ジョバンニの乱心
カスミカ
第1話
幽霊をこの目で見るのは、初めてのことであった。
正確には、限りなく浮世離れした風貌の女幽霊。さらに突き詰めれば、此岸の住人とは思えぬ白磁の美貌を有した少女。私もこの駅を利用するようになって長いが、彼女のような女学生をお目にかかるのは初めてであった。長らく手入れされているようには思えない備え付けのベンチに水色のハンカチーフを敷き、布製のブックカバーに覆われた文庫本に目を落としている。荷物は紺色のスクールバッグのほか、傍らには大きな直方体のキャリーケースが一台。
今となっては希少ともいえる、このうらぶれた木造建築の無人駅は、夜の帳とひんやりした冷気に周囲を包まれていた。壁や柱の鎹は錆びて赤茶けており、いずれの木材も老朽化が激しく目立つ。本格的な修繕が必要だと思わせるに十分な寂れぶりだ。
このような廃墟寸前の掘立小屋に、彼女のような人間がいったい何用だというのか。
考えるのも野暮だ。彼女はそこにいるだけで画になっている。彼女がいるだけで、鼠色にくすんでいた無人駅に光が射したようにも思えた。カンバスに色が芽吹き、一輪の花がぱっと顔をほころばせた。寿命は長くなかろうが、私がその開花の瞬間を忘れることはないだろう。
紫がかった濡羽色の頭髪は顎のあたりでさっぱり揃えられ、静脈の透けるほどに色素の乏しい肌を覆う漆黒のブレザーが、一層彼女の雪を欺くほどの儚さを強調していた。狐を連想させる彼女の薄い双眼は、眼下の頁のほか、前方につめたく横たわる線路と、頭上からぶら下がる時計との視線を行き来させていた。
彼女が女子高生なら、キャリーケースの中身はなんだろう。雰囲気からして吹奏楽部であろうか。偏見を多分に含んだ邪推は留まることを知らない。ギターか、それともキーボードセットか。大きいにしたって、チェロなんてことはないだろう。
時刻は間もなく午後十一時半を回ろうとしていた。私の知る限り、彼女はかれこれ二十分はこのベンチに腰を落ち着けたままである。この路線の終電は、はてさていつごろだっただろう、恥ずかしながら路線のダイヤグラムには精通してはいないので、彼女が無事に終電にありつけるかどうかはわからなかった。こんな夜更けにうら若い乙女がいたずらにふらふら彷徨することに眉をひそめない者など、一握りの変質者を覗いてそうそういないだろう。私とてそうである。いかに女性と親密な付き合いに至ったことがなく、特定の異性と懇意になった経験もない私であっても、紳士として必要最低限の品性は取り落としていないのである。
駅の周りに繁華街などという粋なものはなく、改札を過ぎれば舗装もろくにされていない野ッ原とあぜ道が一面に広がっているだけだ。タクシー乗り場はおろかバスターミナルもない。スマートフォンの台頭によって駆逐されつつあるという電話ボックスもない。草原、草原、野原にあぜ道けもの道。そして山。ホームで燦々と輝き続ける飲料自販機の補充にやってくるであろう人間が恐ろしく苦労しそうな立地に、この駅はあるのだ。おまけに駅を出れば足元を照らす街灯などほとんどない。少女ならなおのこと、まともな感性を有しているのならば、成人男性であろうと、この周囲を用もなくふらふら出歩くことはしないだろう。
迎えでも待っているのだろうか?
いや、それにしたって遅すぎるんじゃあないか?
年頃の娘をこんな夜分遅くまで放っておくなんてありうるか?
そも、迎えに来るにしたってどうやって?
山に囲まれた盆地のような場所にある駅だ、おまけに舗装道路すらないんだぜ。四輪駆動車でも持ってくるつもりか?
