解決編あるいは見えなかったもの

 そんなはずはないだろうと辺りを見回すが、新木以外は見当たらない。な、何をしたんだ?

「もちろん、何もしてない。ただの錯覚、勘違い。おしまいおしまい。帰ろうぜ」

 新木はスマホをポケットにしまい、橋に背を向けてそのまま歩き出す。橋を渡らず、来た道を戻るつもりのようだった。僕は一度だけ橋を振り返る。変わらず、そこには誰もいない。誰もいないのなら、話すこともできない。仕方なく新木を追いかけながら言う。


 なぁ、新木。

「なんだよ?」

 君は勘違いだって言うけどさ。

「うん?」

 いないものをいるものと勘違いするより、いるものをいないものとして無視する方が、なんというか、居心地が悪いような、気がするんだが。

「そりゃあ、お前の言ってることは正しいよ。無視されるのも無視するのも寂しいもんな」


 寂しい。そういうことなのかもしれない。居心地の悪さに名前をもらって納得していると、新木は小さく呟いた。

「名前が残ってたらまだ、手順が踏めたんだけど」

 手順?

 その言い様は逆説的に彼女の存在を肯定しているようにも思える。


「それはそうと広橋、お前の方はまだ帰らないの?」

 どういう意味だ? いまから帰るんじゃないのか? こう、地道に歩いて。

「オレはそうだけどさぁ。……引きずられてるのは切れたはずなのに、何が足りないんだろ」

 うん? さっぱりわからん。


 新木は説明しようとせずにまたスマホをいじり始めた。どうやらまた遠足の時の写真を見ているようだが、歩きスマホはどうなんだ。こんなところで人にはぶつからないだろうが、足元に気をつけろよ。

 こちらの注意を聞いているのか聞いていないのか、画面をスライドして写真を眺める新木の指が止まった。


「あ。もしかして広橋、そっちも勘違いしてるな?」

 そっち? どっちだ?

「お前、高いところ苦手だから、橋渡るとき下見てなかっただろ」

 別に苦手ではないと言っているだろう。本当だぞ。

「これがいいかな。ちょっと見ろよ。ここ、橋の下」

 新木が差し出してくるスマホをおそるおそる覗く。写真は吊り橋を渡っている途中に下方を撮ったものらしい。こんなの撮ってる新木の方が、ちょっと足元を見ていない僕よりも、絶対に危ないと思うんだが?

 それはそうと写真には橋の下の景色が写っている。くらくらするが、さすがに写真を見ても実際に落ちるわけがない。デジタルな景色の中、僕は橋の下にあるものを見つけた。


 なんだ、そういうことだったのか。



 そして僕は、気がつけば病院のベッドの上にいた。ちなみに起きたときにすぐ病院だと思ったというわけではなく、看護師さんっぽい人やら医者っぽい人やらが話しかけてきてじわじわ病院だとわかっていった感じだった。

 ふわふわした感覚はいつの間にか跡形もなく消えていて、僕は恋とも夢ともつかないものから、完全に醒めてしまっていたのだった。



 ざっくり言うと、こうだ。僕は遠足のときに運悪く足を滑らせて、まぁ、落ちた。


「足元注意しろって言われてたのになー」

 お前にだけは言われたくないぞ、新木!

「オレは落ちてないもん」

 現実は無慈悲だ。だが僕だって、落ちたくて落ちたわけじゃない!

「そーだよなー、お前は運が悪かっただけだよな」

 そ、そうだ。わかってるじゃないか。


「でも親や友達に心配かけたのはちょーっと後ろめたいし、妙な話をしてさらに心配させたりするのは嫌だなーって思ってるわけだ」

 僕は頷く。もちろん、むやみに心配をかけるのは良くない。

「でもちょっと気になることがあるなー、わかんないけど誰かに話したいなー、できれば心配とかしてない奴がいいなー」

 僕は歩みを緩めた。なんなんだ、君は。


「ん、違った? じゃあいいや」

 変わらない調子で歩きながら、奴は言う。

「オレが言いたいのは、オレは別に心配してないよってこと。だって現実、お前はそこで元気にしゃべってるわけじゃん。だったら何話そうが何考えてようが、どうでもいいだろ」

 ……どうでもいいは言い過ぎじゃないか?


 文句を言い、少し考えてから、僕は足早に新木に追いついた。とにかく帰る方向は一緒なのだ。雑談代わりに何か話していても、うん、変なことはないはずだ。


 とにかく僕は落ちた。

「知ってる」

 しかし橋の下には何と! 安全ネットがあったのだ!

「知ってるよ」

 お前人の話聞く気ないだろ!

