第5話

 翌日、仕事終わりに書店に行くと、いつもは仕事中のはずの慶人が制服のエプロンもせずに裏口に立っていた。

「仕事は?」

私が控えめに尋ねると、慶人は笑いながら自転車に跨がった。

「体調不良って嘘ついて早退した」

「え、何それ。冗談でしょ?」

「マジマジ。後ろ、乗れよ。店長に見られたらヤバイから早く早く」

 そう言って手招きをする慶人。彼の跨がっている自転車は前回ここで見たときよりもさらに綺麗に磨かれていて、ぱっと見新品だと言われてもわからないほどだった。私が「壊れそう」と言って乗るのを断ったときの慶人の表情を思い出して何だかいたたまれない気持ちになり、私は高校以来の慶人の自転車の後ろに跨がった。

「よっしゃ、ちゃんと掴まってろよ」

 慶人が勢いよく漕ぎだした拍子に転げ落ちそうになって慌てて彼のシャツを掴む。文句を言ってやろうかと彼の顔を覗き込んだけれど、吹いてくる風が気持ちよくてそんなことはすぐにどうでもよくなった。だんだんと遠くなっていく駐車場を眺めながら車を端の方に停めておいてよかったと安堵していると、慶人に呼ばれた。

「眞紀、見てみ。懐かしいだろ」

 前に向き直って初めて気が付いた。慶人の漕ぐ自転車はいつの間にか高校の通学路に入っていた。苔むした黄白色の壁に挟まれた薄暗い道。鼻を掠めた生ゴミの匂い。曲がり角にぽつんと設置されている自動販売機。人が住んでいるのかもわからない古びたアパート。線路沿いの狭い道。全てが懐かしくて、様々な感情が込み上げて、胸が締め付けられたように苦しくなった。

 線路の踏切を越えて高校の校舎が見えてきたころ、慶人の背中の温もりと香りを全身で感じながら、私は固く閉じていた記憶の蓋を少しだけずらしてみることにした。狭い隙間から漏れだした記憶の日々は私の胸を塗りたてのコンクリートのように少しずつ固め、同時に注ぎたての鉄のように熱く奮い立たせた。



 あのころは、まるで自分が学校という工場で製造されている人形のようだった。どこかしらの部品が欠けた歪なロボットのようだった。全身が溶けてしまいそうなほどの熱湯の渦に囚われ、四肢を自由に動かすこともできないまま、声も出せないまま、ただひたすらあてのない祈りを続けているような、そんな日々を送っていた。

 入学して数週間もせずに、私のクラスはなぜか皆全員が仲良しだと言われるようになった。新米の担任がどこのクラスよりも学校行事に授業に張り切っていたからかもしれない。朝から帰りまで、単独行動をしてはいけない。教室では特定のグループだけで固まって仲良くしてはいけない。内緒話は厳禁、意見があるときは全員に聞こえるように発言をする。担任が次々と掲げた決まりごとたちが私には息苦しかった。やがてクラスメイトたちまでも担任の張り切りに乗るようになっていき、一年が終わるころには私だけがクラスで浮いている存在になった。

 毎朝、制服を着て家を出た途端にめまいに襲われる。笑みを浮かべて玄関に立っている母に震える手を振り、少しずつ足を前に進めていく。電車に乗り、駅で下り、騒がしい話し声に囲まれながら通学路を歩く。その間私はずっと、この何の変哲もない毎日が何かの形で崩れることを願っていた。この通学路に頻出する不審者にさえも祈った。学校の前で暴れまわって、誰かを襲って、休校に追い込んでほしい、と。

 中身のないスクールバッグの底を引きずりながら教室に入ると空気がさらに重みを増す。すぐ後に入ってきたクラスメイトがドアを閉めると、耳元で「もう逃げられないよ」と囁かれたような気がした。それが幻聴であることはわかっていたのに、私はその日の帰りまで動悸が治まらなくなるのだった。このクラスは紛れもなく狂っていた。