なんだかこちらの方が不安になってきた。当の少女は、相変わらず表情を浮かべぬまま、頁に敷き詰められた文面に目を走らせるだけだ。きっと、周囲が帰宅ラッシュの様相を呈していたとしても、何食わぬ顔で彼女ならこうしているだろう。彼女の醸す雰囲気は、そんな不特定多数の一般人とも、この寂れた無人駅のそれとも隔絶しているように見えた。最初に私が不躾にも彼女を幽霊だと思い込んだ背景には、そんな理由があったのだ。上村松園の描く、愁いと哀傷を孕んだ尋常ならざる者の化身だ。
ただ、そんな印象はただの私のくだらぬ妄想に過ぎない。初対面の人間を幽霊扱いする道理などなく、だいいち足だってちゃんと両方揃っている。薄手のストッキングに包まれた佳麗なおみ足がしっかりと伸びているではあるまいか。
考えれば考えるほど、居ても立っても居られない心地になってくる。
思い切って、そりゃあもう、私にとっては思い切って、声をかけてみた。
「なに、読んでるんで?」
一瞬、彼女はびくりと肩を震わせた。
当然である、縁もゆかりも因縁もない私から不意打ちのごとく、くだらん世間話の弾丸を背後から撃ち込まれたのである。口を開いた後から後悔する羽目になった。
「な、なかなか電車来ないな、人身事故でも起きたのかなあ」
弁解の言葉も浮かばぬまま、間髪入れず世間話を続行してみることにした。
「でもマジで困っちゃうよ、おれ携帯とかスマホとか持ってないから、こういうとき立ち往生するほかなくて」
「事故なんて起きてないわ、今夜は全路線定刻通り運行中」
「え?」
「十時の時点で、首都圏近郊の鉄道路線で五分以上の遅延は発生していないわ。東京メトロ各路線、山手線、京王線、東横線いずれも平常運行」
外見からの想像より低めの声色で、彼女ははっきり断言した。
少女はさりげなくブックカバーを外してくれた。文庫本の内容は、銀河鉄道の夜だ。視線だけは手元からぴくりとも動かさず、彼女は続けた。
「さっきこの時刻表も確認した。もう終電は過ぎた……というより、その終電で私はここまで来たのよ。きっと……そう、きっとね」
「きっと?」
「長いこと電車に揺られて、さっきまで眠っていたんだと思う。七月にしては妙に肌寒くて、起きたらここにいた。多分、そう、寝惚けていたんでしょうね」
「長いことって……いったいどちらにお住いなんで?」
「住んでるのは東京。渋谷。実家は神奈川」
短く簡潔に、きっぱりと言い切る口調を続ける少女が、嘘を言っているようには思えない。
「あの、学生だよね」
「この時間だから、目につく女は全員水商売やってるように見えるかしら」
「そうじゃなくて……その、夜道にこんな田舎にまでやってくるのは危なくないかと」
「田舎、ねえ」
「このあたり、本当に何もないんだよ。コンビニはおろかガソリンスタンドだってない。タクシー呼ぼうにも電話ボックスだってない」
「おまけにスマホも圏外だから参るわね。電波が途切れないうちに遅延情報チェックしておいてよかった」
やたらと涼しげに少女が言った。
「それで、やけに世話を焼いてくれるあなたはいったい誰?」
「お、おれは……おれは別に、大したものじゃないよ。こんな夜遅くに君みたいな子が一人でいるから心配になって」
「ふうん」
さもどうでもよさそうに、少女は鼻を鳴らした。
「『きさらぎ駅』ってさ、あなた知ってる?」
「なに……駅だって?」
「『きさらぎ駅』よ。漢字やカタカナでなく、ひらがなで『きさらぎ』」
「君の家の最寄り駅?」
こちらの言い分を完全にスルーして少女は続けた。
「都市伝説。終電も近い時分になって電車に駆け込んだはいいものの、走れども走れども次の駅に到着しない。二十分も三十分もヤキモキしながらゆらゆら揺られて、ようやっと着いた途中停車駅で、快速にでも乗り間違えたかと下車してみれば、そこは存在しないはずの駅だった……っていう、一昔前にネットで流行った怪談話。十中八九釣りだったんだろうけど、よくできたお手軽ホラーだったからみんなして飛びついて、けっこう流行ったのよ」
「薄気味悪いな」
「私の置かれた状況としては、そうね。あなたの言うように、薄気味悪いくらい、この胡散臭い都市伝説の要項に一致しているもの」
「なんだい……それは」
「そういう不気味な現象に遭遇したって自称する人の書き込みの通りの出来事が、私の身に起こっているかもしれない、ということ」
「……続けてくれ」
なんだか、背筋を冷やした寒天で撫ぜられたような気分だ。
