郊外駅の神明社-恋と御縁の浪漫物語・伊勢原編-

南瀬匡躬

葉萌の愛する焼き菓子

『お前にパパの仕事は出来ないよ。ムリだ。勘八かんぱちに家業は継いでもらうから、お前は自分の好きなことをやりなさい』


 無邪気に彫刻刀を並べて、工芸家のまねごとをする少女に突きつけられたのは、まさかのお払い箱だった。弟が生まれて彼女の家の状況は一転した。

 中学を出たら美術系の工芸高校へと進学を考えていた矢先の出来事。道を失った少女は立ち直るまでにかなりの時間を要することになる。今でも思い出すだけで、当時の理不尽な出来事が彼女の心中に暗雲をもたらす。


 ぼんやりと林を抜ける田園風景の車窓を眺める二十歳をこえた彼女。そんな子供時代の父親の言葉が再び脳裏をよぎる。

『また思い出してしまった』

 何故か最近あの時の光景を思い出すことが多くなった。居場所を失った少女は、いまももがいている。言葉を放った張本人の父親は、彼女の壊れた心境を全く理解していないだろう。いや自分が言ったことさえも記憶にないのかも知れない。


「はあ」というため息。吊革を頼り体重をあずけ、重苦しい所作で彼女は俯く。

 そこで電車は彼女の家の最寄り駅に滑り込んだ。


 神奈川県伊勢原市。首都圏では丹沢山系大山詣たんざわさんけいおおやまもうでの玄関口の駅と言われることも多い。また小田急線の上級種別列車が停車する駅でもある。決して大都市というわけではないが、それなりに生活には不自由しない、程良い町が形成されている。


 ソフトケースでアコースティック・ギターを背負ったお洒落なカジュアルウエアのお嬢さんが青い帯の銀色電車から降りる。近隣の町、厚木にある楽器店で調整をしてもらった愛器を受け取ってきたのだ。


 先ほどの父親との確執。いや彼女の一方的な落ち込みと言った方が良い。

 彼女の家は少し複雑だ。両親はいるのだが、同居はしていない。彼女の名前は河床葉萌かわどこはも。河床家、すなわち彼女の両親の住む家は代々鎌倉彫の職人の家だ。つまりこの伊勢原からは二十キロメートル以上は離れた古都鎌倉にある。


 今彼女は自分の母親の実家、川蜷かわにな家にいる。川蜷家はそれなりに地元に密着した老舗の和菓子屋だ。しかも店頭で実演販売を売りにしている大判焼き店でもある。一人娘が河床家に嫁いだため跡継ぎがいない。老夫婦である祖父母はいきさつはどうであれ葉萌の同居をそれは喜んで、彼女を迎え入れた。


「ここがお前の家と思って、いつまでもいていいんだよ。お前の居場所なんだ」

 この祖父母の言葉は葉萌にとって救いの一言となった。どんな励ましの言葉よりも重くて温かいものだった。


 いつものように帰り道にご鎮座する伊勢原の大神宮、その参道に差し掛かると、決まって彼女は内宮外宮、両宮の見える位置で、遙拝してからその道を通る。すると彼女には神さまが笑顔で「おかえり」を言ってくれている気がするからだ。そう、「ここにいていいよ」と自分のいるべき場所を与えてくれているように感じる場所だった。この道を通ると不思議と彼女の孤独感は消されているのだ。そんな神明社のある風景が彼女の近所にはあった。


 大山街道にほど近い大きな交差点の手前にある和菓子屋。その店先で「ただいま」と大きく声をかける葉萌。

「おや、お帰り。ギターはなおったのかい?」と祖父は鉄板の焼き器、丸い金型に油を浸したボンボン布を走らせている。

「うん。お店で試奏したけど弾きやすくなってた」

 葉萌は大判焼き屋の屋号が入った前掛けを首に通すと腰で紐を縛る。『伊勢原大判焼』と白抜きの毛筆体でプリントされた黒い前掛けだ。そしてビニル製の手袋をはめると、その手に除菌スプレーを軽く吹きかけて、焼き終わった焼き菓子を保温機に移し替え始めた。


「それは良かった」

 そう言いながら、祖父は手を止めることなく、とろみのある小麦粉の液体をダマの残らないように丁寧にかき混ぜる。その傍らで同時に小倉あんを金属ベラで練り上げながら、彼女に笑顔を向ける。

 

