第10話

 三日間がこんなにも長く、待ち遠しいと思ったのは生まれて初めてだった。

 夜、布団の中に潜ってはみたものの全く寝付けず夜中から準備を始めた。まるで旅行の前日のように胸が躍っている。アサヤマは今ごろ夢の中だろうか、それとも私と同じく眠れずに、何度も寝返りを打っているだろうか。着ていく服を決め、バッグと車のキーを服と一緒にベッドに置いた。明け方になってようやく眠気がやってきて、私は机に突っ伏して少しだけ眠ることにした。

 ふわふわとした夢心地から引き戻したのは、すぐそばに置いていた携帯電話の大きな着信音。飛び起きてすぐにチェックする。着信が三件とメールが一件。どれも慶人からのものだった。メールは『今日店来る?』とシンプルな一言だったけれど、返信文を打つ時間すらもどかしくメールに気付かなかったと強引に自分に言い聞かせ、返信をしなかった。

 アサヤマとの集合場所は、彼女と初めて会った公園に決めた。約束の時間より三十分早く着いたけれど、そこには既にアサヤマの姿があった。車を降りて彼女に歩み寄る。その片手にはキャリーバッグがしっかりと握られていた。

「どうしたのその大荷物。旅行に行くみたい」

 私が笑いながらそう言うと、

「家出してきちゃいました」

 ため息混じりの、でもはっきりとした声でアサヤマは答えた。その虚ろな目に、彼女が冗談を言っているようには思えなかった。

 後部座席にキャリーバッグを乗せるのを手伝い、それからアサヤマを助手席に促す。彼女はまるで初めてパトカーに乗せられた迷子のように、私が運転席に乗り込むまでずっと、私を目で追っていた。

「どこに行きますか」

 無垢な迷子が私に問う。

「行ったことのないところに」

 私はそう答えて車を発進させた。行き先は考えていなかった。ただ目の前に道がある限り、自分の意思が前に進むことを望む限り、私は力強くアクセルを踏み込んだ。

「高校にはもう行かないつもりなの?」

「もうやめようと思ってます。高校には、私を救ってくれる人は一人もいないから」

「私もバイトやめようかな」

「バイトやめたらずっと私のそばにいてくれますか?」

「いや、冗談。本当にやめようとは考えてないよ」

 アサヤマは何も言わなかった。ただまっすぐ、前だけを見つめていた。

 二車線の大きな道をただひたすらに進んでいくと、あっという間に見たことのない景色に囲まれた。ショッピングモールを通り過ぎ、ガソリンスタンドを通り過ぎるとさっきとは打って変わり山に挟まれたやや細い道に入った。道路も傾斜になり、すれ違う車も少なくなった。生い茂って道路の端にはみ出している蔓がときどきサイドミラーに当たって乾いた音を立てる。石でできた短い橋を抜けると土砂崩れ注意の古びた看板。すれ違う車をついに一台も見なくなった。視界の隅で隣のアサヤマがこちらを見たのがわかった。何か言いたげに私の顔を覗き込もうとしている。私はさらに強くアクセルを踏み込む。この薄暗い道を抜けた先に何があるのか、この目で確かめたかった。

 急なカーブに差しかかったとき、崖下に見えた景色に私は目を奪われた。

「湖だ」

 少し先に路肩のスペースを見つけ、車を停める。アサヤマと歩いてカーブのガードレールの前に立つ。

 それは海と見間違えるほどの広大な湖だった。緩やかな風にその身を震わせる水面、そこに湖を取り囲む木々と雲ひとつない青空が鮮明に映っていてまるで鏡のようだった。

「綺麗……」

 横に立つアサヤマが恍惚とした表情で呟いた。その目が潤んでいるように見えるのは、私自身も感極まっているからなのかもしれない。

「眞紀さん。手、繋いでもいいですか」

 吹いてくる風が少し肌寒い。私は左手をアサヤマに差し出した。彼女の右手が優しく触れる。手のひら同士が重なり、指も吸い付くように絡み合う。前に握りしめたときよりもずっと温かいその手に、私は密かに胸を撫で下ろした。

「私、前に考えたことがあるんです。ものすごく高いところから、ものすごく綺麗な景色を眺めながら死ねたら、どんなにいいだろうって。同じこと考える人ってたくさんいますけど、ほとんどの人が自分一人で死んでいくじゃないですか。でも私、臆病だから一人で死ぬ勇気がないんです。だから、死ぬときは苦しみを共有できる人と一緒に死にたい」

 本当に不思議だった。生まれも育ちも別々なのに、アサヤマと同じことを私も考えたことがあって、まるでこの世に生まれる前から同じ運命を背負っていたかのように、目には見えないけれど確かな繋がりを感じる。私は彼女の横顔を見つめながら、握りしめた手にほんの少しだけ力を入れた。記憶の湖が風に揺れる。そこに映った朧気な景色。

