第8話

 私がアサヤマと会ったのはそれから一週間後のことだった。

 集合場所に指定した駅近くの公園で、滑り台の前に立っているその姿を目にしたとき、はじめ私は人違いかと思った。偶然同じ場所に集合する約束をしたカップルの片割れだと思った。だから私は滑り台の前に着くと、彼女からやや距離を置いて立ち、携帯電話を取り出してアサヤマにメールを作成した。

『着きました。

 滑り台の階段の方に立ってます』

 送信しようとしてふいに視線を感じた。顔を上げる。数メートル先に立つ女性が、こちらを見ていた。ベージュのコートに膝上五センチほどの紺のスカート、そこから伸びる足は驚くほど細く本当に血が通っているのかと心配になるほど白かった。まっすぐ胸の辺りまで伸びた髪はほとんど黒に近い焦げ茶で、ほんのりと染めているのか太陽の光のせいでそう見えるだけなのかわからなかったけれど、やや遠くからでもその毛質のよさは見て取れた。きっと彼女のことは誰が見ても魅力的に映るだろうと思った。

目線をだんだんと上げていくとやがてばっちりと目が合った。その瞬間、私は彼女の目が、真夜中にひっそりと佇む鏡のようだと思った。そこに何かを映してはいるけれど、それを自身は自覚していない。そこに佇む理由すらもわからない。誰も踏み入れたことのない薄暗くてひんやりとした鍾乳洞の迷路に迷い込んでしまったような感覚に陥った。

「サキ、さん?」

 私が声を出せずにいると、彼女が先に口を開いた。

「サキさんですよね?」

「あ……はい」

「私、アサヤマです」

 彼女の自己紹介を聞いてから少し遅れて、頭の中に様々な疑問が押し寄せてきた。なぜ見ず知らずのはずのこの人が私のハンドルネームを知っているのか。なぜ私は見ず知らずのこの人に返事をしてしまったのか。なぜ見ず知らずのこの人が私に自己紹介をしてきたのか。それもアサヤマ? 彼女が? アサヤマは浅川大和ではなかったのか。私がメールを通してずっと会話をしていたのは、大きな体躯に似合わずきらきらとした目をしたあの男ではなかったのか。

「あの」

 アサヤマを名乗る女性の控えめな声で私ははっとして我に返った。

「ごめんなさい、驚きましたよね」

「え?」

「プロフィール、嘘ばっかりだったから。男っていうのも、二十六歳っていうのも。本当のことを書くと、変な目的の男の人からしか書き込みが来ないから」

 視界の隅で、公園に一組の親子が入ってきたのが見えた。まだおぼつかない歩き方の男の子が私たちの立っている滑り台をじっと見ていたけれど、すぐに母親が何かを言いながら男の子の肩を抱いて反対側のブランコの方に歩いていった。その姿を目で追っているうちに少しずつ頭の整理がついてきて、私はようやく、彼女がアサヤマであることを少し受け入れた。受け入れた途端、新たな緊張が私の中に生まれた。知り合いだと思って話しかけたら全くの別人だったときのようにすぐに言葉を紡げなかった。

「もしかして、怒っていますか」

「ううん。びっくりしただけ」

「よかった。私、本名は阿佐山莉緒って言います。それと本当は十七歳です。サキさんは本名ですか?」

「私は眞紀」

「マキ、さん」

 確かめるように私の名前を繰り返したアサヤマ。私は彼女が積極的にしゃべってくれることに心底感謝した。そうでなければ、私はもうとっくにこの場から逃げ出していただろう。

 それから私たちは近くのファミレスに場所を移した。昼の時間帯にしては座席は空いていて、アサヤマが店員に窓際の席を希望して角の二人席に腰を下ろした。おしぼりタオルと水が置かれてからメニューを渡そうと顔を上げたとき、彼女がじっと私を見ていることに気が付いた。私は彼女とは対称的に目を見返すことができなくて、意味のない微笑みを口元に浮かべるだけで精一杯だった。

「どうかした?」

「眞紀さんを見ていると、不思議な気持ちになるんです」

「どうして?」

「もう一人の自分を見ているようで」

 アサヤマはスクールバッグから折りたたみ式の鏡を取り出した。鏡面を見ると細かくヒビが入っていて、それは鏡としての機能を完全に失っていた。

「何で割れた鏡なんて持ってるの」

「私、鏡に自分の姿が映ると衝動的にすぐ割っちゃうんです。でも親が鏡はいつでも持ち歩きなさいってうるさくてバッグの中まで確認してくるから、割ってもこのままこっそり持ち歩いてるんです。捨てちゃうとバレちゃいますけど、こうして折りたたんで入れておけば上手く誤魔化せるから」

「自分が嫌いなの?」

「自分が嫌いというか……自分が生きていることを実感してしまうのが嫌なんです」

 また「どうして?」と聞きそうになり寸前で口を噤む。以前メールで、生きているのが辛いという話は聞いていた。

「前にメールでもお話ししたと思うんですけど、私の周りには信頼できる人も価値観を共有できる人も一人もいないんです。家族にすら心を開けません。誰とも関わらずに一人で生きていくって、他のどんなことよりも難しいと思います。少なくとも私にはできそうにありません」

 そう言ったアサヤマが鏡の破片を手のひらに乗せる。何をするのかとぼんやり眺めていると、彼女が思い切り手を握りしめた。少しして開かれた手のひらにはうっすらと血が滲んでいて、私はとっさに自分のおしぼりタオルを手に取った。袋からタオルを取り出そうとしたとき、アサヤマが私の手を掴んで制止した。

「眞紀さん。生き続けるって楽しいですか? 私にはわからないんです」

「私も高校の途中まで同じこと考えてたよ。でも、案外何とかなるもんだよ」

 ここでやっと、アサヤマの目をまっすぐ見ることができた。

「じゃあ、眞紀さんが私に生き続ける理由を教えてください。眞紀さんが、私を救って下さい」

 血の滲んだ手のひらを痛がる素振りも見せずに自分のおしぼりタオルで拭き取るアサヤマ。こんな痛みなど、生き続ける痛みに比べたら大したものではない、そう言わんばかりにごしごしと力強くこする。私は彼女が、かつての私よりも強いことを悟った。同時に、あまりに脆いことも。血が止まったころ私は彼女の手のひらを両手で優しく包み込み、生まれたての動物にするように優しく、何度も撫でさすった。冷たいと思っていたそれはわずかではあるけれど確かに温もりを持っていた。

「眞紀さんのような人に出会えて嬉しい」

 アサヤマは初めてメールのやりとりをしたときと同じ言葉を口にした。


【続】

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