 彼女の祖父は、葉萌の家である河床家であったいきさつを、今まで何一つ彼女に訊いたことがない。ただ毎日の出来事、日常生活のことを訊ねてくるだけだ。そう、不自由はないか、不満はないかといった類いだ。もともと聞き分けの良い性格の彼女は、なんの不満もない。「ここにいて良いよ」、それを言われているだけで幸せを感じているのだ。


「一冊譜面買っちゃった」と葉萌。

「おお、音楽かい。またじいちゃんにも訊かせてくれるかい?」

「いいよ。休みの日にね」

「そりゃ、楽しみが増えたな」

 笑顔で大判焼きをひっくり返す祖父。その熟練した作業は長年培った技そのものだ。


 譜面を手に入れたのは、数日前に知り合った男性のためだ。……と言っても別に、特に親しくもない人間だ。

 きっかけは彼女が毎週末に赴いているストリート・パフォーマンスだった。ギターを演奏していたときに、知り合った人間だ。いわば聴衆の一人である。

 その日たまたま彼女が演奏している途中で愛器の状態が悪くなった。弦を巻くペグの回りが悪くなり、チューニングが一曲ごとにズレる。それが顕著に起こった。


 隣町、厚木市のメインストリート。歩行者専用の商店街のタイル張りになっているアメニティ道路で演奏をしていた時だった。

 演奏の途中で手を止めた葉萌。

「なんだろ? A弦が狂う。今日は調子笛も、音叉もわすれちゃった。今日はもう終いかな?」とぼやく彼女に横から携帯用のミニキーボードを差し出す男性がいた。ワイシャツに、スーツにズボンという姿だ。三十歳ぐらいだろうか? 

 差し出されたのは、まな板程の大きさのキーボードだ。

「チューニング、したいんだろ?」

 彼女の楽器の現況を察しているようだ。なによりもチューニングが必要という調律のズレを察知できる人物と言うことだ。楽器を触ったことなどない人間にとっては、ストロークでポリフォニックの音が重なるなかで調律の狂いが分かる人はあまりいない。楽器を分かっている人だ。そしてこんなオモチャにせよ、楽器を持ち歩いている人間と言うことである。


 笑顔で差し出す彼に、「お借りしていいんですか?」と葉萌。

「あげるよ。それ程高価なものでもない……」

 そう言いかけた彼の言葉を遮るように、「それは出来ません!」ときっぱり言う葉萌。

「お堅い人だ」と笑う男性。

 二十三歳の葉萌からすれば、当然と言えば当然である。見ず知らずの人の施しを受けるなら、それなりの対価が必要だ。借りっぱなし、もらいっぱなしは性分に合わない。それ以前に気持ちが悪い。


「分かった」


 彼女が意固地な性格と見越した男性は、仕方ないという表情で、

「分かった。じゃあ、来週僕のリクエスト三曲弾いてくれ」という。

「私が分かる曲なら」と返す葉萌。

「イエスタディ、レット・イット・ビー、心のラブソング……だ」と男性。

 少し考え込んで、葉萌は、

「前の二曲は弾けます。最後のは、知りません。勉強不足です。次回までの宿題で良いですか?」と訊く。

「もちろん」

「ちゃんと練習するから聴きに来て下さいよ。晴れていれば、毎週土曜日の午後にここで歌います」

 葉萌は念をおして彼に伝える。

「わかった。じゃあ、そのキーボードを納めてくれ。対価だ」

 片手をあげて、男は去って行った。


 チューニングが終わり、葉萌は歌い始めた。徐々にギターケースには投げ銭が増えていく。そこそこの腕前と歌声だ。


 そんないきさつからその三曲を練習するハメになった。彼女は店の手伝いを終えると自分の部屋に戻る。そして買ってきたコード譜を開いた。

 明日は約束の路上パフォーマンスの日。

「ああ、ウイングス。これもポール・マッカートニーの作品か……」

 そう言って、譜面を逆さに開いて畳の上に置く。ページを確保するとPCに向かう。ダウンロードサイトから課金ボタンを押して、その曲をダウンロードした。


 すぐに再生されたその曲は、乗りの良いミディアムテンポのポップスだった。流れてくるベースラインの独特なリズムと調和音がユニークだ。

「面白いな、この曲。どうやってギター一本のアレンジに料理してやろう」と腕組みをしながら笑う。まるでまな板の前で素材を吟味する料理人の思考だ。

「このリフレインのベースラインの味は活かさないと、曲全体のイメージを聴衆に届けられないなあ」

 ああだ、こうだと言いながら葉萌は、手わすらのようにギターの指板に指をあて、当てずっぽうのコードで音を出してみる。コードを譜面から拾っては、自分なりのアレンジを加えていく。そんな夜の一コマだった。


