第13話
いつもの時間に起き、準備をして仕事に向かう。店長に改めてアルバイトを辞めることを伝えに。何度も通っている道なのに、急に全く知らない場所に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥った。それに続いてやってきたのは、胸をどす黒く染める虚無感。呼吸が苦しくなる。声が出なくなる。脳裏でごちゃまぜになるさまざまな景色、声、音。涙が溢れてきた。消えたい。全てを投げ出して消えたい。慶人に初めて声をかけられた、慶人に床から拾い上げられたあのときのように止めどない涙が溢れてきた。信号が霞む。オレンジの中央線が波打ち、道がぐにゃぐにゃと歪に見える。
ガードレールのない狭いカーブに差しかかったとき、私はここで死ぬのかもしれないと思った。それでいいと思った。高校時代の日々が走馬灯のように次々と浮かび上がっては消えていく。
あのとき慶人に声をかけられていなかったら、私はもうこの世にいなかったのかもしれない。あのまま不良品のまま製造されて、どこかでひとりでに機能を停止して、野垂れ死んでいたのかもしれない。私はその運命を完全に受け入れるべきだったのだ。これは運命に抗った罰。私はまた、一人になってしまった。
左手で両目を覆い、汗ばむ右手で思い切りハンドルを切った。瞬間、心臓が縮み上がり私は急ブレーキを踏んだ。前からも後ろからも長いクラクションが聞こえてきた。私はハンドルに額を押し付けながら声を上げて泣いた。クラクションよりも大きく、甲高く、出せる限りの声を上げた。このままこの声のように空気中に千切れて溶けてしまいたかった。
気が付くと私は夕陽を全身に浴びながら一軒の住宅の前に立ち尽くしていた。遠くの方で車の走り去る音が聞こえる。誰かの駆け足の音と笑い声が聞こえる。ひんやりとした風が頬を掠める。どこに車を停めたのか、どうやってここまで歩いてきたのかも、全く覚えていなかった。
目の前の一軒の住宅、その周りに並ぶ背の低い木々にぼんやりと目をやる。そのどれにも橙の花が咲いていて、嗅ぎ覚えのある香りを放っていた。私はしばらくそれらを眺め、そしてはっと思い出す。
そうか。私はこの金木犀の香りに誘われたのだ。この愛おしい香りに引き寄せられて、ここまで歩いてきたのだ。私はこの場所をよく知っている。何度も来たことがある。そして隣にはいつも、彼がいた。
「慶人」
ひどく懐かしく響くその名前を呟き、金木犀の木目に頬ずりをしながら香りを肺いっぱいに吸い込む。まるでいつか瞼の裏で咲き誇った金木犀が目の前に現れたようだった。私を叱りに? それとも哀れみに?
「来てくれると思ってた」
頭上から聞こえた声に顔を上げる。二階の窓から顔を出している彼を見た瞬間、最後に会った日の後ろ姿を思い出して、何も言葉を返せずうつむく。コンクリートの地面の細かい凹と凸を交互に睨んでいたとき、玄関のドアが開く音がして、黒いスキニーと使い古された淡い水色のシューズが視界に入ってきた。
「会いたかった。眞紀」
会いたかったなど、彼が本心で思うはずがない。彼は私を非難するべきなのだ。金木犀の花を乱暴にむしって私に投げつけるくらい、してもいいのだ。
「私は不良品だから」
口にした途端、視界が滲む。たとえベルトコンベアの流れから抜け出すことができても、不良品は不良品。それは変わらないのだ。慶人に顔を覗き込まれそうになって咄嗟に顔をそらすと、玄関ドアの横に、自転車が二台置かれているのが目に入った。見慣れたものと、真新しいもの。私の目線を追って振り向いた慶人がああ、と声を出して自転車に歩み寄り、見慣れた方を撫でながら微笑む。
「気付いた? 自転車新しいの買ったんだけどさ、乗り心地が全然だめなんだ。やっぱり俺には長年連れ添ったこいつが一番しっくりくるよ。どんなに古くなっても、何度でも直してみせる。だからもう一度後ろに乗らない? 眞紀」
金木犀の花が風にそよぐ。同じように慶人の髪が風にそよぐ。橙に咲き誇った笑顔がそこにはあって、私はもう涙を堪えることができなかった。
自転車の後ろに乗ってすぐ、慶人に家まで送ると言われて、車をどこかに停めたままであったことを思い出した。幸い鍵はポケットの中にあって、あとはここまでの道をたどればどこかで車を見つけられそうだった。
慶人に会って、改めて決意したこともあった。アサヤマは過去の私と同じ。私がそうであったように誰かの救いの手が必要なのだ。
「私、これからあの子に会いに行く」
自転車のヘッドライトの角度を調節していた慶人の手が止まり、彼が私の方を振り向く。
「せっかく離れられたのに」
「慶人が私にしてくれたように、私もあの子を救いたいの」
ぱっちりとした二重瞼の下の、ブラウンの両目が揺れる。何か言いたげにわずかに開かれた唇が細かく震える。私は彼の次の言葉を待ったけれど、その口は何も発することなく静かに閉じられた。慶人が前に向き直る。
「分かった。じゃあ俺があの子のところに送っていくよ」
ゆっくりと自転車を漕ぎはじめた慶人の、その引き締まったお腹に両腕を回す。大きな背中に頬をつけて目を閉じると眠気がやってきて、抗う間もなく意識が飲み込まれていった。
いつか、同じ温もりに包まれたことがあった。両腕でそっと抱き締め返したくなるほど穏やかな記憶、それをさかのぼるたびに実感した。彼といれば、彼の漕ぐ自転車の後ろに乗っていれば、決して道を外れることはない。どこまでも、どこまでも、進んでいけるのだと。
【続】
キンモクセイ 篠哉 @shinoya21
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