「『きさらぎ駅』を降りた周囲は草原だとか山だとかが広がっているばかりで、人家の一軒も見当たらない。ソースによってはまちまちだけど、スマホの電波が途絶する。実家に助けを求めることもできないし、諦めて線路を伝って徒歩で帰ろうとすると、突然誰かに声をかけられる」
「お、おれはそんな妙な下心があって声をかけたんじゃ……」
「振り向くと、そこには腕だか足だかが欠けた老人がぽつんと立っていた。あなた、お爺さんでもおばあさんでもないでしょ? それとも口先だけ若者ぶってるだけだとでも?」
これでも若くも気高き童貞なのだ、まだ枯れなどしてはいない。
「それで、そこから逃げると大きなトンネルに行き当たる。あなたの証言が正しければ、どちらの方向を辿っても、山を抜けるためのトンネルくらいありそうなものよね」
「トンネルか……あったかなあ」
「必死になってトンネルを抜けようとするも、周りからは聞こえてくるはずのない笛と太鼓のお囃子がひっきりなしに響き渡る。遠くの方から徐々に、徐々にこちらに近づいてくる。もうだめだあ、と思った瞬間、その人はトンネルの出口に誰かが立っているのを見つける……親切なその人の勧めに従って街まで送ってもらおうと、彼の乗ってきた車に乗り込むと……あら不思議、今度は別の男がやってきて、謎の超能力でドライバーを消滅させてしまった。曰く、車から降りて自分のいるべき場所に戻れ、と。男の言う通りに、山林の闇の中でかすかに灯る光だけを目指して歩いていくと、気が付けば自宅近くの最寄り駅にぽつんと立っていた。下車したあの日から七年の時を経て、その人は異世界から戻ってこれた」
「七年間……その人はおかしな世界に囚われていたってことかい」
「これもソースによって情報は異なるけど、時間の流れが外界と違うから、らしいわ。よくあるじゃない、神隠しに遭って行方の分からなくなった人間が、浦島太郎よろしく何年も後になってからひょっこり故郷に顔を出すって話」
「時間旅行にしては趣味が悪い話だな」
「同感。けど、このどこか収まりのよくない結末と、あまりに身近に起こりうる要素の数々が当時のネットユーザーの好奇心をつかんだんでしょうね。ただ、私の周りで広まった『きさらぎ駅』の噂は、もう一回りタチが悪い」
「これ以上悪い冗談はもう聞きたくないな」
「駅自体が、生きた人間を食らう化け物だっていう噂。魂を喰らい、時間を喰らい、最後には精神と生命を磨り潰す。たとえ五体満足で外界に戻ろうとも、決して解けない呪いをかけて放り出す……メンタルの荒んだ人間を探り当てて、意図的に異世界に引きずり込んで、それから食い殺す。周囲は心労がたたって自ら命を絶ったと見做すんでしょうね」
「えらく悪質……というか、そうなっちゃうと不気味な現象というか、なんだか妖怪みたいだな」
「恐らくは伝播されるにつれて付け足されていく尾びれ背びれの類でしょうね。フォークロアとは得てしてそういうものよ、他人の認識を介して広汎に渡っていくという性質上、贅言で肥え太ってしまうリスクは決して避けられない。露悪的な設定はバカの興味を引くもの、いずれはそうなる定めだったと言ってもいいわ。信じるに値しない荒唐無稽な妖怪語り、そうなってしまったら、今度は対処法なんてものも考案されるかもしれない。頭にワックス塗り付けてハッカ飴を一瓶抱えて電車に乗り込めば、『人食い妖怪きさらぎ駅』を撃退することができる……とか、そんなようなね。得体の知れない怪現象でも、そうして擬人化させてしまえば途端に異常というレッテルは剥がれ落ちてしまう。人間の脳が辻褄を合わせて認識できるようになったとき、その怪異は死ぬ」
「ええと……どういうこと?」
「私はそもそも信じてないもの、『妖怪きさらぎ駅さん』とやらを。人間は怪異になんか殺されないわ。そんな不確かなものに、人は殺せない」
またしても毅然と彼女は言い切った。感情の起伏を垣間見ることはできないが、名実ともに地に足の着いたその振る舞いは、胡乱なあの世の住人からは遠くかけ離れて見えた。スマートフォンはおろかパソコンすらろくに触らぬ私はといえば、彼女の語る内容を咀嚼するのに精いっぱいだった。怪現象がどうこうなど、門外漢もいいところなのだ。
「このあたりには詳しいの? だったら始発の時間は分かる?」
くだらないゴシップ語りはもう終わりだと言わんばかりに、少女は話題を変えた。
「いや……わからない」
「あっちで確認した時刻表、始発の時刻が書かれてる箇所が劣化して読めなくなってた。だいたいの予想でいいから、教えてもらえないかしら」
「い、いや、本当にわからないんだよ」
「あなた一体何ならまともに説明してくれるっていうわけ」
「すまない……だっておれ、ふだん電車に乗り降りすることなんてないし」
