第2話

「眞紀やっと来た」

 最後のお客さんが店を後にしたのを確認し、テーブルを拭き、メニューを置き、椅子を揃え、窓の簾を下ろし閉店の準備を全て終えて休憩室に行くと、亜里沙が肩にバッグをかけてソファに座っていた。

「久々にご飯行こうよ。この前いいところ見つけたんだよね。うちの近くだから隣でばっちり道案内するよ」

 車のキーちょうだい、と差し出された亜里沙の手にすかさずポケットから取り出した鍵を乗せる。ここで一秒でも躊躇う素振りを見せてしまうと途端に彼女の口元からは笑みが消え、いつもわざと高めに出している声が元の低い掠れ声になる。その露骨な態度を一週間もされ続け嫌気が差して辞めていった子が何人もいたと以前店長から聞かされた。

 先に休憩室を出ていった亜里沙の後を追って荷物をまとめて駐車場に向かうと、既に亜里沙は私の車のエンジンをかけ助手席に座っていた。私もすぐに運転席に乗って車を発進させる。仕事を一週間こなしても感じない疲れがずっしりと肩や両足にのしかかった。

「左に行ってしばらくまっすぐね」

 亜里沙の言葉に従って左に出てまっすぐ走っていくと、やがて丁字路に差しかかったところでちょうど赤信号に変わり車を停止させた。隣の亜里沙は鏡を取り出して入念にメイク直しをしている。

「亜里沙、ここは右? 左?」

「あたしん家の場所わかるでしょ? そこのすぐ隣の細い道の途中にあるお店なんだけど」

 鏡を見続けたままそう返される。彼女の家なんて見たことも行ったこともない。歩行者用の信号機が点滅を始めた。

「えっと、左だっけ」

「違う。右」

 左に出しかけた指示器を右に出す。曲がり終えると亜里沙が鏡をポーチにしまう音が聞こえた。

「眞紀、あたしん家来たことなかったっけ」

「ないよ」

「そう。あ、そこの細い道左ね」

「ここ?」

 指示器を出して減速したとき亜里沙が急に声を上げた。

「違う、違う。ここを入っていくとあたしん家って言ったの。お店は一本先の道」

 私は慌てて指示器を消す。サイドミラーで後続車を確認すると幸い一台もいなかった。一本先の細い道に入り端にいる歩行者に気を付けながらゆっくりと進んでいくと、こぢんまりとしたカフェがあった。一見満車かと思ったけれど看板に駐車場は裏手にもあると書いてあった。

「あたし先に席取ってくるから眞紀は車停めてゆっくり来ていいよ」

 亜里沙が車を降りてカフェに走っていくと肩の力がごっそりと抜けた。シートベルトを外して裏手に入って行くと駐車場は二台スペースがあり、手前の方にバック駐車してエンジンを切った。早く行かないと。ブレーキから離した足は、まるで誰かに踏みつけられているかのように重かった。

「眞紀、ここだよ」

 カフェに入店してすぐに亜里沙の大声が聞こえてきた。彼女は窓際の角の席で煙草を吸っていた。

「このチーズグラタンおすすめ。値段の割に量多いよ」

「じゃあそれにする」

 亜里沙が店員を呼び、チーズグラタンを二つ注文した。出された水に口をつけたのと同時に亜里沙が言った。

「まじさあ、厨房超忙しいんだけど。店長早く誰か入れてくんないかな。あたし今日ほとんど洗い場やらされたんだよ、洗い物一番嫌いなのにさ。だからあいつにやらせてたのに急にやめるとか本当迷惑。そう思わない?」

「でも周りのみんな助けてくれたでしょ?」

「おばさんって動きが遅くてイライラするじゃん。浅川はオドオドしててキモいけど仕事は一応やってたし、ずっと洗い場やらせても文句も言わなかったしちょうどよかったんだよね」

 短くなった煙草を灰皿に押し付け、また新しいものに火を点ける亜里沙のしぐさを見ていたらひどく喉が渇いて、私はまた一口水を飲んだ。

「でもあいつってさ、絶対昔からいじめられてたよね。だって見てるといじめたくなるし、あたしが高校時代からかってた奴にそっくりだし。てかそもそも高校受験落ちてそう」

 客席全体に響き渡ったのではないかというくらい大きな声で笑いだした亜里沙。彼女が叩いた手の音に、周りの席に座っている人たちが弾かれたようにこちらを見た。でも彼女は彼らの視線に気付いていないのか或いは全く気にしていないのか、話を続ける。

「ねえ眞紀も高校時代クラスに一人はいたでしょ、ああいう奴。クラスで浮いててさ、休み時間とかケータイいじって必死に時間つぶしてるような奴。まじキモいよねえ。あいつらって何のために学校通ってるんだろ」

「勉強のためじゃない?」

「勉強ができても周りとコミュニケーションが取れないんじゃ社会でやっていけないのにね」

 空気中に漂うタバコの煙を吸い込みすぎたせいなのか、脈を打つような頭痛がする。他者を常に馬鹿にしている社交的な人気者にとっては、他者を決して馬鹿にしたりしない内向的な臆病者はただ蜃気楼のように現れては消えるだけの存在なのだ、という言葉が頭の中に浮かび、すぐに消えた。

 亜里沙が四本目のタバコに火を点けようとしたとき店員がやってきてチーズグラタンを二つテーブルに置いた。水のおかわりを促されたけれど、私は断った。目の前でグラタンを熱そうな素振りも見せずに頬張る亜里沙を見ながら私はグラタンの表面の膜をひたすらスプーンで破った。中から飛び出すように込み上げた煙が目に染みて、涙の膜が張った。

 


 亜里沙を家まで送り届けて細い路地裏をゆっくりと進み、やがて線路沿いの道に出たとき、私はそこでほとんど無意識にブレーキを踏んでいた。胸の奥がざわついてむず痒くなる。どこかで見たことのある景色だった。営業しているのかわからない古ぼけた外観の小規模な自動車整備工場。広大な田んぼ。家々に囲まれた狭い道を自転車でのんびりと進む老人。一本の電車が軽快な音を立てて通り過ぎていったのを見た瞬間、唐突に頭の中に記憶が降り注いできた。

 目の前に広がっているのは、高校に通うために乗っていた電車の、窓からの景色だ。

 車を路肩に止めてドアを開ける。電車のドアが開いたときと同じく、乾いた風が吹いていた。それを胸いっぱいに吸い込んでから再び車に乗り込み、ドアを閉めてすぐにカーナビを起動した。急き立てられるように画面を指で押し、案内を開始した。


【続】

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