第7話
「眞紀、眞紀、起きろ」
どこからか聞こえてくるその抑揚のある低い声はひどく頭に響いて、私は布団を頭まで被った。瞼が重くて目が薄くしか開けられない。喉は乾燥していて上手く声が出せない。昨日アサヤマに会うことを了承したメールを送ったはいいけれどどんな顔をすればいいのか、何を話せばいいのかと延々と考え込みほとんど眠れなかった。まだ日にちは決めていないから、今日もアサヤマからメールが来るだろう。そう考えただけでお腹が痛くなった。携帯電話を探そうと、目を閉じたまま布団の中を探る。
「眞紀、眞紀」
聞こえてくる声がさっきよりも近くなったような気がする。頭が痛い。お腹も痛い。うるさい、そう言おうとしたけれど風が一瞬横切ったような声しか出ない。口内にほんのわずかしかない不味い唾を無理矢理飲み込んだ。
「電話だぞ。松下って人から」
声を絞り出して怒鳴ろうとしたまさにそのとき、その声の主が父で、昨晩うっかりリビングに携帯を忘れたことを思い出した。
「貸してッ」
私はおそらく自分にしか聞こえなかったであろう声でそう言い布団を蹴り飛ばして起き上がり、父から携帯をひったくるように受け取った。「仕事に行ってくるから」と言いながらドアを閉める父を尻目に私は携帯を耳にあてた。
『おはよう眞紀』
その声を受けて慌てて何度も咳払いをする。電話口から小さな笑い声が聞こえてきた。何度か咳払いを繰り返すと喉はヒリヒリと痛んだけれど何とか声が出るようになった。
「どうしたの、こんな朝早くに」
『ごめんごめん、本当の寝起きだったんだね。俺今日休みなんだけど、眞紀は今日バイトかなと思って』
「私も休みだけど」
そう答えると電話口からチリン、と陽気な鈴の音が聞こえてきて、私はすぐに慶人が自転車に乗っているのだということがわかった。
『どう。後部座席、空いてますけど』
枕元の電波時計は六時五分を指している。
「こんな早朝から?」
『健康的だろ。さあ早く、早く』
「待ってよ。そっちに行くまでにどのくらいかかると思ってるの。車でも最低三十分だよ。今から準備もしたらもっと……」
再び電話口からチリンチリン、と鈴の音が鳴る。それに重なるように全く同じ音がどこか別のところからも聞こえる。私は「まさか」と呟いて携帯をベッドに放って窓から外を覗いた。こちらに向けて振られた手に握られている携帯が太陽の光に反射して私は思わず目を細め、ベッドの上の携帯を掴むのと同時に窓を閉めた。
「早かったね、眞紀」
「本当に自転車だけで来たの? 信じられない」
部屋を飛び出し、シャワーを浴び、服を着て家から出るまでを二十分で済ませた。タオルドライだけの髪はしっとりとしているけれど陽光でそのうち乾くだろう。
「朝食まだだよな。眞紀の好きなオムライス、すぐそこのコンビニで買ったから公園にでも行って食べよう」
慶人の自転車の後部座席に乗り、私が着ているものよりもずっと大きなサイズのパーカーを掴む。彼の漕ぎはじめはいつも以上に勢いがあって、私はパーカーを掴んでいる手にさらに力を入れた。
公園に着いて慶人からオムライスを受け取り、二人で並んでベンチに座る。空腹に急かされオムライスを頬張っていると、風に乗ってどこからか金木犀の香りがした。
「前にもさ、このオムライス食べながら二人で話したことあったっけな」
目を閉じて、隣の慶人の首元に鼻を寄せる。同じ香り。この辺りには金木犀の木は一本もないから、彼から漂うものに間違いなかった。私は香りを肺全体に取り込むように思い切り息を吸い込んだ。
「眞紀、聞いてる?」
「あ、ごめん聞いてなかった」
「どうしたんだよ、そんなににやにやして。もしかして俺の首に何か付いてるのか」
「ううん。慶人の匂い、昔も今も変わらないなあって」
