第9話

 翌日、仕事終わりに慶人に会いに行こうと思っていたけれど、アサヤマから『学校が終わったら少しだけでいいので会いたいです』とメールが来ていて、予定を変えてアサヤマと会うことにした。仕事を終えてからまっすぐ高校まで迎えに行き、校門で待っていた彼女を助手席に乗せる。彼女がメールで指定した高校は、驚くべきことに私の出身校だった。

「まさか眞紀さんが高校の先輩だったなんて。私たちが出会ったのはやっぱり運命なんですね」

「本当にびっくり。しかも先週ここに来たばかりなのに、また来るなんてね」

「先週? 誰と来たんですか」

「高校の同級生」

 そう答えて車を発進させる。信号がちょうど赤に変わり停車すると隣のアサヤマがぽつりと呟いた。

「眞紀さんと同じ年に生まれていれば、二人で気持ちを共有できたのに」

 アサヤマと学校で出会えていたら、と想像してみる。無機質な団欒の中に唯一の光があったなら、私は迷わず手を伸ばしていただろう。二人なら立ち向かえたかもしれない。あのクラスで屍のようになって無駄な時間を過ごすこともなかったかもしれない。躊躇いなくベルトコンベアから飛び降り、手を繋いで明るい空の下に出られたかもしれない。

 信号が青になり、アクセルを少しずつ踏み込む。少し遠くに二股道が見えてきて、私はアサヤマに尋ねた。

「家どっちの方向?」

 返事はない。「どうかしたの」と横目でアサヤマを見ると、彼女はスクールバッグを強く握りしめ俯いていた。表情は顎の辺りまで伸びた前髪で読み取れない。

「……帰りたくない」

 聞き逃してしまいそうなほどか細い声。二股道がだんだんと近付いてくる。私はもう一度家の方向を尋ねた。右、という彼女の言葉を聞いてから加速して左に曲がる。視界の隅でアサヤマがぱっと顔を上げたのがわかった。

 そのまましばらく道なりに進んでいると途中でカラオケボックスを見つけ、ガラガラの駐車場に車を停めた。指定された部屋のソファに腰を下ろしてからお互いしばらく無言でぼうっとしていたけれど、やがてアサヤマから口を開いた。

「ごめんなさい、わがまま言って。眞紀さんの帰りも遅くなっちゃうのに……」

「私もあまり家には帰りたくないから」

 それだけのやりとりをして、またお互いに無言に戻る。壁に取り付けられた大きな画面から小さく最新の音楽や声が聞こえてくるだけの空間。でも不思議と息苦しくはなくて、むしろ心地よさの方が大きかった。会う前はあんなにも躊躇っていたことがまるで嘘のように。

 そのまま私たちはカラオケボックスで二時間を過ごし、ようやく家に帰る決心のついたアサヤマを送り届けるために車を発進させた。

「眞紀さん。今日はありがとうございました。私のわがままに付き合っていただいて」

「お礼を言われるほどのことはしていないよ。カラオケボックスでぼうっとしただけだし」

「私、眞紀さんと二人で過ごすのが、今までで一番楽しいことかもしれないです」

「そんな大袈裟な」

「何にもしなくてもいいんです。ただ眞紀さんとそこにいるだけで、やっと、自分の居場所を見つけられたような……ここにいてもいいんだよって言ってもらえたような気がして」

 尻下がりの言葉に隣をちらと見ると、アサヤマが涙ぐんでいた。私は今すぐに彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。その華奢な身体を温めてやりたい。その涙を一滴残らず拭ってやりたい。それが私の使命であるような気がした。でもアサヤマの一言で私の衝動は急速に萎んだ。

「あ。家、そこなので……今日は本当にありがとうございました」

 車を彼女の家の前で停めると、衝動も同じように完全に止まってしまった。冷静に考えてみれば私には彼女を抱きしめる勇気などなかった。それが使命であるなんて、彼女からしてみればただ迷惑でしかないかもしれないのに。

 ハンドルを見つめたまま固まっていると、アサヤマが不思議そうに顔を覗き込んできた。私ははっとして慌ててドアのロックを解除する。彼女は何か言いたげな様子だったけれど、もう一度「ありがとうございました」と言ってドアを開け外に出た。

「眞紀さん」

 ドアを閉める前に呼ばれて、顔を向ける。

「また、会ってくれますか」

「もちろん」 

 家に着いたときは暗かったアサヤマの顔が、ぱっと明るくなる。

「それでは、またメールします」

 軽く頭を下げてドアを閉めようとするアサヤマの、その動きがやたらとスローモーションに見える。また明日から彼女とはメール上のみでの会話をする。次に会う日も、メールという電子文面での約束。あまりに脆く冷たい、無表情な約束。私はときどき不安になる。温もりのない繋がりは、何かの拍子にあっけなく断ち切れてしまうのではないかと。そう思った途端、私は助手席の椅子に手をついて前のめりでアサヤマを呼び止めていた。

「次に会う日、今決めよう。メールじゃなくて口約束がいい」

 アサヤマはまるで私の言葉を待っていたかのように、笑みを浮かべて再び助手席に乗り込んだ。お互いの予定を確認し、三日後の金曜日に会う約束をした。

 アサヤマの家の前を出発してから、三日後が楽しみで仕方がなくなった。欠けた自分の半身と合わさって一つの完成形になるように、隣にいないともどかしさが胸を打つ。私が『未来』であるならば彼女は『過去』。その二つが合わさって初めて『現在』を生きていると実感できるのだ。

 未来と過去はすれ違う。私が抜け出すことに成功した牢獄で、アサヤマは今まさに出口が見つからずにもがいている。目の前に、進む道に迷い惑う存在がいたなら、先に出口を見つけた者が明るい世界へ導けばいいのだ。



【続】

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