橋の向こうに見えたもの、あるいは見えなかったもの

計家七海

相談編あるいは見えたもの

 それは吊り橋を渡っていた時のことだった。

 そこに綺麗な女の人がいたのだ。

 そして、橋が大きく揺れた。

 風の音と空の青さをよく覚えている。



 その日は校外学習の日だった。自然に親しむとかいう目的で、僕たちは山を歩かされていた。簡単に言ってしまえば遠足だ。小学校の頃は遠足は遠足と言われていたのに中学校に入ってからは校外学習とか言ってかしこまるのはどうしてなんだろう。歩きながらぼやいていたら、同じ班の新木が言った。

「山でも博物館でも工場でも、とにかく校外ならいっしょくたにできるじゃん。三年はオペラ行ってるらしいぜ」

 それはうらやましい。オペラが好きというわけではないが――正確に言うと一度も見たことはないので好きでも嫌いでもないが、先日の雨のせいで山道はところどころ滑って足が疲れる。少なくとも今日行くのなら屋内の方が絶対いい。


 とにかく休憩したいと思っていたとき、視界が開けて現れたのが吊り橋だった。規模は小さいが、吊り橋と聞いて想像するタイプの、オーソドックスな、と言うよりむしろレトロな吊り橋である。

 もちろんこの現代に生き残っているからには橋としての強度は問題ないのだろう。しかし構造的に人が渡れば橋が揺れ、その揺れは渡っている人にもろに伝わる。すでに疲れていた僕は、想像だけでげんなりしてしまった。


「なんだよ広橋、高いとこ苦手?」

 君は高いところ好きそうだよな、新木。いや別にバカだと言っているわけじゃないぞ。ただ脳天気……いや、やたら楽しそうなときが妙に多い……。

「楽しいのはいいことだろ?」

 もちろん、そうなんだが。

「いいからちゃっちゃと渡って弁当にしようぜ。オレらの班ラストだし」

 橋の向こうに休憩広場があるらしい。新木のみならず、最後尾を務める隣のクラスの先生も急かしてきた。急かさなくとももちろん渡る。別に僕は、高いところなんて怖くない。ただちょっと、下は見たくないなぁと思うだけだ。


 さほど長い橋でもない。一歩ずつ進めば大丈夫だ。だから僕は一歩ずつ確実に進んでいった。すぐ後ろを新木が歩いていた。わざわざ振り返らなくとも声で様子がわかる。

「おー、いい景色!」

 スマホらしきシャッター音。スマホを落としたらどうするつもりだこいつ。だから脳天気だと言うんだ。


 その脳天気さにつられて僕も顔を上げた。確かに景色は悪くない。でも揺れている。だから早く渡るべきだ。再び渡ることに集中しようと思ったときに見えたのが彼女だった。

 目を奪われた僕に新木が言う。

「あんまり目合わせない方がいいぞ」

 どういう意味だ、失礼な。

「早く渡れ、広橋」

 先生に言われては仕方がない。彼女の方を見ながら進み始めようとしたとき、橋が大きく揺れた。

 それ以来、彼女の顔が忘れられない。



 彼女の顔が頭から離れないし、心なしか足元もふわふわする。自分で言うのも何だが、これこそ恋ってやつだろう。教科書に載りそうな恋のお手本だ。

「そうかなぁ」

 いかにも聞き流してますよ、みたいな相槌を打つんじゃない。

「聞いてる聞いてる」

 スマホをいじりながら言うことか?

「ちゃんと聞いてるし流してないし否定してるって」

 否定するな! 根拠もなく人の気持ちを勝手に否定するな!

「根拠か-、根拠ねー、根拠っつーかさー」

 新木は単語を繰り返し、不意に黙った。

「そーだな、確かに人の気持ちを否定するのは良くないな。まぁいいか、恋でも」

 雑に肯定するな!