 一度だけ、学校を逃げ出そうと実行に移したときがあった。昼休みに持ってきた弁当が喉を通らすにただぼうっと窓から外を眺めていたときのことだった。衝動的にあの青空の下に飛び出したくなった。この薄暗くて騒がしい教室を抜け出し、通学路を駆け抜けて、家にいる母の胸に飛び込みたくなった。母も担任のことを日ごろから褒めちぎっていてまともに話をしても無駄だということはわかっていたけれど、今はただその数年前と変わらず温かいであろう胸の中に飛び込みたかった。泣いて、泣いて、気が狂うくらい泣き叫びたかった。

 授業開始五分前の予鈴が鳴り響いた瞬間、私は椅子から立って勢いよく駆け出した。リノリウムの床に響き渡る自分の足音がやけに大きく響く。廊下を歩いている誰かとぶつかりそうになるたびにだんだんと息が苦しくなる。階段を踏み外して軽く右足を捻っても足は止めなかった。靴を履くのに苦戦していたとき、耳が痛くなるくらいすぐそばで鳴り響いたチャイム。静まり返った校内。ようやく靴を履いて念願の青空の下に飛び出せたのに、そこで私の足は止まってしまった。背中から感じたのは、教室中の窓からの、今にも全身を突き刺されてしまうのではないかというほどの鋭い視線。そのまま止まらず走り続ければ、そんなものはやがて気にならなくなっていただろう。でも私は足を止めてしまった。切望していたはずの青空をあっさりと捨てて、薄暗い校舎内に戻ってしまった。

 それから私は、腹痛でトイレにこもっていたと嘘をついて教室に戻った。幸い、クラスメイトと担任は私が外に飛び出したところを見てはいなかった。保健室に行くことを促されたけれど、もう一歩も足を動かす気力がなかった。席に着くと身体が泥のように重く、ベタついているのを感じた。

 その日のことはじきになかったことになるだろうと軽く考えていた私は、しかし数日後に後悔することとなった。校庭での体育の授業を終えて皆より一歩遅く校舎内に入ると、下駄箱の前に見たことのない生徒が二人立っていた。目が合ってすぐに彼女たちが先輩であることを察し、なるべく目立った動きをしないように自分の下駄箱から上履きを取り出して靴下のまま足早にその場を去ろうとしたまさにそのときだった。

「おい。何シカトしてんだよ」

 上履きが片方床に落ちてパコンと乾いた音を立てた。それを拾うのも忘れて後ろを振り返る。二人が近付いてくる間、私は一歩も動かなかった。鼻から深く息を吸い込んだとき、ほんのりと煙草の匂いがした。

「お前、この前私がここで煙草吸ってたところ見てただろ」

 そう言ったのは向かって左。眉と目の間がなくなるくらい眉間にしわを寄せ、穴が開くくらいに私を見ていた。何のことかさっぱり分からず、私は何も言えなかった。「見ていません」と一言口にした方がまだよかったのかもしれない。

「誰にも言ってないだろうな」

「何か言えよッ」

 床に落としたままの上履きの片方を勢いよく蹴り飛ばされる。口から勝手に「はい」という言葉が飛び出した。殴られるような気がして目をきつくつぶる。息苦しくて、心臓を取り出してしまいたくなる衝動に駆られた。でも二人はかかとを引きずる歩き方でだんだんと遠ざかっていった。最後に何かを言われたような気がしたけれど、耳には残らなかった。遠くに飛ばされた上履きを拾い、震える足で教室への階段を上った。こみ上げてきた涙は教室に着く前に唾を飲み込んで制した。

 その後、私に思わぬチャンスが巡ってきた。他校のいじめ問題を受けて、今のクラスをどう思っているか自由に記入できるアンケートが二学期末に行われた。私はそこに勇気を振り絞って「クラスの雰囲気に馴染めない。学校に来たくない」と書いた。一筋の希望を込めて、力強い字で。アンケートが回収されてから私はずっと、学校でも家でも、担任との話し合いで伝える言葉を考えた。もし学校をやめることになったら、あの三年生の煙草の件も言ってしまおうかと考えた。上履きを蹴ったことへの細やかな仕返しだ。私はいつもより少しだけ強気になっていた。

