いた。
「なんだ。岡田。どうした」
「実は俺も同じ症状なんだ。風の音が聞こえる。これに録音されているのとそっくり同じものが」
これには小山も俺も絶句した。二人してかかるなんてもしや伝染する病なのか。
「佐々木はどうなんだ?」尋ねられた。
「いや、俺にはそんな症状はない。二人ともってことはやはり何かの病気に感染しているんじゃないか。ほら未発見の病気ってまだまだあるんだろ?」
俺は指摘した。
「怖いことを言うな。それに耳の穴から風が吹く音がするようなのは病気とは言わない。むしろ祟りだ」岡田が抗議した。
「ボクは今の今までこれは自分だけの問題だと思っていました」と小山。「でも岡田さんも同じとなるとその理由がわかりません」
全員で頭を抱えた。気のせいなら良いのだがと思いながらその日の飲み会はお開きとなった。
*
その日はなぜか俺だけに仕事が集中して目が回るような忙しさだった。
最後の案件の一つを片付けてようやく椅子に深く沈みこむと、大きく深呼吸をした。
疲れた。
給湯室でコーヒーを入れて、自分の席に戻る。それを見ていそいそと課長がやってきて仕事の報告を要求する。
やれやれだ。
しばらく仕事の進捗を報告し、満足した課長が去ると、俺はまた椅子に腰を沈めてコーヒーの入ったカップを持ちあげた。せっかくのコーヒーが冷めてしまったなと思いながら、茶色の液体を啜りこむ。
ひどく冷たい。
慌ててカップを覗き込む。
コーヒーの表面が凍っていた。
流しでカップを逆さにして中の氷を捨てながら、これは何だと俺は考えた。
周囲が急に静かになり、遠くで風が荒れている音が聞こえたような気がした。
結局、二人に連絡を取りまた一緒に飲むことになった。
居酒屋の奥座敷に座り込み、全員が日本酒の熱燗を頼んだときには絶句した。
「お前らもか」
小山は懐から電子体温計を取り出した。
「最近は体温が35度に張り付いているんです。もちろん体内基幹温度はさすがに常温だとは思うのですが」
小山は本の虫だ。朝から晩まであらゆるジャンルの本を読みふける。だから俺たちの中で一番賢い。
俺たちも試しに体温を計ってみた。いずれも平温よりも低い。
背筋を冷たいものが駆け抜けて体に震えが来た。あれは慌てて熱燗を喉に流し込んだ。
俺はあのコーヒーの件を皆に話した。驚いたことに飲んでいる物こそ違えど皆が同じような経験をしていた。
岡田が口を開いた。
「ひどい寒さ。風の音。凍った飲み物。まるで冬山で遭難しているみたいだな。俺たち」
俺は耳を澄ました。どこか遠くで風が吹いている。それも強風だ。
それを聞いているとなんだか腹が減って来た。俺たちは次から次へと料理を注文し片っ端から平らげた。まるでそうしていると何かから逃げることができるとても言うように。
支払いは割り勘だったが、全員の懐から万札が飛んだ。
*
最近では寒さによる体の震えがひどいので、家に帰ると火傷するかと思うぐらいの熱い風呂をいれてそれに浸かるようになっていた。
湯舟に五分も浸かっているとようやく震えが収まり、ガチガチと音を立てていた顎も静かになる。
最近ではこれだけが寒さから解放される至福のひと時だ。
だからついウトウトしてしまった。
長い夢から覚めると、自分が水に浸かっているのに気がついた。一つ大きなクシャミが出た。
やばい。慌てて風呂の内部コントローラーを見た。
自動湯温制御のスイッチが切れていると思っていたが、それは元気よく働いていた。
湯の吹き出し口に手を当てる。たしかにお湯が出ている。だが風呂が温まるより湯が冷えるほうが早い。水面の向こうに薄氷の破片が浮いているのに気づいてぞっとした。あのまま眠り続けていたら最後は湯舟一杯の氷に閉じこめられていただろう。警察も首をかしげる謎の変死体の出来上がりだ。
風呂から飛び出るとありったけの服を着こんで、それから二人に電話した。俺の話を聞いてすぐに明日集まろうということになった。