自分でも何を言っているのかわからないマヌケな弁解であった。
「こっちからも質問。あなたは誰……というか、何? この辺に住んでるの?」
「ああいや、よく覚えてない。都内なのは……うん、間違いない」
「それじゃあもう二つだけ質問」
両手を本に添えたまま、少女はおとがいを上に向けて、私に問いかけてきた。
肉眼で捉えられる道理のない奇妙な会話者(私のことだ)の姿をあえて探そうとせず、しかしホーム全体に聞こえるように、彼女は声を張り上げた。
「ここで誰か死ぬのをあなた、見たことはある?」
どう答えを返すか、すこし私は悩んだ。
少女の前では真摯でありたかった。
ただ、消極的な童貞でしかない私は、先ほど少女の語った悪趣味な妖怪と同列に思われるのは嫌だった。少しばかり逡巡した上で、私は答えた。
「ああ、あるよ。何度も」
「それはあなたがやったの?」
「とんでもない! おれにそんな大それたことできるはずないだろ」
紛れもない事実である。仮に私が他人に恨みを抱く大怨霊や妖怪だったとして、生きた人間をどうやって縊り殺せるというのだろうか。私は非力である。どうしてこの待遇に至ったのかも定かでない、甲斐性無しである。そんな私が、どうして人間など殺せようか。この人間かどうかすらアヤフヤな身分で、金属バットを振りかぶってウラメシヤとフルスイングしてみせればよいのか。無理である。想像できない。バットを奪われて反撃されかねん。私のような小心者の想像力などこんなものなのだ。
死ぬところを見たとは、すなわち自殺の瞬間を目撃しただけに過ぎない。
土気色の顔をした老若男女が、三日に一度はここに訪れる。
彼らはまさしく生ける屍だ。落ち窪んだ眼窩に生気はなく、衛生に気を遣う意識を取り落としたのか、例外なく不潔できつい体臭がにおうのだ。身体組織が腐敗したわけでも、重篤な傷病に罹患したわけでもない。総じて彼らの身体は生きていた。二本の足で立って歩くことはできていた。
死んでいたのは、きっと心の奥の方だ。ひび割れた心の傷が化膿して、それが悪化したなれの果てなのだ。臓腑は不随意に生命活動を継続する。心臓は物言わず動き続けるし、肺腑は人間の意識とは別に血管へ酸素を供給する。肉体に肉体を殺すことはできない。肉体を、人間を殺すことができるのは人間だけなのだ。
こんな駅でも、一晩に十数本かは電車が訪れる。というより通過する。それを見計らって、彼らはストンとホームから飛び降りる。先頭車両の運転士は知ってか知らずか、かくして人間であることをやめた人間もどきの人生はこれにて幕を閉じるわけだ。
実際に何度か声をかけたことはあったが、大半のケースは無視に終わった。何人かは反応を返してくれたが、まともに会話にならなかった。あとは、ことばのキャッチボールが続いたところで、急遽会話を打ち切って鉄塊に体当たりしに行ってしまう者ばかりだった。
彼らは死体だったのだ。砕けた魂が辛うじて収まって動いていただけの骸だったのだ。
少女は違った。肉と骨より先に、私には彼女の霊魂が真っ先に目に入ったとでも言えばいいだろうか。彼女からは悪臭はしない。無臭だ。彼女はおかしな奇声で会話を打ち切らない。実に理性的だ。人間であることをやめていない。ほれぼれする。だからこそ私は花に例えたし、なおさらにこの駅が場違いも甚だしく思えたのだ。
「今から見せる人に心当たりはある?」
少女は文庫本に栞を挟んでから、スマートフォンを取り出した。画面に表示されたのは、彼女と同年代の女学生。明るい栗色に染めた頭髪がまぶしい、快活そうな少女だった。
「東村璃子。十七歳。私の知り合いで、同級生。次が高久楓。横浜市立S高等学校の二年生。ふたりは東京メトロ東西線西船橋行の電車を利用し、直後蒸発。その次は綾瀬慧一。青山の男子高校生。渋谷から東急東横線の電車に乗り込み、SNSに遺書めいた奇妙な書き込みを残して蒸発している。竹田昭二、三八歳。私の学校の教員。失踪前日、彼の定期券にはJR湘南新宿ラインの利用履歴が残っていた。自宅の最寄り駅でなく、また下車した記録のないままで」
少女はスマートフォンをかざしたまま、次々と人々の映った写真をスワイプして切り替えていく。いずれの顔にも見覚えはあった。ここでの表情はだらしなく弛緩していたが、生前の姿を見ると、どうにも居た堪れない気分になった。
「知っているよ。どの人もこの駅で降りた。この駅で死んだんだ」
すべての人間を最期まで看取ったわけではないが、そこまでしてやる義理はない。自分に言い聞かせるように、私は言った。
