第11話
帰りが深夜になり、家に泊めてほしいと言ってきたアサヤマをこっそり部屋に泊め、翌朝両親が出かけたタイミングを見計らって家まで送り届けた。その足でアルバイトに向かう。途中で慶人のことを思い出して、アサヤマから返してもらった携帯電話をチェックしたけれど、彼からの連絡はなかった。
「樋山さん」
夕方、お客さんが帰ったテーブルから下げてきた皿を洗い場の台に乗せかえていたとき、黒崎さんが駆け寄ってきた。
「あそこにいるお客さんにあなたのこと聞かれたんだけど。今日出勤しているかって」
窓際の二人席に座ってる男の子、と私に手短に伝えると黒崎さんはすぐに厨房に入っていった。極稀にだけれど、私的な理由でこの店に通い、あの手この手で連絡先を聞き出そうとしてくる厄介な客が現れる。店長に伝えようか迷ったけれど、今後また現れたときのために姿だけでも確認しておこうと思い、簡単に手を洗いエプロンで水気を拭き取ってから黒崎さんに言われた席に向かった。口元に笑みを浮かべながらその背中に近付いたそのとき、彼が振り向いた。あ、と思わず声が漏れる。金木犀を薄めたような香りが鼻を掠めた。
「おっは。眞紀」
彼は微笑みを浮かべながらそう言った。毎朝駅の出口で私にしていた挨拶と同じように。どうしてここに、頭に浮かんだ疑問は声にならなかった。
「いきなりごめん。電話もメールも返ってこないから会いに来るしかないと思って。それに、聞きたいこともあったから」
私は周りに他のお客さんがいないことを確認してからもう一度慶人を見やった。
「阿佐山って子、眞紀の知り合い?」
慶人の口からアサヤマの名前が出てくるとは思ってもいなくて私はすぐに言葉を返せなかった。彼が言葉を続ける。
「一週間くらい前からだったかな、知らない番号から電話が来てさ。何回もかかってくるから出てみたんだ。そうしたら阿佐山って名乗る女の子が眞紀の名前を出してきて」
ふいに厨房から視線を感じて、私はメニュー表をテーブルに広げ説明をしているふりをしながら慶人の話を聞いた。
「眞紀が俺の電話番号をその子に教えたの?」
「私は何も」
そう答えてから思い出した。慶人と電話をしている途中で携帯をアサヤマに取られたあのとき、彼女はその後もしばらく私の携帯を持ったままだった。走行中助手席でずっと俯いていた彼女は着信履歴を見ていたのかもしれない。
「あの子、何て言ってたの」
「俺と眞紀の関係を聞いてきた。高校からの友だちだって伝えたんだけどなぜか信じてくれなくて。あんまりしつこいから付き合ってるって言っちゃったよ。なああの子、眞紀の知り合いなんだよな? だったら言ってくれないかな、しつこく電話してくるのはやめてほしいって」
慶人が携帯のディスプレイを私に向ける。着信履歴には一週間前から全て同じ番号からの一分おきの着信。最新のものはつい数分前のものだった。
私が口を開こうとしたそのとき、背後から誰かが近付いてくるのを感じた。振り返る。明らかに作り物の不自然な笑顔がそこにあった。
「お客様。ご注文の方は、お決まりですかあ」
亜里沙は慶人に舐めるような目線を送りながら言葉を続けた。
「眞紀から聞いてますよお、眞紀の彼氏さんなんですよね。思ってた通りかっこいいなあ。店長に言ってサービスしますよう。こちらがおすすめのメニューなんですけどお……」
「ちょっと亜里沙、何デタラメなこと言ってるの」
「デタラメって何よ。だって今話してたじゃん、付き合ってるって」
「いやだからそれは」
説明しようとしたけれど、うんざりしてすぐにやめた。
「ああそれじゃすみません、コーヒーだけもらえますか」
亜里沙の顔を覗き込み、笑顔でそう言った慶人。私は二人を交互に睨み付け、コーヒーを作りに厨房に入った。
私の仕事が終わるまで待っていると言って店を出て行った慶人。わざとゆっくり店じまいをしていつもの半分以下のスピードで駐車場まで歩く。もう外も暗くなったし諦めて帰ったことを祈ったけれど、彼は私の車の隣の駐車スペースの縁石に座っていた。
