第3話

 記憶のスライドショーはいつも高校二年生の秋から始まる。家を出て、人々を魅了する色に姿を変えた紅葉の山々を眺めながら駅まで歩き、電車に四十分揺られ降りた駅の改札を抜けると、出口で光沢のある自転車と白い歯を見せた笑顔が待っている。私は手を振りながら駆け足で眩しい太陽の下に出るのだった。

 カーナビが目的地付近に到着したことを告げると、スライドショーは静かに幕を閉じた。

 そこは、駅の目と鼻の先にある書店。高校在学時代放課後によく通っていたところだったけれど、卒業してからは一度も来なかったから実に三年振りになる。

きっとまだ、彼はここにいる。

 駐車場に入って車を下り、一度立ち止まって景色を眺め回した。駅の出口には利用客が少なくて退屈そうに学生たちを眺めるタクシー運転手たちがいた。高校が線路を挟んですぐ反対側にあってわざわざ踏切までU字に道を歩いて遠回りした。途中の狭い道はいつも生ゴミ臭くて息を止めて歩いた。前からも後ろからも聞こえた姦しい笑い声。その何気ない通学風景の中を、私は二年生の夏までただただ無言で歩き続けていた。

 書店の自動ドアが開くと、どこかで聞いたことのある、バイオリンの静かな音色をそのまま声にしたようなしっとりとした洋楽が耳に滑り込んできた。それからすぐにどこからか「いらっしゃいませ」とあくびが混じったような男性の声。いた。少しでも躊躇っていると声が萎んでしまいそうで、私は声のした方に早歩きで向かった。

「おっは。慶ちゃん」

 しゃがんで本棚の整理をしている紺色のエプロン姿に声をかける。毎朝駅の出口で彼にしていた挨拶と同じように。一瞬の間のあと、松下慶人は振り返った。流れていた洋楽が終わり、次の曲が流れ出す。そのイントロに被せるように、私は言葉を続けた。

「久し振り。私のこと覚えてる?」

「……もしかして、眞紀?」

 正解、と言って微笑むと、慶人は手に持っていた本を落としそうになりながらゆっくりと立ち上がった。ばっちり目が合う。彼は黒縁のメガネをかけていた。高校時代と比べると、声がまた一段と低くなったような気がする。真っ黒でいつも寝癖が付いていた髪もほんのりと茶に染め毛先までまっすぐ下りていた。見た目は変わったけれど、仕草やしゃべり方は変わっていない。そして一度嗅いだら忘れられないあの橙の花のような香りも。

「どうしたんだよこんな時間に。家、この近くじゃなかったよな?」

 慶人はただただ驚きを顔に貼り付けて、ややあってからそう言った。彼のその表情を見ていたら私は急に自分が何かとんでもないことをしでかしてしまったような気分になって、つい曖昧な返事をしてしまった。

「仕事帰りに寄ったの。何かわかんないけど急に行きたくなって」

「急に行きたくなってって……何だそれ」

 そこでようやく、三年振りに彼の笑顔を見ることができた。

「まあ、せっかく来たんだしちょっと見ていったら。俺はあと三十分でバイト上がるけど」

 緊張が解きほぐされた後のようなその柔らかい声と笑顔に私もほっと胸を撫で下ろした。

「じゃああと三十分、見て回ろうかな」

 私に背を向けて本棚の整理を再開した慶人。彼が呟くように言った。

「どうぞ、ご自由にご覧下さいませ」

 店内の音楽が、軽快なメロディのサビに突入した。



 それから少しして慶人がレジの奥に下がっていったのを確認すると、私は手に持っていた一冊の本を会計して外に出た。五分もしないうちに書店の裏口から出てきた慶人。私は彼の元に歩み寄りながら、たった今買ったばかりの本を頭の上に掲げてみせた。

「あれ、その本さっき俺が棚に入れてたやつじゃん。昨日入った新刊」

「そう。面白そうだから買っちゃった」

「眞紀、小説読むんだっけ? まあ、変わるか。高校卒業してからだいぶ経ったしな」

 フェンスに寄り添うように置いてある自転車のカゴにバッグを乗せ、ワイヤーロックを外しはじめた慶人。それは高校時代に乗っていたものと同じ、淡い緑色の自転車だった。毎朝自転車置き場に着いてロックをかけている慶人を待ちながら、照りつける太陽の下でその光沢を何度撫でたことだろう。

