第6話

「うわあ、色々思い出すなあ」

 校門前に着いて自転車を下りると、慶人が声を上げた。

「俺たちが卒業してから改修工事したって聞いたからどうなったかと思ったけど、ほとんど変わってなくてよかった」

 相変わらず校庭からは部活動に一生懸命に取り組む生徒たちの声が聞こえてくる。体育館からも外に負けないくらいの掛け声が聞こえてくる。校舎の窓から顔を出して友人と何やら話をしている生徒もいる。唯一変わっていることといえば、ヒビの入っていた壁が綺麗に塗り替えられていたくらいだった。

「急に後ろに乗れって言うからどこに行くのかと思った」

「何か、眞紀と再会してから無性に来たくなってさ。思い切ってバイトサボってみた」

「バレてクビになっても知らないよ?」

「大丈夫。俺バイトリーダーだし簡単にはクビ切られないから」

「バイトリーダーならなおさらサボっちゃダメでしょ」

「俺にはこっちの方が大事なんだよ」

 慶人の声に重なるようにしてチャイムが鳴り響いた。窓から顔を出していた生徒が何かを言って窓を閉めた。放課後友人と話し込んでいる生徒たちはこのチャイムを合図に帰りはじめるのだろう。私と慶人もそうだったように。

「あ、猫」

 ふいに校舎の陰から、気付かれずに踏みつけられてしまいそうなほど小さい猫が出てきて、歩いている生徒たちの注目を浴びていた。彼らから逃げるようにして一心不乱にこちらに走ってくる子猫を目で追っていると、慶人がぽつりと呟いた。

「あの猫、眞紀に似てるな」

「似てないよ。あんなに小さくないし、足も速くないし」

「そうじゃなくて」

 笑い出した慶人にからかわれたような気がして、私は慶人の背中を軽く叩いて自転車に跨がった。

「もうすぐ暗くなるから早く帰ろう」

 慶人は私を見て、穏やかな表情で頷いた。子猫の姿はいつの間にかなくなっていた。ゆっくりと動き出す自転車。同時によみがえるあの毎日の放課後。今なら、慶人の自転車が寿命を迎えて走行中に壊れてしまってもいいと思った。それほど慶人の背中で感じる柔らかい風や、匂いや、温もりや、懐かしい風景は私の心にゆっくりと染み込んで思わず微睡んでしまいそうなほどの心地よさで私の全てを満たした。



「樋山さん、彼氏ができたって本当なの?」

 忙しさのピークを過ぎ客足も途絶えてきた二時過ぎ、メニュー表をテーブルに並べていると黒崎さんが声をかけてきた。隣には亜里沙の姿もあった。

「え、突然何ですか」

「最近樋山さん仕事が終わったら急いで帰ってるじゃない。亜里沙ちゃんから聞いたわよ、彼氏に会いに行ってるって。知らなかったからびっくりしたわよ」

 びっくりしたのは私の方だった。私がいつ亜里沙にそんなことを言ったのか。そもそも慶人の存在自体ここの人たちに話したことはないはずだった。

「彼氏じゃありませんよ」

「じゃあ何、どっちにしても好きな人でしょ。どうして教えてくれないのよ」

 含み笑いをした亜里沙がそう言って私の肩を軽く叩く。彼女のスキンシップはいつものことだけれど、今日はやけに腹が立った。

「好きな人でも彼氏でもないから。ただの高校の友だち」

「ほら、やっぱり会いに行ってるんじゃん。もう隠さなくていいってばあ、他の人には内緒にしておくから」

 最後のテーブルにメニュー表を投げるように置いたのと同時に厨房にいる店長に呼ばれた。携帯電話で時間を確認するふりをしながら二人の間を早足で通り抜けて厨房に向かう。賄いのカレーライスを店長からもらい、まっすぐ休憩室に入った。食欲がわかずスプーンでライスをすくったり戻したりを繰り返してから皿ごとテーブルの端に寄せた。ポケットから携帯を取り出し、メールを確認する。息が細かく震えた。

 今朝アサヤマから来ていたメールを、返せないままでいた。

『おはようございます、サキさん。

 あの、実は前から思っていたことがあって……。

 サキさんと直接話してみたいんです。

 もしよかったら今度、会いませんか?』

 直接会ってしまえばアサヤマは私が同じ職場でアルバイトをしていた樋山眞紀だと気付いてしまうだろうか。冷やかしで書き込みをしたのか、と私を責め立てるだろうか。今ごろになって、なぜアサヤマに連絡を取ろうと思ったのか自分でもわからなくなった。

『返信が遅くなってごめんなさい。

 私はアサヤマさんのことはメールで何でも話せる

 いい良いメル友だと思っていたのですが、アサヤ

 マさんは私と直接会って話してみたいと思って下

 さったのですね。

 ありがたいのですが、私は話下手でして……』

 大して長くはないそれだけの文を作成するのに相当な時間をかけてしまったような気がして時計を確認したけれど休憩時間はまだたっぷりあった。程よく冷めたカレーの皿をまた引き寄せて少しずつ口に運んだ。バッグから飲み物を取り出して飲もうとしたとき、携帯が震えた。アサヤマだった。

『気に障ってしまったのならごめんなさい。

 ただ、サキさんとは今まで出会った人たちとは

 違う、何か運命的なものを感じてしまって……。

 なのでぜひお会いしてみたいと思ったのですが、

 サキさんが嫌なのであれば大丈夫です。

 忘れてください。すみませんでした』

 メール画面を開いたまま携帯をテーブルに置き、カレーを一気に口に掻き込む。噛まずに飲み込もうとしたら米粒が器官に入って何度もむせた。慌てて水を飲み干しようやく落ち着くと、初めてアサヤマとメールをした日のアサヤマの言葉を思い出した。『嬉しいなんて感情、久し振りです』。このまま私が返信をしなかったら、向こうからのメールはもう来ないような気がした。

 今まで出会った人たちとは違う、何か運命的なもの。

 私も、あのサイトで声をかけてこんなにメールが続いた人は初めてだった。元々の接点があったにしろ関わりなんてほとんどないに等しく初対面も同然だし、今まで相手がどんなにまめにメールをくれたとしても、私が途中で連絡を取り合うことに飽きてしまって自然と疎遠になっていくというのが毎回のパターンだった。

 このまま、この繋がりを絶ってしまって本当にいいのだろうか。空になったグラスの水滴が染み込んだ右手を服の袖に擦りつける。服越しに肌に伝わる手のひらの温もり。生きた人間の証。たったこれだけを、差し伸べてくれる温かい手を切望して、アサヤマはあのサイトでひたすらに誰かを待ち続けていたのだろうか。まさに今この瞬間、携帯の向こう側で、私のこの手のひらの温もりを喉から手が出るほど求めているのだろうか。

 運命を感じた私が同じ職場でアルバイトをしていた樋山眞紀だと知ったらどう思うだろう。冷やかしだったのかと私を責めるのかもしれないし、過去に似た経験を持つ私にもっと早く話しかければよかったと笑うのかもしれない。私はアサヤマという人間をあまりにも知らなすぎた。知らなければいけない、そんな使命感に似た感情が湧き上がってきた。携帯をしっかりと握りしめ、私は少しずつ言葉を紡いでいった。


【続】

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