第12話

 たくさんの人に声をかけられる。誰かに必要とされる。私はそれを、ずっと渇望していた。

 アルバイトを始めたのはそれが理由だった。接客は苦手だったけれど、誰かが自分を見てくれるのなら、誰かが自分を必要としてくれるのなら、それでいいと思った。でもそれももうどうでもよくなった。昨日から全身の力が吸い取られたように脱力感しかなくて、できることなら今すぐベッドに沈み込んでそのまましばらく眠ってしまいたかった。

「店長。バイト、やめさせて下さい」

 仕事終わり、事務所の椅子に座っていた店長にそう切り出すと、店長は食い入るように見ていたパソコンの画面から私に目線を移し、勢いよく椅子から立ち上がった。

「おいおい、突然どうしたんだ。何かあったのか」

「別に何もないです」

「困る。近い内にお前をバイトリーダーにしようと思ってるんだ。仕事もきちんと真面目にこなしてるし、お客さんからの評価も高い。時給も上げるから考え直してくれ」

「それは私も困ります。私はここに入ったのは後の方ですし、その役目はアルバイト暦が一番長い亜里沙のはずです」

 そう返すと店長は深い溜め息をついて再び椅子に沈み込むように座った。

「実はここのところネットの口コミがかなり悪いんだ。『料理に髪の毛が入っていて厨房を覗き込んだら金髪の女性店員が長い髪を束ねもせずに料理を作っていた』とか『注文をしようと金髪の若い女性を呼んだら舌打ちされた』とかな。誰なのかはわかるだろ、亜里沙のことだ。うちは自営業だからそういうのは本当に困るんだ。でも何度言ってもあいつは直さないんだよな。高校生のときから働いてもらっていて仕事は早いし、他のおばさんたちがパートだからやめさせるわけにもいかないし……最近入ってきてくれた新人が育ってくれさえすれば安心なんだ。だからお前にバイトリーダーとして新人育成をしてほしいと思ったんだ」

「でも……」

「とりあえず、今すぐに決断はしないで少し考えてくれないか」

 店長との話を終えて休憩室のドアに手をかけたとき、中から亜里沙の声が聞こえた。

「私前から思ってたんだよね」

 その低めの声色で、また彼女が誰かの悪口を言っているのだとすぐにわかった。悪口を聞かされるのにうんざりしていた私はこういうときいつもなるべく亜里沙に会わないようにトイレに入って時間を稼ぐ。今回もそうしようと身体を翻そうとした瞬間、耳に入ってしまった彼女の言葉。

「眞紀ってさ、絶対私たちのこと見下してるよね」

 うなじから背中にかけて突然冷水を流し込まれたような感覚に足がすくむ。今、確かに亜里沙の口から飛び出したのは紛れもなく私の名前だった。

「あの子、バイトリーダー候補になったらしいよ。あたしよりもずっと後に入ってきたくせに。新しく入ってきた子に手取り足取り仕事を教えてるのはあたし。誰かの急な休みを穴埋めしてるのもあたし。それなのにおかしいと思わない?」

 下腹部から込み上げてきた感情をぐっと抑える。一体どの口が言っているのか。亜里沙は仕事のことで質問をしてきた新人に舌打ちをして「あそこで暇そうにしてるおばさんに聞けば」と黒崎さんを顎で指したり、パートの人が急に出勤できなくなったときに私に厨房の仕事を押し付けてきたこともあった。

「しかもあの子最近定時で真っ先に帰ってるでしょ。あれね、男に会いに行ってるのよ。あたしたちが残った仕事を残業してやってるのにそれを何とも思わずにのうのうとデートするなんて……クビになるか仕事をやめればいいのよ、浅川みたいに」

 目の前のドアを開けてその先にいる憎い存在を殴り飛ばして言いたいことを全てぶちまけてしまえたら、その勢いでアルバイトをやめてしまえたら、どんなにいいだろう。私にはそんな勇気も覚悟もなかった。でもこのまま彼女の言葉を聞き続けたら頭がおかしくなって本当に手を出してしまいそうで、私は足音を立てずにゆっくりと休憩室から遠ざかった。幸い車の鍵はポケットに入れてあった。財布も車の収納ポケットにしまってある。このまままっすぐ駐車場に向かおう。そう決めて日暮れ前の薄暗闇の中に飛び出した。