首を何度も撫でさする慶人を見て笑っていたら急にやってきた眠気。私は彼の肩にもたれて目を閉じた。瞼の裏で一斉に咲き誇った金木犀。幼いころは苦手だったはずのその眩しい色が、その香りが、今はこんなにも愛おしい。微睡みの中でふいに大きな手が私の肩に回ってきて髪を優しく撫でる。まるで二人で、目の裏の景色の中にいるようだった。すぐ隣で穏やかな声が、
「幸せだな」
そう呟いたような気がした。
それからぐっすり眠ってしまったようだった。目が覚めると、慶人は変わらず片手で私の身体を支えてくれていた。
「眞紀、眠かったよな。ごめん、早朝から連れ出して」
私は慶人の肩にもたれていた身体を起こし、携帯の時計を確認した。八時十分。ここで一時間以上眠っていたようだ。食べ終わったオムライスのゴミを袋に入れてゴミ箱まで捨てに行った慶人。彼の背中をぼんやりと眺めながらベンチから立ち上がり大きく背伸びをする。すぐに軽快な足取りが戻ってきた。
「眠気はすっきりした?」
「うん、ごめんね」
「いいんだよ。さてと、次はどこに行こうかな。行ったことないところにも行ってみたいよなあ」
「じゃあ何も考えずに自転車漕ぎまくろう。……漕ぐのは慶人だけど」
「お、そういうのもいいな。俺は平気だよ、どこまででも行ってやるよ」
二人で公園を出て広い道路を駆け抜け、風を全身に浴びながらどこまでも進む。前で身体を揺らし必死にペダルを漕いでいる慶人が叫ぶ。「俺らいつか警察に捕まるかもな」「今さら?」笑いながらそう返す私。休みなくがむしゃらに走っていたらいつの間にか午後になっていて、お互い空腹に耐えられず、私の提案で前に亜里沙と来たファミレスに入った。
注文を終えてからトイレに立った慶人を横目で確認して携帯のメールを開く。何件か来ていたメールの中に、案の定アサヤマからのものがあった。
『サキさん、おはようございます。
昨日はわがままを言ってしまってすみませんでし
た。
サキさんに無理をさせてしまったのではないかと
不安で昨晩はあまり眠れませんでした。
でももし本当に会ってくださるのなら、こちらは
いつでも大丈夫ですので、サキさんの都合のいい
日を教えて下さい』
「眞紀、誰かとメールしてんの?」
頭上から声がした。身体がびくりと跳ねて首だけをゆっくりと上げると、そこには慶人が立っていた。彼の真っ直ぐな眼差しに携帯を隠す余裕もなかった。
「あ、トイレ、早かったね」
「ごめん、トイレには行ってないんだ。眞紀さ、俺がちょっと離れたときずっと携帯チェックしてるじゃん。それが気になって。別に堂々といじっていいのに」
椅子に腰を下ろす慶人の動きを目で追いながら私はアサヤマのことを話すべきかどうか迷った。迷ってしまったのがいけなかったのかもしれない。慶人の声が刺のあるものに変わった。
「俺に言えないこと?」
「職場の人とメールしてるの。向こうの返信が早くてさ。だから慶人は気にしなくていいよ」
「そいつって男?」
「いや」とまで言って急に頭が真っ白になった。すぐに「違うよ」と続けたけれど慶人の表情は変わらなかった。私は観念して携帯をテーブルに置き水を一口飲んでから話をはじめた。
「同じ日にバイトで入って、ちょっと前に辞めた人。偶然ネットで書き込みしてるのを見つけて私からメールを送ったの」
「眞紀、その人のこと好きだったの?」
「まさか」
そこでやっと慶人の目尻が少し垂れ下がった。視界の隅で店員がこちらに歩み寄ってくるのが見えて、私と慶人は同時に店員の方を見やった。
「食後のデザートをお持ちしてもよろしいですか?」
私が声を出す前に慶人が店員に微笑みかけて、私が頼んだものと同じのをもう一つ、と頼んだ。店員が戻っていったあと、デザートのチョコレートパフェが二つ届くまで、慶人は今日一番の笑顔で私のことを見つめていた。
【続】
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