キンモクセイ

篠哉

第1話

 鏡をぼんやりと眺めていると、もう一人の自分がこの世のどこかにいるのではないかと思うことがある。それは柔らかな殻を被って無防備に身体を休める深夜、または殻を破りはじめる明け方の、夢か現実かの区別がはっきりとしない薄い闇の中に佇んでいるときのことだ。

 私はしばらく鏡の前に立ち続け、そして急に怖くなる。その恐怖心は自分の途方もない考えに対してなのか、本当にこの世のどこかにいるかもしれないもう一人の自分に会ってしまうことに対してなのか分からない。分からないままに、私は睡魔に襲われ、皆と同じく静かに殻にこもっていく。次にこのことを思い出すのは、再び静寂の中で鏡と向き合ったときだけだった。



 アルバイトの休み明け、出勤して更衣室のロッカーで制服に着替えていると、厨房担当の馬場亜里沙がいつも以上に顔に笑みを浮かべて鼻息を荒くしながら声をかけてきた。私と同じ日に入った五歳年上の浅川大和が昨日無断で欠勤したらしい。

「周りと馴染めなくて悩んでるっぽいって厨房のみんなで噂してたんだけど、本当だったのかもねえ。まあ詳しいことは今日の朝礼で店長が話すんじゃないかな」

 それだけ話すと満足気に更衣室を出ていった亜里沙。彼女は同い年だけれど、高校を中退してからずっとここで働いているらしく、勤続年数はもう五年になるという。そのため店長やそこそこ長く働いているパートの主婦たちでも彼女にはどこか気を使っているフシがあり、この職場で何かがあったときの情報は真っ先に亜里沙の耳に入るようになっていた。

 案の定、店長は朝礼の開口一番に彼のことを切り出した。

「昨日欠勤した浅川だが、今朝アルバイトを辞めますという連絡があった。厨房のメンバーが一人減ってしまったがその分の穴埋めをしっかりとして、仕事に支障が出ないようにして下さい。それじゃあ昨日の反省点を……」

「あの子、本当に暗かったわよ。何を話してもはい、しか言わないの。声も小さくて教えたことを理解したのかしていないのかわからないし」

 店長の声に混じって、浅川に仕事を教える立場だったパートの黒崎さんが、周りとひそひそ話す声が聞こえてきた。中年女性たちに混じって亜里沙もしっかりと聞き耳を立てていて、周りに合わせて明らかに大袈裟なリアクションをしている。次第にざわめきはじめた空気に、私もあくびを噛み殺しながらぼんやりと浅川のことを考えた。

 彼は見上げるほど身長が高くふくよかな体格をしていて、目の下まで伸びた前髪の中から覗く目は膨れ上がった顔に似合わず、小さな子が描く犬のように丸くきらきらとしていた。ホール担当の私は彼とはほとんど接点はなかったけれど、ときたま店長を探して厨房に顔を出すと、熱気の中で尋常でない量の汗をかき前髪を激しく乱しながら洗剤の浮いたお湯の中に次々と皿を放り込んでいる姿が目に入った。その大量の汗が、お湯の中にたっぷりと投下されているのではないかと考えるたびに両腕に鳥肌が立ったものだった。その仕事ぶりは一生懸命に映ってはいたけれど、彼が辞める予感は少し前から何となくあった。仕事中はまるで何かに取り憑かれているような、急かされているような、日常の全てを忘れてたたひたすら今に没頭しているかのような尋常ではない集中力と勢いを感じるのに、休憩時間になると誰とも話さず、何もせず、ただ休憩室の椅子で虚ろな目をして壁に背中を預けて座っているのだ。きらきらとしていた目も、日に日に開いているのかいないのかわからない瞼の奥に隠れ、やがて鼻の頭まで伸びた前髪で完全に見えなくなってしまった。孤独、という言葉が彼を見るたびに頭に浮かんだ。孤独という感情に支配されてしまった人間がその場に居続けるには、周りの助けをひたすら待つか、周りを切り捨て孤高という存在になるための術を身につけるかの二択しかないのだ。彼は私の目から見ると、明らかにどちらにもなりきれていなかった。

「ほら静かに、静かに! 突然のことだからしばらくバタバタするかもしれませんが頭を切り替えて。聞こえなかった人がいるかもしれないからもう一度言いますよ。昨日はかなり反省点が多かった。接客態度によるクレームが四件も出たこと、それとオーダーミスもいつもより目立ちました。その結果、料理の提供時間も……」

 店長の話に耳を傾けているふりをしながら、ついに堪え切れなくなったあくびに私は大きく口を開けた。

 朝礼が終わると私は一足先に厨房のシンクに向かった。客席のテーブル拭き専用の布巾を濡らし水気を搾る。ホールに戻ろうと踵を返したタイミングで、暖簾を捲って厨房に入ってきた黒崎さんに声をかけられた。

「そういえば樋山さんって、確か浅川君と同じ日に入ってきたのよね」

 切り替えた頭の中が数分前に逆戻りする。もう浅川大和のことなど存在自体忘れかけていた。なぜそこまで他人に干渉したがるのか、私には全く理解できない。

「そうですよ。やめちゃったんですね、浅川君。同じ日に入ってもそんなに話したことはないですけど」

「たったの三ヶ月でしかも突然やめるなんて、根性がないわねえ。ああいう子はもう逃げ癖がついているのよね。どこに行っても同じよ」

 胸の中で逃げ癖、という言葉を呟く。ふいに頭に浮かんできたのは高校の風景。リノリウムの床に響き渡る自分の足音。耳が痛くなるくらいすぐそばで鳴り響いたチャイム。静まり返った校内。教室中の窓からの、今にも全身を突き刺されてしまうのではないかというほどの鋭い視線。

「樋山さんまだ二十一歳でしょう? 偉いわねえ、ちゃんと仕事に来て。浅川君とは大違い……」

「彼にはこの仕事が向いていなかったんですよ。彼にはきっと他の才能があるんです。人間は自分の適性に合った仕事をするのが一番ですよ」

 私は早口でそう言って、黒崎さんから視線を外して搾った布巾のシワを大袈裟に伸ばした。黒崎さんはまだ何か言いたげに私の顔を覗き込もうとしてきたけれど、結局それ以上は何も言わず仕事を開始した。私もホールに戻りいつも以上に入念にテーブルを拭いて回った。

 浅川大和は今ごろどうしているのだろうか。前向きに気持ちを入れ替えて次の仕事を探しているのか、それともこの先の未来に絶望し、薄暗い部屋に引きこもって静かに涙を流しているのだろうか。

 私には後者のような気がした。私には、彼が、過去の私に見えて仕方がなかったのだ。


【続】

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