「くっそ……」

 ぼんやりと考えていたとき、いつの間にかしゃがみ込んでいた慶人が小さく声を漏らした。見るとワイヤーロックの解錠に戸惑っているようで、挿した鍵が上手く回らず両手の指を震わせながら唸っていた。

「まさかそれ、高校のときに使ってたやつ?」

「うん。毎日手入れすればチャリも長生きするんだよ」

「でもせめてワイヤーロックは買い換えようよ」

 そうこうしているとようやく解錠ができたようで、少し息を乱した慶人がゆっくりと立ち上がった。

「思い出があるからさ」

「貧乏臭いよ」

「久々に後ろ乗る?」

「壊れそうだからいい」

 私がそう言うと慶人は目を伏せて自転車の後部座席を優しく撫で、それから笑みを浮かべた。

「こうやって話すの、本当に久し振りだな」

 慶人の言葉に頷いてから、なぜ高校を卒業後彼と一度も会っていなかったのだろうと考えた。在学中は毎日のように一緒に登下校をして、放課後は図書室に入り浸って、休日はどこかに出かけたりお互いの家を行き来したりしていたのに。どうしてだろう。

「どうしてだろうな」

 私ははっとして彼の顔を見た。彼も私を見ていた。

「三年振りに会ったはずなのに、三年振りの感じがしない」

 私も、と言おうとしたけれど胸の内に留めた。代わりに少し折れ曲がっている彼の白シャツの襟を親指と人差指でぴん、と伸ばす。金木犀を薄めたような香りが一瞬だけ私の鼻を掠めた。

 それから慶人と少しだけ話をして、最後に連絡先を交換して別れた。家に向かって車を走らせながら、彼の言葉やしぐさのひとつひとつを思い返した。信号待ちをしている間に目を閉じると、瞼の裏いっぱいに橙が広がった。



 静まり返った廊下で初めて言葉を交わした日から、私と慶人は口約束で繋がっていた。

 二人で会う予定は全て学校にいる間に決めて、学校が終わってからは一切連絡は取り合わない。当時私が携帯電話を高校二年生の初めに解約してしまったからということもあるけれど、何よりその距離感が私には心地よかったのだ。そしてそれはきっと慶人も同じなのだろうと思った。

 休日に会うときは、慶人はよく市内の図書館や書店など、本がたくさんある場所に連れていってくれた。彼は小説に関して驚くほど博識で、私が棚から何気なく手に取った小説のほとんどを既に購入し、読んでいた。私は本をほとんど読まなかったから彼にあらすじを説明されてもすぐに忘れてしまったけれど、話しているときの慶人の目は、学校にいるときよりもどこに行くときよりも一番輝いていた。

「俺さ、小説家になりたいっていう夢があるんだよね」

 慶人の家に遊びに行ったとき、昼食をとりながら彼がそう話したときがあった。綺麗に整頓された机の棚には隙間なく並べられた様々な作者の小説、それに混じって文章力を磨く講座本が何冊があり、かなり前に購入したものなのか、それとも相当読み込んだのか、カバーが今にも破れてしまいそうなほどボロボロになっていた。

「でもやっぱり厳しいよなあ。中二のときから毎年応募してるんだけど、いまだに一次選考すら通らなくて。悔しくて悔しくて高校受験の勉強そっちのけで小説書いてたら、担任に志望校は諦めたほうがいいかもしれないって言われるし親にはパソコン取り上げられるし散々だったよ。まあ、結局高校は無事合格して親もパソコンを返してくれたんだけど。落ちてたらどうなってたか……」

 慶人が笑いながらそう話していたと思ったら急に真面目な表情に変わって、私は思わず口に入れたばかりのオムライスを噛まずに飲み込んでしまった。むせながらペットボトルのお茶を一口飲んでテーブルに置くと、彼が私をじっと見ていた。

「最近書き始めた長編があるんだ。俺はこれに賭けてる。これを絶対に出版したい。もし出版できたら、もう一つ叶えたいことができたんだ」

 あの日言っていたその長編を、彼はまだ書き続けているのだろうか。もう既に応募したのだろうか。叶えたいことは叶ったのだろうか。口約束はしていないけれど、また、彼に会いに行かなければならないと思った。私の記憶の中であの日々と現在が繋がり、一本の長い長い線ができあがった。


【続】

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