「肯定しても否定しても怒るなよー。疲れない?」

 君が疲れさせてるんだぞ。

「疲れたんならさー、いいかげん帰ったら? ここオレんちなんだけど」


 ううむ。そこで相談なんだが。

「えー、相談なら十分乗ったじゃん。もう帰れよー」

 いや君、どう考えても真面目に聞いてなかっただろ。何が十分だ。

 やっぱり相談するなら他の人間がいいだろうか。考えていると、新木がスマホから顔を上げた。

「はいはい聞くよ。で、一体どういうご相談?」

 若干不安は残るがこちらから言い出したことだ、向こうが聞く姿勢をとるなら応えないわけにもいくまい。つまりだな。

「つまり?」

 その……。

「どの?」

 できれば彼女に会いたいと思っていてな。


「えー、やめといた方がいいんじゃないかなぁ」

 どうして君はそう消極的なんだ。会うくらいいいだろう、会うくらい。

「つってもさー、会ってどうすんだよ」

 どうする、か。最初にすることは決まっている。まず名乗り、しかるのちに名前を教えてもらう。恋だろうと愛だろうと、何はなくともそこからだ。


「名前か。……意外といいかもな?」

 新木は少し考えてから、肯定的な返事をしてくれた。そっちの方が意外だ。

「よし、じゃあその手で行こう。とっとと行こうぜ」

 新木は部屋の片隅にあったリュックサック――この前遠足で使っていたやつだ――の中身を確認し、そのまま背負って部屋を出る。

 おい待て、どこに行くつもりだ。

「吊り橋だろ? 会いに行くならさ」

 そうか? いや、そうかもな。彼女とで会えた運命の場所だ。また出会えても不思議はないか。しかしなんだ、君も来るのか。

「相談ってそういうことだろ? どうせ今のお前に付き合ってやれるのオレくらいだろうし。そもそもお前、一人で行けるの?」

 どうして君は一言多いんだ?



 おい新木早くしろ! 橋はもうすぐだぞ。

「渡るときは自分のがビビってたくせによく言うよ」

 ビビってなどいない! いいか新木、間違っても彼女にそんな悪評を吹き込むなよ。

「えー、どーしよっかなー」

 付き合ってくれるのはありがたいが、この軽口には困ったものだ。しかし今の僕にはわかる。彼女はこの先にいる。吊り橋はもうすぐなのだ。ここでくじけているわけにはいかない。


 だから新木を急かしてなだめて、どうにか僕はたどり着いた。少し開けた視界、遠くに夕日が落ちていく。橋は山の陰になっていて既に暗い。


 橋の真ん中に、彼女がいる。僕は叫んだ。


 はじめまして! お名前を教えてください!!


 言ってしまってから気がつく。見かけただけとは言えこの前も目が合ったのだから厳密にははじめましてではないし、礼儀としては僕から名乗るべきだったのだ。向こうも困ってしまったのか、呆然と、あるいは茫洋と、なんだかはっきりしない表情でいる。

 どうしたものかと振り返ると、新木は橋の手前でスマホをいじっていた。ええい頼りにならない奴だな。


「現代では――」

 だからその声が新木だと一瞬気がつかなかった。スマホの画面を見たまま、奴は言う。

「名前のないモノってのは、基本的に存在しないモノだ」

 ……なんだって?

「先生の点呼を無視したら欠席になるってこと」

 それなら少しわかるが、今は遠足じゃないんだぞ。


『わたしは――』

 かすかだが、声が聴こえた。妙に遠くてかすれているが、彼女の声だ。素敵な声ですね。

『まってるの――』

 彼女の名前ではなかった。だが、彼女の意志の表明だ。

「それは存在証明にはならない」

 あのなぁ新木、さすがにそれは失礼だろう。

「マナーなんて気にしてられる状況じゃないぜ。広橋、お前の問題だぞ」

 僕の問題……まぁ確かに、新木に頼るべき問題ではないのかもしれない。


 気を取り直して質問する。何を待っているんですか?


 長い沈黙が流れた。新木は相変わらずスマホを操作している。妙なことを言われるよりはマシだ。

 やがて、彼女が言う。

『タカハシタカシさんとか――どうでしょう……?』

「あからさまに、いま考えたって感じ」

 新木は嘆息したが、僕の考えは違う。


 惜しい!

『え……?』

 実は僕、広橋比呂志なんです! タカハシタカシ。ヒロハシヒロシ。ほとんど同じだと思いませんか!?

『そ、そうかも……?』


「全然違うだろ」

 新木がスマホから顔を上げた。

「いいか広橋、彼女の待ち人がお前でもよかった場合、お前は連れて行かれかねないし」

 スマホを持っていない方の指で橋の真ん中を指さす。

「お前が連れてかれた場合、そこにいるのは誰でもない怨霊になる」

 怨霊って、いきなり非現実的なことを言い出すな、君。

「荒療治だけど仕方ないかなー。これ、遠足の時の写真だけど」

 そういえばこいつ、写真撮りまくってたな。

「見ろよ広橋。ここにお前が写ってるだろ」


 新木が手招くので、仕方なしに橋の手前まで戻ってスマホを覗く。風景写真もあればクラスメイトの写真もある。マメな奴だな。

 問題の写真は吊り橋の写真だ。手前に渡り始めようとする僕が写っている。奥には渡っている途中の同じ班のメンバー。中学生ばかりのそこには、女の人など写っていない。……どういうことだ?

「この橋には、誰もいないんだよ。ほら」

 再び、新木が橋の真ん中を指さす。そこには。

 誰もいなかった。

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