「おれにはどうにもできなかったんだよ。何人かは声をかけたし、できる事なら止めてやりたかったよ。でも無理だったんだ。だって今のおれは、君みたいに生きた人間じゃないからさ」
私の視界を始めとする五感は、この駅のホームの中に偏在している。どういった理屈が働いているかは、説明のしようがなかった。そうとしか言えないし、現に私には少女の姿が三六〇度のあらゆる方位から観測できている。観るというより、そう認識していると表現した方がいいのだろうか。感覚器官だけを備えた巨大な、それでいて透明な脳みそにでもなったのかもしれない。私には鼻も口も眼球も、耳さえもない。私の貧困極まる伝達力では、こんな妄言を少女に表現するのも骨が折れた。
そんな私の苦労も、彼女は意にすら介さなかった。
「彼女は、ここに来た?」
スマートフォンが最後に提示した画像には、少女と同じデザインの女子制服を着た女学生が映っていた。黒縁の地味な眼鏡をかけ、頭髪は広く額を見せつけるワンレングス。化粧けがなく、華やかというより垢ぬけない。決して不美人ではないにせよ、妖艶な彼女に比べると、どことなく野暮ったい雰囲気の素朴な少女であった。
「芹沢はぎ。十八歳。A大学附属高校三年生。部活動には所属していない。身長は私より少し高い一八四センチ。体重は七五キロ。母子家庭ながら暮らしぶりは比較的裕福。取り立てて過去に重大な傷病や感染症を患ったことはなく、持病はなし。定期的な学力考査試験での成績は非常に優秀、特に地理、世界史、数学の分野に取り立てて秀でる。交友関係に不純なものはなく、世間一般でいう優等生……」
「やけに、詳しいんだな。その人のことだけ」
「友達だったから」
「友達、ね」
「読書が好きな子だったわ。あまり派手な遊びは好きじゃないようだった」
膝元に置かれた文庫本を掴む手に、力がこもっているようだった。
「形見なのよ、彼女の。賢治のイーハトーヴォが好きだった」
見開かれていた眼が、徐々に伏し目がちになっていった。
「私には彼女のほかに会話の相手なんていなかったし、友達と呼べそうなほど気の置ける他人は芹沢しかいなかった。芹沢は何にでも詳しかったわ。会話の引き出しがとても多かった。あの子は話し上手じゃなかったけど、彼女に最近の趣味やくだらない悩み事を打ち明けるだけで、こっちの気分がとても良くなった。そんな一方的な依存はよくないと思いながらも、私は彼女との付き合いをやめることはできなかった。だから、気づけなかった。彼女が、ここに迷い込むまで」
私は少女の独白を黙って聞いていた。
「来たんでしょう?」
私の沈黙の意図を理解したのか、少女は念を押すように確認してきた。
「芹沢はぎはここに来た。死体みたいな不景気な顔で下車して、線路の上で大の字になって、そうして死んだ」
私は否定しなかった。記憶の中にある芹沢はぎの相貌は必ずしもスマートフォンのものと違わず一致したわけではないが、彼女と同じ制服を着て、眼鏡をかけた少女など、一人しか思い浮かばなかった。確かに、芹沢はぎは死んだのだろう。無知で無能な私の目の前で。
「友達だった。大切だった。産まれた助産院だって同じだったし、使うチークやリップのブランドだって同じだった。小学校も中学も高校もずっと同じ。だからよ。だから気づけなかった。だから、芹沢がこんな場所に招かれて死んだことに気が付かなかった。勉強や部活動が忙しかったから、なんて言い訳をするつもりはないわ。芹沢が駅に食われるほど、精神的に消耗していたことを察せなかった鈍感な私がいちばん悪いのだから」
ここが、この場所こそが『妖怪きさらぎ駅』なのだろう? そう言わんばかりの口調で、少女はなおも続けた。
「彼女の遺体はまだ見つかってない。あの子の両親が警察に捜索願を提出してから、半年近く経っている。私も私なりに彼女を探した。クラスメイトの情報通や不良教師のほっぺたを金で叩いたし、興信所にも安くない金額を支払った。思いつく限りのことは何でも試した。でも、何の手掛かりも得られなかった。こうして、今日初めてこの駅に下車するまではね」
「それは、つまり……」
「私もこの駅に引かれてノコノコやってきた、きっと餌に過ぎないのかもしれないわ。このままここに居れば、いずれは私も彼女の後を追って自殺するのでしょうね。それはそれで、客観的には美談にも見えるかもしれないから、あまり悪い気分じゃあないけど」