「お疲れ」
差し出された缶のナタデココジュースを、慶人に急かされしぶしぶ受け取る。彼が口を開いた。
「さっきまた電話が来たよ。なあ眞紀、あの子と関わるのはもうやめた方がいいんじゃないかな。明らかに普通じゃないよ。『眞紀さんと私は同じ運命で繋がっているから間に入らないで下さい』だってさ。何のことかさっぱり」
私は慶人の言葉を無視した。上手く生きてこられた人にはこの気持ちは絶対にわからない。周りに馴染めず死ぬことばかりを考える毎日がどんなに苦しいかなんてわかるはずがない。苦しみを発信することが普通ではないというのなら、私は普通じゃなくていい。異常でいい。
「大体、何で俺が眞紀と会うのを邪魔するわけ?」
「あの子は寂しいんだよ。だから私がそばにいてあげるの」
「俺だって眞紀を支えたくて……」
「私と慶人は別に付き合ってるわけじゃないじゃん」
思わず声に力が入った。最近の慶人の態度に、私は苛立っていた。どうしてそんなに私のことをがんじがらめにしてくるのか。それではただの束縛ではないか。いい加減にしてほしい。私の自由を返してほしい。溢れだす言葉は止まらなかった。私は次から次へと一滴残らず溜まっていた言葉を目の前の慶人に浴びせかけた。彼の顔色が蒼白になって唇が震えていることに気が付いたのは、浮かんだ言葉を全て吐き終えて口を閉じてからだった。
「……分かったよ」
それは春先に降る雪のような声だった。湿り気と重さを帯び、陽光でゆっくりとその身が溶かされるのを待っている雪のような、そんな声だった。
私をまっすぐ見つめていた目を伏せ、それ以上は何も言わず背を向けて歩きだした慶人。その姿を目で追いながら気付く。彼がいつもどこに行くときも必ず乗っていた自転車がなかった。私は遠ざかっていく彼の背中から目が離せなかった。やがて雨が降ってきて全身がずっしりと重くなる。
道路脇にぽつんとあるゴミ捨て場。収集日違いの貼り紙が貼られた袋が緑のネットの上に雑に置かれ、カラスに荒らされたのか道路にゴミが散乱していた。そこで立ち止まった慶人がおもむろに背負っていたリュックから何かを取り出し、しばらく見つめてから袋の中にそれを入れたのが見えた。雨水が目に入って視界が阻まれ、それが何なのかよく見えなかった。自転車の鍵だろうか。それとも愛読書だろうか。そのどちらにも見えたし、どちらでもないような気もした。
慶人の姿が完全に見えなくなってから、私は両足を引きずるように歩きかなりの時間をかけてゴミ捨て場の前に辿り着いた。袋の口からはみ出していたのは、くしゃくしゃに丸められた紙束だった。どれもたくさんの文字が書かれていたけれど、雨水で文字が滲んでほとんど読めなかった。一枚だけ拾い上げると、断片的に読み取れた言葉が目に入る。
『俺は金木犀そのものになりたい、君を恍惚に染める金木犀に』
私はその一文を、無意識に声に出して読んでいた。声にした途端、両足ががくがくと震えだして立っていられなくなった。慶人に浴びせた自分の言葉のひとつひとつを思い出す。そして愕然とする。私は彼に、何とひどいことを言ってしまったのだろう。
かつて自転車の後ろで必死にしがみついた広い背中。その温もりも、金木犀を薄めたようなその匂いも、やがて泥のような過去に混ざり存在さえも曖昧なものになっていくような気がした。
さらに強くなった雨が全身を鋭く啄いて、持っていた紙がアスファルトの地面に落ちた。それを拾おうとしたけれど身体がアスファルトよりもさらく固くなったようにぴくりとも動かない。その場にただ呆然と立ち尽くしたまま、毛先から滴った雨水が目に入り、頬を伝って口元に流れ込んだ。
【続】
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