 彼女と、見たい景色がある。

 最後に私は地元に戻り、家から十分ほどの公園の駐車場に車を停めた。大きな川の上に架けられた吊り橋を渡った先には舗装された山道があって、一番奥の急な階段を上って行くと『願いの鐘』と呼ばれる釣鐘がある。小学生のころよく休日に一人でここまで歩いて来たことがあったけれど、あまりにも急な階段の手前でどうしても躊躇ってしまいその先に上ることができなかった。それでも、何度も階段の上からの景色を想像した。そこにはきっと言葉では言い表せないものが広がっている。いつか必ずその景色を両目にはっきりと焼き付けよう。そして願いの鐘を鳴らそう。そう決めていたのに、いつの間にかすっかり忘れてしまっていた。

「ここまで来れば滅多に人は来ないよ。今の時期は虫とか蛇とかが多いから観光客もあんまり奥までは来ないの」

 返答がないと思い振り返ると、アサヤマは少し離れたところで何かを眺めていた。目線の先にはついさっき渡ってきた吊り橋。生い茂った木々の隙間から見える橋にはさっきよりもたくさんの人がいて、景色をカメラに収めたり集合写真を撮ったり、歩くたびわずかに揺れる橋に高い声で叫びながらはしゃいでいた。

「人って、どうして群れたがるんでしょうね」

 ぽつりと呟いたアサヤマの声が、風を受けた木々のせせらぎにかき消されそうになって、私は駆け足で彼女に近付いた。

「きっと、人間は誰かと一緒にいないと生きていけないんだよ。自分は独りなんだってことを実感してしまうのが怖いんだよ。だから世の中もそういう仕組みになっちゃったんだ」

「じゃあ、一人ぼっちの人は死んでるのと同じなんですね」

 力のこもったアサヤマの声に一瞬たじろいだ。そうだ。彼女と同じ年のころ、私は確かに死んでいた。周りと群れることができなくて、逃げ出す勇気もなくて、あのときの私は確かに死んでいたのだ。

「でも、生き返ることはできる」

 そう言ったあと私を見て柔らかく微笑み、歩き出したアサヤマ。願いの鐘に続く階段はもう目と鼻の先だった。両足は躊躇うことなく進む。幼い私がすぐ後ろで不安そうに私を見上げる。私は小さく頷いて、心の中で手を差し伸べる。幼い私は安心したように微笑んで私の手を取った。

 石で作られたややいびつな狭い階段を一列に並んで上り、俯いたまま釣鐘の前に立つ。顔を上げた瞬間、足が震えた。幼いころ夢見ていた景色が、目の前にある。

 立ち並ぶ数えきれないほどの住宅、繋がって道路を走る車、ところどころに点在し忙しなく動いている米粒のような人、人、人。それらを優しく包み込む生温いそよ風。その風すらも見下ろす大いなる青空。こんなにも広い街で、こんなにもたくさんのものたちが共存している。そこに私もいる。生まれてからずっと住んでいたはずなのに、この街がこんなに生き生きとしているなんて微塵も思っていなかった。隣のアサヤマも目を奪われたようにただじっと景色を眺めていた。

 それからどちらからともなく釣鐘を見やり、小刻みに震える両手で縄を持ち、同時に揺らした。その一連の動作の中でお互い一言も言葉を発しなかったけれど、自然と全てのタイミングがぴったりだった。

 街中に響き渡る鐘の音を聴いた瞬間、私は泣きそうになった。どうしてなのかは分からない。一人で来ていたころどうしても鳴らすことができなかった鐘をようやく鳴らせた念願か、それとも、響いたのがまるで静かな夕暮れどきに何となく蹴った空き缶のようにあまりにも儚い音色だったからだろうか。

「この音色みたいに、この世界に自然に溶け込むことができたらどんなに楽だったんでしょうね」

 アサヤマの言葉に私はすぐに答えを見つけることができた。この世界に溶け込むどころか声すら出せなかった自分自身。鐘とは違いいくらでも自分の意志を叫ぶことができるのにそれが叶わなかった自分自身。アサヤマを見ると、彼女も同じく目に涙を浮かべていた。

「私は眞紀さんと出会って生き返ることができました」

 階段を下りて歩き出したとき、アサヤマがぽつりと言った。

「だから、眞紀さんがいなくなったら私はまた死にます。今度こそ、本当に」

 ため息混じりの、でもはっきりとした声。そこで私は悟った。これが彼女の決意の声なのだと。決して揺らぐことのない、底知れぬ深さを湛えた彼女の決意の声なのだと。

 駐車場に戻って車のエンジンをかけたのと同時にポケットの中の携帯が鳴った。慶人からだった。

『やっと出てくれた。眞紀、最近忙しいの? 全然店にも来てくれないし』

「まあ、ちょっとね。でも店には行く――」

 手でしっかり持っていたはずの携帯が突然吹き飛んだ。思わずアサヤマの方を見ると、携帯は彼女の手の中にあった。

「日が暮れちゃいますから。早く出発しましょう」

 もうとっくに鳴り止んだはずの鐘の音色が、もう一度耳に響いたような気がした。



【続】

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