「待ってくれ。どうにも、おれには解せない。仮にこの駅や、そしてこのおれが君の言うような人食いの化け物で、心の弱った不特定多数の人間を呼び込んで食い物にしているとして、だ。おれには、君が芹沢はぎや、この駅で死んでいった人たちみたいな人種には見えない。君はこうやって、得体の知れないおれと理性的な会話のやりとりができている。君の話すことは……倫理的にはどうあれ、首尾一貫としていて破綻がない。ここで下車してくるのは、いわば……心が壊死した人間だけだから」
それが、幾人の死を無感動に眺め続けてきた私の見解であった。
「あの人たちは口々に言うんだよ。死ぬしかないって。それしかないんだって。心臓が勝手に動き続けるからただ消極的に生き続けているだけだって」
「私は積極的にハキハキ生きてます、なんて自称する人間がいたら、少なくともお近づきにはなりたくないわね」
少女は感情を込めずに吐き捨てた。
「でも、現に私はこの屠畜場みたいな駅のホームにいるわ。ええ、そうね。私も、辛いのよ。死んでしまいたいくらい辛かったわ。あの子が、芹沢が、誰にも弔われずにいるのが悔しかったのよ。誰も彼女を骨を拾ってやれなかったことが、何より悔しい。あの子が生きてさえいれば助けになれた、なんて傲慢なことを主張するつもりはないわ。でもね、あの子がいたから私は今まで生きてこられたの。だからこそ、私は私のできることをした」
「できること……?」
「餌になろうとしたわ。手始めに、あの子の失踪の原因を洗うことにしたの。これは高校生ふたりに金を貢ぐだけで済んだ。それで分かった。彼女が蒸発という手を択んだ理由は、多分だけど痴情の縺れ。これは対して珍しい死因じゃないでしょうね、清姫と安珍の時代からの定番だもの。教師と生徒の関係だって、それと同じくらいに」
矢継ぎ早に、嘲るように少女は語った。
芹沢はぎは、ここで死んだ教員の竹田昭二と関係を持っていたのだという。母子家庭だから金に困っていた、ゆえにあの竹田に体を売っていた。そんな下卑た答え合わせは、彼女には必要なかったのだろう。関係を持つに至った理由を子細に語ることなく流し、少女はただ滔々と事実を述べていった。
「それぞれブログやSNSの個人アカウント権限を使って全部調べたわ。竹田自身は金だけで繋がった関係で済ませたかったことも、芹沢本人は、哀れなくらいあの男に入れ込んでいたことも。金の出処を巡って、母親との関係が険悪になっていたことも。私に、会いたくないと綴っていたことも。二度と私の顔は見たくないって書かれてたわ」
「そこまでのことを、どうやって……」
「言ったでしょう、何でも試したって。竹田の遺品だって漁ったし、芹沢の家にも忍び込んだ。東村璃子のことも、高久楓のことも、綾瀬慧一のこともそれで知った。それで、確信したの。いいえ、確信なんて格好のいいものじゃない。きっと、私は餌に相応しい存在に昇華したんだと思う」
彼女がこの駅へ降り立った経緯は、おそらくこうだ。
『妖怪きさらぎ駅』の眼鏡にかなうメンタルに自分を追い込んで、自らこの異世界に足を踏み入れたのだ。友人を弔いたいがために、自らの安否すら抵当に入れて。
「何度も何度も死のうと思ったわ。芹沢に嫌われていたことを知ってから毎日毎日、早く暴走トラックが私を轢いてくれないか願ったわ。空から旅客機でも落ちてきてくれないかと願ったわ。食事だって喉を通らないし、生理だってずっときてないもの。でも、こうして妖怪が私を手に取ってくれたかと思えば、少しは報われるというものだわ。薬に手を出す前に迎えに来てくれるなんて、意外と優しいところがあるのね」
わずかに少女の唇が歪んだ。笑っているらしかった。
「芹沢が最期に息づいていた場所に立つことができて嬉しいの。本当に、全身がそばだつくらい、幸せよ。今私は、世界中の誰よりも芹沢に近い場所にいる。こんなに素晴らしいことはないわ」
一本の線のように細められた両目から、一対の輝く筋が頬に弧を描いた。雪原の如くに白かった肌は、やがて薄桃色に高揚していく。感極まった少女は両の手を口元に添えて、きわめてしずかに慟哭し始めた。
「後を追おうと考えているのかい」
私の口をついて出た言葉は、なんとも陳腐な呼び止めだった。これまでさんざん口にしたものの、生ける屍たちの耳には一度たりとも届くことのなかった綺麗事だ。
「それだけは、やめた方がいい。この駅が外界の人間を呼び寄せて人を食う化け物なら、食われた人間の死が更に多くの人の心の壊死を招く。君の言うことを信じるなら、そういうことじゃないか? 竹田という教員が死に、芹沢という少女が死に、そして今度は彼女にゆかりある君が死ぬ。そんなのは、ダメだ。君は死ぬべきじゃない。君は、ここで降りた誰よりも強くて、綺麗だ。おれは君に、彼らみたいな死骸を晒してほしくないんだよ」