*
ここはいつもの居酒屋だ。
取り合えず口が火傷するほどの熱さの熱燗を出してもらい、三人でガタガタ震える体を抑えながらお互いに起きたことを話し合う。
最初は岡田だ。
「朝起きたら、このヒゲの先端に霜がびっしりついていたんだ」
青い顔でガチガチと歯を鳴らしながら岡田は言った。その吐く息が心なしか冷たい。
「現在の体温33度。これではもうすぐ体が動かなくなって死にます。つまり凍死です」と小山。「試しにペットボトルを抱いてみたら、三十分ほどで凍りました」
「俺は風呂だ。熱い風呂に入っていたら、氷水になってしまった」
「いったい俺たちに何が起こっているんだ!?」
岡田が言った。なかば悲鳴だった。その疑問は同時に三人のものだった。
「食っても食っても腹が減る。それもひどい空腹だ」
「それに風の音だ」俺は言った。
いまでは風の音は耳の中で常に吹き荒れている。ごうごう。轟轟。どうどうどどうどう。そんな感じだ。かなり大きな音になっているので、人と話すときはつい怒鳴り声になってしまう。
言いにくそうに小山が口を開いた。
「これは言いたくなかったんですが・・」
俺と岡田は小山を見つめた。
「もしやという仮説が一つあるんです。でもボクはこれを言いたくない」
「言え。すぐに言え」岡田が小山の胸倉をつかんだ。
「言え。言え。言え。いや、お願いです。言ってください。教えてください」俺はテーブルに頭をすりつけた。
「あの。いや、言いたくない。みなさん、聞いたら心の底から後悔しますよ」
「それでもいい。いつまでもこんなのが続くのはたまらん」岡田が叫んだ。
「俺もだ」
二人に頼み込まれて小山はようやく話始めた。岡田に振り回されてずれた眼鏡をいつもの癖でくいっと押し上げる。
「あくまでも想像です。何か証拠があるわけじゃないんです。それはつまりこうです。
実は現実のボクたちは冬山で遭難して山小屋に閉じこめられ、そこで幻覚を見ているという可能性です」
身を乗り出していた俺たちはそのまま座り込んだ。小山の論に呆れたからではない。衝撃的に今の状況が腑に落ちたのだ。
「しかし俺たち、会話は成立しているぞ。幻覚って共有できるものなのか」と俺はようやくそれだけ言った。
「集団幻覚というものがあります。それに幻覚を見ながらでもお互い会話をすることは可能です」小山は答えた。
風の音が、さらに強くなった。
岡田の顎髭の先に霜がつき始めた。その霜が割れて言葉が出る。
「しかし、この居酒屋の光景がすべて幻覚なのか。まるで何の違和感もないが」
寒さに歯を鳴らしながら小山がそれに答える。その息が白く凍る。
「幻覚を見ている間はそのおかしな所に気がつかない場合がほとんどなんです」
「じゃあ、この寒さも、周囲のものが凍るのも、すべて現実に負けて幻覚が解けかけているということか」
手の中の熱燗の上に氷が張り始めた。
「そうです。そしてボクたちは目が覚めかけているんです」小山が叫んだ。「もう幻覚が維持できない。完全に目が覚めてしまえばそこには地獄が待っています」
小山は目の前の料理を鷲掴みにして自分の口へと放り込んだ。
「目が覚めればもうこんなものは食えませんよ。ボクたちがやたら居酒屋で食うのは現実での食料が尽きているからに違いありません」
小山の頭髪の上にうっすらと氷が張り始める。彼がかけている眼鏡のツルにも白く氷が張り付いている。
俺の指が動きにくくなってきた。冷たい。異様に指先が冷たく、真っ白になっている。凍傷の前段階だ。
居酒屋の壁に貼ってある海の絵のポスターが消えた。漆喰の壁のはずが木造りに変わっていく。
*
風の音は今や咆哮となり、小屋の中を満たしている。
吹雪はもう三日も続いている。この小屋に避難して以来、俺たちは乏しい食料を分け合い、お互いを励ましながら耐えて来た。