 誰の目にも触れずにこっそり駐車場まで来たせいか両手は震えていて、車の前に着いてポケットの鍵を取り出そうとして手が滑った。駐車場の白線の上に落ちた鍵を拾おうと屈んだとき、どこからか足音が聞こえた。反射的に身体を固め息を潜める。だんだんと近付いてくるその音の主は、やがて私の目の前で止まった。

「会いに来ちゃいました。眞紀さん」

 安堵に入り混じる落胆。私は立ち上がって車の鍵を開けた。窓ガラスに映る、私の顔を覗き込もうとしているアサヤマ。

「どうかしたんですか」

「一人にしてほしいの」

 彼女の声に被せるように私ははっきりと言った。ひんやりとした静寂の中で虫の甲高い鳴き声だけが響き渡る。

「もしかして慶人さんのことで怒っているんですか。私が勝手に連絡をしたから」

 私は何も答えなかった。そんなことはもはやどうでもよかった。ローファーの足音が真横まで近付く。よく見知った制服のスカートが視界の隅でひらひらと揺れた。

「眞紀さん」

「一人にしてってばッ」

 何もかもが面倒で、目障りで、耳障りで、うんざり。日常の一切を考えたくない。とにかく一人になりたい。でも内心を口にするのは踏みとどまった。慶人の顔が脳裏を掠めた。

「私は眞紀さんがいないと生きる理由がないんです。だから眞紀さんが私の前からいなくなるなら、私は死にます。元々、あのサイトで誰からもメッセージが来なかったら消えるつもりでしたし」

「死ねたら本当に楽? もう何も悩まなくて済むの?」

「それは、分かりません。でも生きているよりはずっと楽だと思うんです」

「じゃあ勝手にすれば」

 アサヤマの表情を確かめることはできなかったけれど、彼女が唾を飲み込んだ音は聞こえてきた。

「眞紀さんと出会うちょっと前、現代文の授業に出てきた小説に『他者を常に馬鹿にしている社交的な人気者にとっては、他者を決して馬鹿にしたりしない内向的な臆病者はただ蜃気楼のように現れては消えるだけの存在なのだ』っていう一文がありました。私、それを読んだ瞬間自分が全否定されているような気分になって。消えたらもう現れなくていい。消えたままの方がいいって。だけど、眞紀さんに出会ってからはそんな一文は頭の片隅に追いやれるようになって、ふいに思い出したとしても平気でした」

 その一文は今でも頭の隅に張り付いていた。かつてはアサヤマと同じく、ふいに思い出しては苦しんでいた。今、一番聞きたくない言葉だ。

「もっと早く眞紀さんと出会いたかった。眞紀さんがあのサイトを毎日のように利用していたときに……今の私と同じように、生きることに悩んでいたときに」

 私は車に乗り込みエンジンをかけた。何も言わず何もせずその場に立ち尽くすアサヤマを見ていられなくて思い切りアクセルを踏み込み駐車場を飛び出した。家に着くまでの間、私はなるべく何も考えないようにした。アサヤマの表情も、言葉も、足音も、何もかも。深く考えてしまったら、脳細胞の全てを支配されて自己嫌悪の波に全身を飲み込まれてしまうような気がした。

 家に着くとまっすぐ部屋に入り布団に潜った。呼びに来た母を追い出し、耳を塞いで全ての音をシャットアウトする。やがて家族全員が寝静まったころ、静かに部屋を出た。

 向かったのは洗面台の鏡の前。そこに映っている姿はどこかよそよそしくて、まるで身体の中から分厚い何かがごっそりと抜け落ちてしまったかのようだった。きっと抜け落ちたのはもう一人の自分。そう思ってからすぐに腹の奥から込み上げた笑い。何を言っているんだろう。何を考えていたんだろう。もう一人の自分なんてどこにもいない。私は右手をきつく握りしめ鏡を殴った。何度も何度も骨を打ち付けた。そのたびに鈍い音が響き、映っている姿がさっきよりもさらによそよそしく思えていった。手の甲が擦りむけ焼けるような痛みに耐えかねてその場にしゃがみ込む。もう一人の自分なんてどこにもいない。最初からいなかったんだ。まるで呪文のように頭の中を繰り返し駆け巡る言葉。やがて意識が眠りに飲み込まれるまで、私は手の甲の痛みを唇を噛み締めながらじっと我慢していた。


【続】

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