「何を勘違いしているの」
心底おかしそうな口調で少女が言った。初めて、彼女が感情を乗せた主張をしてくれたことが、私はどこか嬉しかった。
「私が死んだ死なないは二の次よ。私の目的は、芹沢を丁重に弔ってやること。ただそれだけなんだから。もしかしたら、彼女は友達甲斐のないつまらない女の私が嫌で嫌でたまらないから自殺を択んだのかもしれないじゃない? それなら後を追いかけるのは憚れるというものでしょう。死人に鞭を打つようなことはしたくないわ」
すっくと少女は立ち上がり、傍らの壁に立てかけてあったキャリーケースを開封した。収納されていた物品は、楽器にかまける高校生に似つかわしくない物騒なしろものばかりだった。
最初に取り出した、赤みがかったオレンジの十リットルポリタンクを足元に置き、少女はケースの中身をごそごそ確認しだした。
「ガソリン十リットル、個詰めのプラスチック爆弾五,八キログラム、産業用含水爆薬六,二キログラム、エトセトラエトセトラ。これだけあれば、どれか効くでしょう。怪奇現象が駅という形態を取っている以上のことはわからなかったから、爆破解体に必要そうなものを見繕って持参してきたの。ガソリンは、どうしても彼女を荼毘に付してあげたくて」
どこからそんな危険物を調達してきたのか疑問に思ったが、「何でも試したと言ったでしょう」と返されるのが落ちであろう。
「一応、聞いておきたい。それをどうするつもりなんだ」
「使うの。ここで。できれば全部。この不愉快極まる悪趣味な自殺現場をまとめて地図から消してやるのよ。そのためにわざわざ来たのよ、私は」
路線図にはもともと載っていない駅にも、彼女は容赦がなさそうだった。ぴんと背筋を伸ばし、黒板に板書していくかのような優雅さで、彼女は老朽化の進んだ壁面にプラスチック爆弾とダイナマイトを仕掛けていく。ホームだけでなく駅舎まで念入りに粉砕してあげなきゃと配慮を覗かせ、そちらにはまんべんなくガソリンをぶちまけていた。
「ヘタすりゃ君も死んじまうぞ」
「ここにいたら、遅かれ早かれ死ぬんじゃないかしら。電車に轢かれて死ぬか、発破に巻き込まれて死ぬかの違いだわ。でもね、少なくとも私は芹沢の供養という最大の目的は果たせるの。それがどれだけ素敵なことか、あなたにわかって? 絶望に足を取られながら、私は幸福の内に死んでいくのよ。万一、私が生きて帰れれば御の字。たとえ私の命が尽きたとして、『妖怪きさらぎ駅』とやらをこの手で抹殺することができたのなら、勝ちこそすれ負けではない。私は死ぬためにここへ来たわけじゃないわ。ただ、勝つためだけにここに来た。私の魂は私が思うままに生きて、それから死ぬべきなのだわ。人間の口伝の中でしか生きられないチッポケな下等生物なんかに左右されてたまるものか。芹沢の尊厳だけは、必ず返してもらう」
三分の一ほど残ったガソリンをホームにすべて撒き終えて、少女は狂気と隣り合わせの覚悟をたたえた微笑みを浮かべていた。それは確かな勝利宣言にも等しい表情であった。
「ここが消し飛んだら、いったいあなたはどうなるでしょうね。寝床がなくなるのは嫌? ここで私を誑かして落ち込ませておけば、発破は阻止できるかもしれないわよ」
「言っただろう、おれは人間の生殺与奪を握れるようなタマじゃないんだ」
再三主張している通り、私は人を殺したりできる存在ではない。そも、自分がいつからここにいるのかわからないような無知無能の体現に、いったい何ができるというのだろう。そして、これから起こることも、きっと私の預かり知ることのないところによる出来事なのだろう。
私が自分の無能をきっぱりと宣言した次の瞬間、ガソリンの異臭が漂う駅構内に汽笛の音が高らかに響き渡った。
「何……何の音?」
これには少女も驚いたようで、しきりと顔をきょろきょろ動かしていた。
汽笛の音。列車の来訪を知らせる音。
この無人駅に停まるはずのない、始発列車だ。
「ここは終着駅だ。客を下ろしたら、総じて乗り入れた電車は照明を落として回送に切り替わる。きっと、今から来る列車は終電じゃない」
「あなた、何を知ってるというの。無能を自称しておいて」
「考えりゃあわかるだろう。ここは死者が真に死ぬためだけにある袋小路なんだぜ。そこに、妙な小細工を重ねてやってきた君が歓迎されるはずないだろう。君はまだ、確かに生きているんだから」