登山届は出して来たが、この吹雪では例え連絡がついたとしても救助隊が来る見込みはない。
小屋に蓄えてあった薪はわずかで、それを薪ストーブで少しづつ燃やし、その周囲に三人身を寄せ合って過ごしていた。
薪ストーブの上に雪を詰めたコッヘルを置いて水を作り、それを少しだけ啜る。今日腹に入ったのはこれだけだ。この気温ではカロリーの消費量は普通の十倍と聞いたことがある。その通り、俺たちはもう限界が近い。
岡田の顎髭は白く凍った霜がびっしりと覆っている。吐いた息が髭に氷となって張り付き、ときたまそれを叩き落している。
俺たちの中で一番体力がない小山は特に危ない。こいつはときどき眠りかけていて、たまに奇妙なことをぶつぶつと呟く。
だが助けたくても俺たちにはもう余力がない。
思い切って最後に残った三本の薪をストーブに投げ込む。やがて炎の色が強くなり少しだけ周囲が温かくなった。これが燃え尽きたらもう後がない。
岡田の頬を張り飛ばし、小山の肩を掴んで揺さぶる。
「眠るな。眠れば死ぬぞ」
このセリフをいつかは言うことになるだろうとは思っていた。
「眠らせてくれ。熱燗を一口飲むんだ」
岡田がそう言いながら目を開けた。
「だから話したくなかったんだ。目覚めたくなかったんだ」
小山が文句を言った。
「くそう。救助隊はまだか」岡田がぶつぶつと言った。
「吹雪が収まらないと救助隊はこない」
山の天気は予測をつけるのが難しい。この吹雪がいつまで続くかはわからない。あと一週間続くかもしれないし、一時間後には止んでいるかも知れない。
「ボクたちは死ぬんだ」小山が泣きごとを言った。「だから山なんか来たくなかったんだ。僕はそもそもインドア派なんだ」
「情けないことを言うな」俺は叱った。
しばし沈黙が落ちた。ストーブの中で薪が弾ける音がする。死へのカウントダウンの音だ。これが尽きたらその瞬間から小屋の中の温度は急速に下がるだろう。飢えて体力を失った今の俺たちではそれに耐えられない。
「何だか、変だぞ」俺は言った。
「何が?」と岡田。
「俺たちはいつから登山を始めている? それも冬山登山なんて」
「いつからって」そこまで言って岡田は絶句した。
「そういえば俺はなんで登山なんかしている。山なんて大嫌いなのに」
「ボクもです。本は読むけど、体を動かすのは苦手なんです。そのボクが登山なんかするわけがない」
それから小山は自分の装備を改めた。
「新品じゃない。使い古している。でも絶対にボクは登山なんかしない」
「俺もだ。だから何かが変だ。都会の居酒屋で飲むのが大好きで自堕落な俺たちが、こんな山の上にまでえっちらおっちらやって来るわけがない」
「じゃあどうして。それに俺は少しだけど以前に山に登ったような気がする」
「一つ合理的な説明があります」小山が言った。
「宇宙は無数の平行宇宙の重なりでできています」
それを聞いて俺たちは一瞬高い所から足を滑らせたような感じを覚えた。小山は一体なにを言おうとしている。
「そして科学者たちは人間の意識はそのそれぞれ異なる宇宙の中でどうやって自分の位置を認識しているかという問題に取り組んでいます」
「分からん。もっと易しく説明してくれ」
「つまり、二つの世界があるんです。一つはボクたちが街の居酒屋でお酒を飲んでいる世界。もう一つがここ、冬山登山で全員死にかけている世界。
そしてボクたちはその二つの世界の中間でどちらに所属するのか迷っているということです。居酒屋のボクたちは冬山の幻覚を見ていて、冬山のボクたちは居酒屋の幻覚を見ているんです」
「そんなことがあり得るのか?」
「分かりません。素粒子の世界の話ですから。でも二つの世界のエントロピー値が近接しているならば起こりえます。
もう一度言います。ボクたちは宇宙から二つの芝居の台本を渡されたのです。そのどちらかを演じなくてはいけません。冬山か居酒屋のどちらかの台本を」