「だって見りゃわかることだし、オレは見たし」

 そうじゃなくて、会話を楽しもうという気遣いがだな……いや、もういい。お前にそういうのは今後一切期待しない。


「冷たいなぁ」

 冷たいのはお前、いや違う、期待しないんだった。話を進めるぞ。

「はいはいどうぞどうぞ」

 ええいとにかく、そのネットのおかげで僕には大した怪我もなかったわけだ。

「その後ずっと寝てたけどな」

 ずっとじゃない、二日くらいだ。検査でも特に何もなかった。

「よかったよかった。ネット様々だな」

 そうだな。見た目は古くてもできる限りの安全対策はしてあったというわけだ。

「今は安全にうるさいもんなぁ」


 僕が調べたところによれば、二十年くらい前に事故があって、ネットはそのときから設置されているそうだ。

「へぇ、それは知らなかったな」

 新木は感心してくれたが、僕は気が晴れなかった。全然知らない相手であっても死亡事故は気が沈む案件だ。記事で調べて出てきた女の人の顔にも名前にもピンとこなかったこともある。何もかもが曖昧で、はっきりしない。


 新木、僕たち、吊り橋に行ったよな?


 僕の質問に、一歩先を行く新木は軽く振り向いた。

「おう。遠足で行っただろ」

 そうじゃなくて、その後にだな。

「後に? 遠足で行ったところにもう一回? なんでわざわざ?」

 わざとらしく語尾を上げながら、新木は妙なステップを踏む。


 ……理由がないとダメか?

「そりゃあみんな、不自然なことには理由が欲しいだろ?」

 首を傾げる新木の向こう、信号の青が点滅して赤になる。

「現象には理由、存在には名前、それがあってようやく、みんなが納得して安心して承認する」


 歩道ギリギリの黄色いタイルを踏んで、新木は立ち止まる。もちろん僕も、信号を待つために止まった。赤は危険の色。青は安心の色。行ってもいい。ここにいてもいい。そんな承認を待つ。

 危険に踏み出す気はない。それでも、なかったことにするのは心苦しい。だから言う。


 新木、みんなって誰だよ。


 みんななんて、名前のない曖昧な存在じゃなくて、君はどうなんだよ。何を認めて何を認めないつもりだ。

「オレ?」

 新木は車道側の信号を振り仰いだ。直交する青が黄色に変わる。

「オレの世界に何を残して何を消すのかは、もちろんオレが決めるよ」

 車道も歩道も赤になって周囲の動きが止まる。その一瞬に、僕はもう一度訊いた。

 新木、僕たち、吊り橋に行ったよな?


 今度はその質問に対する答えはなかった。

「これはオレのやり方だけど」

 うん?

「忘れたくないことは、覚えておく」

 信号が青になる。

「覚えておけなくても残したいことは、どこかに書いておく」

 日記とかか?

「そう。で、これが肝心なんだけど」

 周囲の安全を確認してから、僕たちはまた歩き始める。


「もし記憶も記録も信用できないなら、名前を付けるんだよ」

 名前がなければ残らないなら、名前を付ければいい。単純な話だ。

「名前を付ければ、お前が忘れてもお前の世界にずっと残るよ」

 ずっと?


 忘れたモノは認識できないはずなのに、残ると新木は言う。

「それは隅っこに転がってるだけかもしれないし、知らない間にお前の世界を食い潰すかもしれない」

 渡り終えたところで、新木は足を止めた。

「好きにしろよ」


 視界の端で、再び青が点滅して赤になる。もう渡り終えたから関係ないのに危険色には意識を引きずられる。

 なかったことにした方が、安心で、安全だ。それでも残しておくのなら、きちんと考えた方がいい。そういう忠告だ。


「じゃ、オレこっちだから」

 言うだけ言って、新木は彼の方向に立ち去ってしまった。帰る方向が同じとは言え、それは学校から見た大まかな方向であって、もちろん帰る家は違う。僕は僕の方向に歩き出す。


 歩きながら考えた。

 たとえば、橋から落ちて亡くなった女性。その人はまるで知らない人で、その人の一生や生死なんて僕には重すぎる。調べたから知っている実在のその名前は、僕の体験に当てはめるには重い。

 曖昧な面影と思い出には、もっと軽い名前がいい。歩きながら、思いついた。タカハシタカコさんなんてどうだろう。たったいま考えたような、手軽な感じがとてもいい。

 明日も覚えていたら、新木に話してやろうかな。別にわざわざスマホを開いてメッセージを送るようなことでもない。忘れたらそれまでの、軽い話。


 軽くなった足取りで、夕飯のことでも考える。確か好物を作ってくれると言っていた。心配の反動だから少々後ろめたいが、好物自体は楽しみだ。

 その思考の端をふと、どうでもいい疑問がかすめる。


 そういえば新木の奴、下の名前は何だったかな。

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橋の向こうに見えたもの、あるいは見えなかったもの 計家七海 @hakariya73

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