私にしては居丈高な発言であった。今なお怪訝な顔をしている少女の眼前に、やがて強烈なヘッドライトの光を伴って列車がホームへ参上した。パンタグラフはない。やけに古風な旅客車両を引っ張ってきたのは、真冬の夜の海を連想させる黒い輝きを放つ蒸気機関車であった。濛々と煙突から白い煙を吐き出すさまは、少女ともどもこの死者の駅に似つかわしくない力強さを誇示していた。それにしても、内燃機関が気化したガソリンを発火させないものか、私は心配でしかたなかった。
『午前零時十分発ゥ~、JR東西線南十字方面行ィ~お待たせいたしましたァ~、遅延の発生を心からお詫びいたしますゥ~、ご迷惑をおかけしてェ、誠に申し訳ございませんでしたァ~』
性別を判断しかねるような、間延びした初老の放送がホームに流れ出した。
「何よこれ、どういうことなの」
「迎えだよ、たぶん。おれもこんな列車は初めて見た。ずいぶんな重役待遇じゃないか」
「初めて……?」
「始発列車が停まるなんて、初めてだよ」
『当始発以降ォ~、本日の南十字方面行列車の運行は未定となっておりまァす。お乗り遅れのございませんようご注意くださァい、駆け込み乗車はァご遠慮くださァい』
この駅唯一の生者である少女を招くように、客車の引き戸がひとりでに開いた。木目調の内装と暖色系の照明が、穏やかに客車を彩っていた。
「乗りなよ。これを逃せば、きっと君は死んじまう。おかしな賭けで命を粗末にするもんじゃないぜ」
「言われなくても、そうするわ」
毅然とした口調を維持していた少女の語気が僅かに揺らぎ、震えていた。
「元からそのつもりなんてなかったわ、勘違いしないで。私は死ぬつもりなんてなかったんだから」
「わかってるよう」
「芹沢の、仇を取りに来ただけなんだから。世の中イヤになったとか、そんなこと、思ってないんだから」
しきりに瞼をしばたかせて強がる少女は、はっきり床を踏みしめて、客車の中へと歩いて行った。
「あなたも」
「なんだい」
「あなたも来るのよ。これに乗って帰るのよ」
「そいつは無理だろうなあ。おれには頭もなければ手も足もないもの」
これから廃墟と共に爆破解体されようとしている身の上でありながら、不思議と私の心中は穏やかであった。むっすりと早口でまくしたてるだけであった彼女の鉄面皮が剥がれるのを見られたことが、そんなにも喜ばしかったのだろうか。我ながら単純な性格である。
「おれはきっと、君が言った通り、駅の化け物なんだと思う。たださ、実際人間をとり殺すと言っても、おれはどうしたらいいのかわからないんだ。君の言う『妖怪きさらぎ駅』だって、直接人間を手にかけて殺すわけじゃないんだろ? だからおれは、オバケにしても妖怪にしても中途半端に出来上がるしかなかったんだ」
そうでありながら、心を病んだ人間を呼び寄せる妖怪として噂が結実してしまった結果、きっと私という無能な存在が産まれてしまったのだろう。
「仮におれなんかが君について行ったら、妙な噂がさらにねじれておかしなことになるかもしれないだろ? 君の後を追うなんてごめんだね」
少しばかり、少女の考えを真似てみた。
「駅を解体したら、あなたはどうなるのかしら」
「わからない。でも、やってみる価値はあるぜ。おれもここにずっといるのに飽きてきた」
餞別代わりの軽口に、初めて少女が苦笑してくれた。やっぱり、今まで私の目にしたどの人間よりも美しく愛らしい。
『南十字方面行列車ァ、間もなく発車いたしまァす、落とし物お忘れ物にご注意くださいませェ~』
車掌の放送が流れるのと同時に、客室のドアが閉まった。少女の姿が見えなくなった。発車を知らせる汽笛が再び鳴り響き、動輪が音を立てて廻りはじめる。
緩やかに速度を上げながら、サザンクロス行きの銀河鉄道が走り出した。
「なんともお強い幽霊だったなあ」
私は独りごちた。
やがて客車の窓の一つが開け放たれ、くだんの少女がひょっこり顔をのぞかせた。
置き土産と言わんばかりに放り投げられたのは、火のついたマッチ棒である。頼りなげな灯は敷き詰められたガソリンに着火して、間もなくホームと駅構内は火炎に包まれた。間髪入れず、柱や壁面、抜かりなく反対側ホームにも仕掛けられたプラスチック爆弾とダイナマイトの信管が遠隔より作動し、発破。爆轟が大気を震わせ、人食い駅と称された私は、完膚なきまでに爆砕された。機関車が過ぎ去った後には、古びた材木を火種に燃え盛る火柱だけが残された。
また彼女に会いたいなあと思う反面、お強いあの子は二度とこんなところへ来てくれないだろうなあと、私の思考は自己完結した。
そう思うと、私は少しだけさみしくなった。
ジョバンニの乱心 カスミカ @ksmika
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