 土曜の夕方。約束の時間だ。彼女が町中の歩行者道路にギターケースを広げる。彼女はパフォーマンスの日には背負わずにハードケースでギターを運ぶ。投げ銭用途のためだ。


 Epiphone FT-79 TEXANの六十四年製が彼女の愛器だ。マッカートニーが愛用して、あの名曲「イエスタディ」を奏でるギターとして有名である。彼女はそんなことは知らないで、親戚のお兄ちゃんから譲られたこのギターを弾いていたのだ。高価で有名な名器というのは認識しているが、この辺のエピソードは知らないようだ。


 準備が出来るとチューニングだ。そして調弦が済むと彼女はギターを鳴らし始めた。

「心のラブソング」を弾き始めると、聴衆の中にあのミニキーボードの男性がいるのに気付く。そして彼を挟むように両脇にも人がいた。知人のようだ。一人は女性。ソフトな感じのナチュラルメイクの女性だ。ヘアカタログに出てきそうなほど小綺麗にしている。

 彼を挟んで反対側にはサングラスの男性。いかにもミュージシャンといった出で立ちの革ジャンにジーンズで、腕組みをしながら葉萌の演奏を聴いている。

『対価分は演奏するわよ! 受け取りなさい』と彼女は内心歌いながら思っていた。


 彼女の演奏が終わると、拍手をしながらミニキーボードの男が葉萌に近づいてきた。

「ありがとう。対価を受け取ったよ」と笑顔の男。

 横のサングラスの男は、

「今のギター一本のアレンジは自分で? それともどこかに載っていた教本?」と訊いてきた。

「耳コピとコード譜を参考にして、いたずらにアレンジしました。原曲のイメージを崩さないように」と葉萌。

「いいね。マッカートニーはさ、ベースラインを大切にする演奏家だから、感じが良く出ていたよ。アレンジのセンスが良い」と言ってサングラスを外す。それで彼が誰か分かった。


「キス板山葵いたわささん?」と声を上げる。他の集まってた聴衆もざわめく。超人気音楽アーティストだ。

「実はね、僕だけじゃ不安なんで、今日は社長とうちのプロ、シンガーソングライターの板山葵くんにも来てもらったんだ」とミニキーボードの男。

 有名人を連れてくるこの男性、ただ者ではない、と葉萌は思った。

「あなた誰ですか?」と不思議そうに顔をのぞき込む葉萌。

「申し遅れました。僕はみかど音楽事務所の蝶鮫ちょうざめ加平かへいといいます。君のパフォーマンスを見てウチの事務所に来てもらおうかな、と毎週こっそり視察してました」と言う。要は最初から葉萌が目的で様子見をしていた業界人だった。

 そして横に立つ女性のほうを紹介して、「ウチの取締役社長の天草てんぐさ斗子とこです。一度あなたのパフォーマンスを見てみたいというので今日は同行させました」


「音楽事務所の社長さん……」

 葉萌は足がガクガク震えて、軽いめまいが視界を襲う。

 天草は上品な笑顔で、ウチのオフィスは青山なの。千代田線乗り入れの小田急一本で来れるから、一度事務所でお話しさせてもらえるかしら?」と葉萌を誘う。

「はい……」

 返事するのが精一杯の葉萌。

「私たちの音楽事務所で活動予定を立てたいの。ウチの事務所に所属してくれる?」

「その……」

 もじもじする葉萌。

 不安そうな天草は、

「何か不都合なことでも?」と訊ねる。

「ううん……」

 相変わらず煮え切らない葉萌。

「言って、何でも一緒に考えていくつもりよ」と頷く社長。


「あの……。二足わらじでもいいのかなあ、って」

「二足のわらじ? 事務所掛け持ち?」

 ブンっと首を横に振ると、葉萌は、

「違うんです。だって私、大判焼き屋の跡取り娘なんで、そこが居場所なんです」と首を傾けながら笑顔で答えた。

 顔を見合わせる天草と蝶鮫。にこやかだ。

「OK、二足わらじ、了承したわ」と天草。親指を立てて、承諾のサインを出した。


 葉萌は『だって私のいる場所はおじいちゃんとおばあちゃんと大判焼きの香りのする場所、そして「お帰り」を言ってくれる神明さまのいるところなんだもん!』と心の中で誓っていた。



       了




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