 でも私の妄想は呆気なく無になった。アンケートを回収してから数日が経っても、担任からの反応はなく、クラスも何の変化もなかった。私はそこで悟った。きっと担任は皆が「今のクラスは楽しい」と書いていると信じて疑わず、まともにアンケートを見ていないのだと。この担任には、このクラスには何を言っても何を訴えても無駄なのだと。

 最後の頼みの綱だった学年末のクラス替えがなしと言われたとき、耳をつんざくほどの歓声の中で私は完全に自己を見失っていた。いっそのこといじめを受けた方が気が楽だった。明確な理由があればそれを高く掲げて、誰かの手を取り今度こそ逃げ出すことができた。無機質な団欒の中で、私はただ、震えていることしかできなかった。

 このまま不良品であることに気付かれずに皆と共に綺麗に一列にベルトコンベアの上に並べられ、三年という長い製造期間をただ静かに全うするのだろうと思っていた。

 屍のように二年目を終えようとしていたある日の放課後のことだった。

「樋山さん?」

 教室を出て廊下を歩き出そうとしたとき、すぐ後ろから聞きなれない声がした。高くもなく低くもなく、どちらかといえば低い、はっきりとしない、でもどこか落ち着く声だった。声の出処を探そうとぼんやりと振り返る。

「このノート、樋山さんのものだよね」

 私はその瞬間、ベルトコンベアのとてつもなく長い旅の列から滑り落ちた。ひんやりとした床に横たわる私を拾い上げたのは、人間。規則正しく呼吸をしている、血の通った人間。私はまた旅の列に戻されるのではないかと全身を震わせた。思うように動かせない四肢を精一杯奮い立たせてもがいた。喉元を両手で締め付けられているかのような感覚の中で叫んだ。アア、アアア、ワタシハ、ワタ、シ、ハ……。

 自分が涙を流していることに気付いたのは、慌てた様子で周りを見回している彼にポケットティッシュを一枚差し出されたときだった。受け取るのを断ろうとしたけれど涙はともかく鼻水の制御ができそうになくて、私は躊躇いがちに手を伸ばし、ティッシュを受け取って鼻にあてた。やがて涙が乾き込み上げていた感情が落ち着いてきたころ、ふいに彼に「図書室に行きませんか」と誘われた。その言葉は私の耳には、

「ここから逃げ出そう」

 そんな風に響いた。

 図書室に着いて私が椅子に座ると、彼は向かい側に座った。司書の先生がガラス張りの奥の部屋にいるのが見えたけれど、生徒は私と彼の他には誰もいなかった。彼から受け取ったノートは、今日の選択授業で隣の教室に移動したときに机の中に忘れていたものだった。どうせまともに板書していないから、席の主に捨てられてもいいと思っていたものだった。

「突然ここに誘ってごめん。迷惑じゃなかった?」

 私はすぐに頷く。安堵したような彼の表情に、彼がクラスメイトたちとは全く違う存在であることを強く感じた。たとえ束の間だけだとしても、閉塞的な空間から抜け出せたことを感じて身体が震えた。

「ありがとう。俺ね、小説を読むのが好きで放課後は毎日図書室に来てるんだ。ここは静かで落ち着くしさ。あ、俺、松下慶人って言います。慶人でいいから」

「慶人」

 私が呼ぶと、慶人は笑った。垂れ下がる目尻がとても印象的だった。私は久し振りに、血の通った存在の名前を呼んだような気がした。

 それから慶人は私を本棚に連れていって、おすすめの本をたくさん紹介してきた。彼は少女漫画によくある純愛系の物語が好きらしかった。本以外のことも二人でたくさん話して、日が暮れはじめたころに校舎を出た。そのときに初めて慶人の自転車に跨がった。彼が宝物だと話したそれは丁寧に手入れされていて、夕陽に照らされて眩しいくらいに輝いていた。



【続】

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