第4話

 屋根を激しく啄くような雨の音で夜中から何度も目が覚めた。

 電波時計を見ると五時半。いつもの起床時間より一時間半も早い。最低でも八時間は睡眠をとらないと仕事中にあくびが出て店長やらお客さんやら色んな人に注意されてしまうのが身にしみて分かっているからもう一度目を閉じてみたけれど、雨がやがて屋根を破って襲いかかってくるような気がして、私はおそらく今日一番であろう大あくびを一つして部屋を出た。

 リビングに入ると母がテーブルに肘をつきながら、ため息をついていた。目線の先には画面が乱れたテレビ。断片的に映る画面の中で、天気予報士が台風の接近を伝えている。

「眞紀、見てよ。どうにか直らないかしら。これじゃ天気予報がわからないわ」

「台風のことしか言ってないんだからわかるでしょ」

「そうじゃなくて進路のことよ。いつ去ってくれるのか」

「放っておけば勝手に去るよ」

 私の言葉を聞いたのか聞いていないのか母は何かを呟きながら再びテレビ画面に目線を戻した。私は窓のカーテンレールに干された、まだ若干湿り気が残るバスタオルを一枚取って浴室に向かった。

 服を脱いでいたとき、携帯電話が鳴った。店長からだった。私は数秒迷ってから脱いだシャツをもう一度着て電話に出た。

「おはようございます」

「よお、寝てたか? 多分分かってたと思うが今日はバイト休んでいいからな。店も休業にする。こんな天気じゃ客も来ないだろ」

 電話越しの店長は今まさに目が覚めたというような寝ぼけた声で、私が「わかりました」と言う前に一方的に電話は切れた。洗濯機の上の小窓から外を確認すると、雨は少し弱まったように見えた。

 長めの風呂から上がり髪をドライヤーで乾かしながら片手でヘアアイロンの準備をしていたとき、母が言った。

「あんたどこかに出かけるの? まさかバイトは休みになったんでしょう」

「本屋」

「ええっ、何でこんな日にわざわざ行くのよ。台風が去ってからにしなさい」

 私は母の言葉を聞き流してドライヤーを再開した。家にいても何もやる気が起きない。バイトが休みならばその分早く書店に行って長く入り浸ることができる。こんな日でも出勤している人はたくさんいるのだから、出かけられないことはないはずだ。ヘアアイロンで髪の毛先を簡単に伸ばすと、私は車の鍵を握りしめて玄関のドアを勢いよく開けた。瞬間、わ、と声を出してすぐに閉める。凍てつくような風が顔や両腕を鋭く刺して全身に鳥肌が立った。幼いころは台風が来ていても平気で外に飛び出していたのに、どうして今はこんなにも尻込みしてしまうのだろうか。次はあの屋根を破りそうな勢いの雨に激しく啄かれそうで、もう一度ドアを開ける勇気はなかった。リビングにいる母の呆れた表情を思い浮かべながら私は部屋に直行した。

 携帯を投げるようにベッドに置き、カーペットの床に横たわる。慶人もきっとこの天気でバイトが休みになったに違いない。私は自分にそう言い聞かせることにした。

 ぐんと背伸びをしながら何気なく目に入ったベッドの下のスペースは、いつの間にかさまざまなもので溢れかえっていた。無造作に投げ出された上下どちらか分からないスウェット、学生時代の書類、教科書、くしゃくしゃに丸められたティッシュ、幼いころに母の友人からもらったぬいぐるみ……。それらの中に一際目を引くものが隅にぽつんと落ちていた。

 精一杯手を伸ばしてそれを取り出し、埃を払う。それは高校の途中まで使っていた携帯だった。いつの間にこんなところに放置していたのだろう。私はベッドの下を掃除しなければと考えるより先に、電源ボタンを長押しした。反応はない。ベッドの下をもう一度見渡し、充電器を探す。あった。埃が鼻をくすぐって何度かくしゃみをしながらも何とか取り出した充電器をコンセントに挿すと、画面に電池マークが表示されて胸が躍った。バッテリーが回復するまでの間、かつての相棒をそっと撫でる。ボタン式の携帯を使っていたのはこの機種が最後だった気がする。数分待ってからもう一度ボタンを長押しするとようやく電源が入った。久し振りの指の感触に違和感を覚えながらもメールや画像フォルダを次々と開いていく。よみがえっていく記憶のほとんどは、ぼろぼろに錆びた廃校の鉄棒のように元の色を完全に失っていた。慶人に関連するものを除いては。

 メールと画像フォルダを一通り見たあとブックマークのページを開くと、五つしか登録されていないサイトの一番上のものに目が止まった。『人生に疲れた人集まれ』というタイトルのそのサイトは、授業中や休み時間、家でも頻繁に閲覧や書き込みをしていたものだった。