「俺はここは嫌だ」思わず言葉が口から出た。「居酒屋がいい」
二人は同時に頷いた。
「どうすれば向こうに戻れる」
「分かりません。でもさっきボクが仮説を話したときに世界線シフトは始まりました。それの逆をやるんです」
「逆?」
「つまり今見ているこの世界の方が幻覚で、あの居心地の良い居酒屋の方が現実だと信じるんです。観察と認識こそが存在の本質なのです。
きっとボクたちが食べた山菜サラダの中に毒草が混入していて、それで今ボクたちは集団幻覚を見ているんです」
「危うい理論だな」と俺は言った。
「だが他に方法はない。そろそろ最後の薪が燃え尽きる。後はないぞ」岡田が指摘した。
「ああ、揚げたてのから揚げ」小山がつぶやきだした。「ネギをたっぷりかけたカツオのタタキを熱燗できゅっとやりたい」
一瞬小山がついに狂ったのかと思ったが、俺はその意味に気づいた。
岡田も気づいて、小山の後を続けた。
「じゅうじゅう音を立てる焼いたソーセージを口一杯に頬張るんだ。そして生ビールを大ジョッキでぐいっと」
「想像してみろ。熱い味噌ラーメンを。割りばしをパキっと割って、突っ込んでかき混ぜて啜りこむんだ」
言いながらも俺の口の中にツバが湧いてきた。心はあの居酒屋の心地よい奥座敷の光景へと飛ぶ。
外の風の音が和らいだような気がした。
「マスターが来たら鳥のつくね串を頼もう」
「あ、ボク、焼きおにぎりが食べたいです」
「そういえば、岡田。例のあの子はどうしている」
「それを言うな。振られたよ」
岡田の顔が赤くなった。髭についていた霜が消えかけている。
「部屋の中に積んだ本がまた増えてましてね、今はその本をベッドに仕立てているんです。女房が嫌な顔するんですが」と小山。「やっぱり一日中ゴロゴロしているのが一番」
「あれ? 小山の女房も本の虫だよな?」
「彼女は電子書籍派なんです。だから本を一切貯めない」
どこからか焼肉の匂いがしてきた。居酒屋のマスターが注文の料理を作っているのだろう。
「岡田、その醤油を取ってくれ」俺が頼むと岡田はテーブルの上の醤油のビンを寄越した。
「熱燗ばかりも舌に残るな。俺は次はキンキンに冷えたビールにするよ」
俺はそう言うと、店の呼び鈴を押した。
「お前たちは何を飲む?」
「飲めるものなら何でも」二人は一緒に答えた。
「帰って来た」小山がそういうと二度と放しはすまいとテーブルにしがみついた。
マヨネーズが小山の頭にはりついた。だがそれは凍ってはいなかった。
「終わったのか?」
「まだだと思います。でももうすぐ」小山が口を開き、後を濁した。
「もうすぐ?」
実に嫌々ながら小山は続けた。
「向こうのボクが死ぬ。そして貴方たちも」
俺はそれを想像した。凍死。薪の尽きたストーブを囲んで凍り付いた死体が三つ。やばい所だった。後少し小山が脱出方法を思いつくのが遅れたら。その光景は現実になっていた。
ああ、居酒屋よ。この湯気の上がる料理に囲まれた地上の楽園よ。
「一度そうなれば、二つの世界のエントロピーには違いが生じます。ボクたちの世界線と向こうの世界線の連結は解かれます」
うん、わからん。全然わからん。
だが俺たちは小山の助言に従い、お店の閉店まで居座って飲み続けた。閉店時間になるとマスターに頼み込み、もう二時間だけ特別に居させてもらった。
その頃にはあの寒さゆえの震えも止まり、氷が体につくことはなくなっていた。
もう大丈夫だという小山の言葉に俺たちはほっと胸を撫でおろした。
二度とこんな事態は起きない。向こう側の俺たちはみんな死んだからだ。世界を交換したくても死者相手ではどうしようもない。
俺たちはラストオーダーの生ビールのジョッキを掲げると、向こうの世界の俺たちの冥福を祈って献杯した。
短編ホラー:浸潤 のいげる @noigel
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