 ベッドの上の携帯を手に取り、サイトのURLを入力し、一呼吸置いてから画面を人差し指でタップする。すぐに開いたページ。

 あった。まだ存在していた。サイトの外観はがらりと変わっているものの、『人生に疲れた人集まれ』は依然としてたくさんの人に閲覧され書き込まれ続けているようだった。

 詳細検索ページで都道府県指定をして、数が絞られたスレッドの中に気になる名前を見つけたのはそのときだった。

『返信を待つのに疲れたら、消えます』というタイトルの「アサヤマ」という投稿者名に私は既視感のようなものを覚えた。どこかで聞いたことがあるような響きだった。投稿は約一ヶ月前。スレッドへの書き込みはまだ誰もしていないようだった。

「アサヤマ」が書き込んでいるプロフィールに目を通すと隣の市に住んでいるようで、二十六歳、男性だという。周りからいじめを受け家に引きこもっているらしい。

「アサヤマ、アサヤマ、アサヤマ」

 何か思い出せないかと名前を何度も声に出して呟く。アサヤマ。アサヤマ。アサ、ヤマ。アサ、アサ、アサ……アサカワ。

 浅川大和という名前が頭に浮かんだ瞬間、私は思わず声を上げていた。アルバイトを初めてすぐのころ、誰かが彼にニックネームを尋ねたとき、彼が「アサヤマ」と答えていたことを思い出した。そして彼がアルバイトを辞める少し前まで、皆も彼のことをよく「アサヤマ」と呼んでいた。

「まさか」と言った自分の息が注ぎたての熱湯の湯気のように、歪にその身をくねらせながら消えていった。携帯を握る左手に力を込める。この投稿も、短い吐息のようにもうすぐ消えてしまうような焦燥感に陥った。

『初めまして、サキと言います。

 二十一歳、女です。

 隣の市に住んでいます。

 よかったらお話しませんか?』

 名前は深く考えず直感で決めた。文字を打ちながら、切るのを怠って伸びっぱなしになっている薬指と小指の爪がカチカチと携帯の背面を突いた。送信して床から身を起こす。軽く握りしめた手の指先はいつの間にか冷たくなっていて、私は温かいコーンスープを飲もうとリビングに移った。



 その日から仕事の休憩時間や家でサイトのチェックを欠かさずにしようと思っていたけれど、「アサヤマ」からの返信は想定していたよりも早く、書き込みから二日目の夜、テーブルの上に置いていた携帯の画面にメール通知が表示された。

『サキさん、書き込みありがとうございます。

 よかったらメールで個別に話しませんか』

「来た!」

 思わず漏れた声に、隣で横になってテレビを観ていた母が起き上がった。

「何? 何が来たの?」

「いや何でもないよ」

「何でもないわけないでしょう。お母さんに言えないこと?」

「配達。今ドアノックされたよ。ちょっと受け取ってきて」

 母にディスプレイを覗かれそうになってとっさに嘘をついた。母が首をかしげながらも玄関に向かったのを確認すると、私は駆け足で部屋に向かった。

 勢いよくドアを閉め、鍵を閉め、ベッドの布団に潜り込む。駆け足のせいなのか返信が来たことに驚いたせいなのか心臓の鼓動が早い。たったの二日で返信が来るとは思わなかった。返信自体来ないかもしれないと思っていた。もしかしたらアサヤマも、投稿をしてから毎日欠かさずサイトをチェックしていたのかもしれない。私がこのサイトを記憶の封印から解く一ヶ月前から、ずっと、ずっと、ずっと。

 アサヤマの返信文に再度目を通す。そのメッセージの下にメールアドレスが記載されていて、私は一瞬、アサヤマが私の正体に気が付いたのかと身体が震えた。でもすぐにそんなはずがないと自分に言い聞かせ、メールアドレスを連絡先に登録してから届いているかどうかの確認のメールを送った。

『サキさん。メール、届きました。

 突然個別で話したいなんて言ってごめんなさい』

 年上の割にとても謙虚で腰の低い文だと思った。でも私は浅川大和という男のことはほとんど何も知らなかったから、きっと彼はそういう性格だったのかもしれない。

『アサヤマさん。

 大丈夫ですよ、気にしないでください。

 お話をするには個別の方がいいですから』

『ありがとうございます。

 サキさんのような人にメッセージをもらえて嬉しい。

 嬉しいなんて感情、久し振りです』

『いえいえそんな。

 でも、そう言って頂けると私も嬉しいです』

 何だか胸の辺りがむず痒くなって、文字を打ったあと末尾に笑顔の顔文字を入れて送信した。するとアサヤマも同じ顔文字を付けて返信をしてきた。

 その後も私はアサヤマと何通も何通もメールを交わした。夕飯の時間になっても、風呂から上がっても、歯を磨いているときも、ベッドに潜ったあとも。不思議なことに話題は尽きることがなく、やがてお互いの過去も話し、そのやり取りは、私が携帯を握りしめたままいつの間にか眠りに落ちてしまうまで続いたのだった。


【続】

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